1 / 4

第1話

 除夜の鐘が鳴り響いていた。  頭上には満天の星。空気はキンと冷えて澄み、どこか清浄な気配がする。  山頂だというのに、人いきれがするほど辺りは混みあっていた。荘厳な構えの寺院に似つかわしくない賑やかさだったが、それもこの大晦日の風物詩の一つなんだろう。人々の高揚感に(いざな)われて、おれも気分が浮き立つのを感じていた。でもそれはたぶん、この場所へ来る前からずっとだ。 ――除夜の鐘でもつきに行くか。  そう竹島さんが連絡してきたのは、つい先刻のことだった。  おれの家では大晦日は家族で過ごし、元日に親戚の集まりへと出かけるのが恒例となっていた。年末年始は竹島さんも実家に戻ると言っていたので、今年も例年通り、いつものようにすき焼きを食べ(すき焼きもまた、大晦日の恒例だ)、大学生になったけどお年玉ってもらえるんだろうかなんて考えながらのんきに紅白なんかを見ていた。  去年は受験だったし、そうでなくても中高生はだいたい暮れの押し迫った日などは家にいる。いつもと同じ年末年始。でも、だから、正月が明けるまではもう竹島さんに会えない。ほんの数日のことだけれど。  正直なところ、寂しかった。本当は毎日だって顔を見たい。  そして本当のところ、年の明ける瞬間に一緒にいたかった。  だから、突然のその誘いにおれは、間髪入れずに即答した。 ――行きます。  ははっ、と電話の向こうで、竹島さんの快活な笑い声がした。  愉快そうに笑う竹島さんの顔が浮かんできて、息がつまる。  すぐ耳元で聞こえる竹島さんの声は、心臓に悪い。耳元で竹島さんの声を聞くときは、たいてい、だからだ。  ぞわぞわと、背中をかけ上がってきそうな感覚を振り払う。 ――じゃ、迎えに行くから。  竹島さんはおれに近くの駅で待つよう告げて、電話を切った。迎えに、って、どういうことだろう。もしかして、車で来るんだろうか? え、竹島さんって、免許持ってるのか。車、持ってるんだろうか。  そういうことのほとんどを、おれはまだ知らない。だってまだ、ほんの三月(みつき)足らずなのだ。竹島さんが、おれの恋人になって。  恋人、という単語に、自分で思ったくせに顔から火が出そうなほど恥ずかしくなって、おれはバタバタと支度した。 「あら、出かけるの?」  洗い物を済ませてリビングへ入ってきた母親が訊いた。 「うん、ちょっと先輩に誘われて。初詣で行ってくる」  嘘ではない。嘘では決してないのだけれど、妙に後ろめたくて母親の顔が見られず、おれはサイドボードの引き出しから家の鍵を取り出すと、マフラーを巻きなおしながら玄関へ向かった。 「こんな寒いのに初詣でか。物好きだなあ」  テレビから目を離さず父親が言い、追いかけるように母親が言葉を足した。 「あんまり遅くなっちゃだめよ」 「うん」 「気をつけてね」 「うん。行ってきます」  そそくさと外へ出て、駅まで走る。待ち合わせ時間までにはまだ間があるけれど、走らずにいられなかった。早く行って気持ちを落ちつかせておかないと、浮き立っているのがばれてしまう。駅前で呼吸を整えていると、見知らぬSUV車が近寄ってきた。運転席で竹島さんが片手を上げる。うわ、と心臓が跳ねる。かっこよすぎる。 「この車、竹島さんのですか?」 「いや、親父のなんだけどな。就職祝いにってもらうことになった。どうせ買い換えたがってたからな、ちょうど良かったんだろ」  おれが乗りこむと、竹島さんはなめらかに車を発進させた。  竹島さんは春から、映画の制作会社に就職する。ずっとバイトをしていたところだ。就職活動をしている気配がなかったからどうするんだろうと思っていたけれど、相変わらずそつがない。映研の部長で脚本も監督も主演もやって、頭もよくて見た目もいい。面倒見もいいし要領もよくて映研の部内でも大学の構内でも男女問わず人気があって、そんな人だから会社側としても大歓迎だったんじゃないだろうか。以前から声をかけられていたらしかった。  本当になんだってそんな人が。おれなんかの。  いつだって思う。いまだに信じられない。そんなことを言うと竹島さんに苦い顔をされるので決して言わないけれど。なんだってそんな人が、おれなんかと。  とにかく、春には竹島さんはいなくなる。映研からも、大学からも。  それは正直、なんなら考えたくないほど、頭の中から追いやりたいほど、嫌だった。もちろん竹島さんが卒業したって、それで別れるとか、そういうことではないけれど(そうだったらどうしよう。いや、そんなはずはないか。竹島さんにかぎって)、でも顔を見られる時間は今よりずっと減るだろう。だから、一分一秒が惜しい。一分でも一秒でも、一緒にいたかった。  車は繁華街を抜け、国道に入り、山嶺に寺院を頂く山を目指して滑るように走った。  傍らの竹島さんを、おれは横目に盗み見る。  竹島さんは、背もたれに体を預け、まっすぐに前を見つめていた。別に盗み見たりなんかせず、堂々と見たってちっともかまわないのだったが、さすがにまだそんな度胸はなかった。というか、あんまりしっかり見ると心臓が痛くなる。  その端正な横顔を見ながら、また嬉しさがわいてくる。  大晦日の夜に、こうして竹島さんといられるなんて。  竹島さんと、新年を迎えられるなんて。 「だからいつも言ってんだろ」  唐突に、竹島さんの唇が動いた。 「え?」 「ちらちら見んなって。どうせならガン見しろって」  そう言って顔を向け、にやりと笑う。 「いや、あの。……前、見てください」  顔が火照って、耳まで熱くなる。竹島さんはそうやって、いつもおれをからかってくる。  でもしょうがないのだ。大学に入って竹島さんに憧れて映研に入部して、ずっとこっそり目で追いかけていた人だ。今さらこんな至近距離で、なかなか凝視できるものでもない。  竹島さんの言葉を疑うつもりなんてもちろん毛頭ないけれど、時々、全部おれが都合よく見ている夢なんじゃないかと思うのに。  竹島さんがおれのことを好きだなんて。  目を逸らしてフロントガラスの向こうの道路の先を見ていると、頭に竹島さんの手の感触がした。何やら後頭部をわしわしとかき乱されている。そのうちその手が首筋に降りてきて、襟足の中へ入りこんだ指にうなじをするりと撫でられた。 「あっ、」 「ん?」  竹島さんの手のひらの温かさを直に感じて、ますます頬が熱くなる。優しく動く親指が耳の後ろをたどり始めて、背筋がざわついてくる。 「あの、あ、あの」 「んー?」 「……危ない、ですから」  ふ、と竹島さんが笑う気配がして、温かな感触がおれから離れてゆく。  本当は、もっともっと触れてほしい。  そんなふうに思ったのを知られたくなくて、でもきっとバレてるだろうと思って、結局それから寺の駐車場に着くまで、おれは竹島さんのほうを一度も見られなかったのだった。  

ともだちにシェアしよう!