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第16話

 始発電車で三時間、タクシーで一時間。  百々寿司の前の道に座って、山の端から差し込んでくる明け方の光を見ていた。吐いた息が白い。初めてここで朝日を見た時より、ずっと寒い。  店の前で待ち続けて、結構な時間が経つ。駅で一晩明かしてそのまま始発で来たから、出ていった時に持ち出した鍵は持っていなかった。  休業日だから、まだ寝ているのか。どこか遠くに仕入れに出かけてしまったのかもしれない。それでも、待ち続けるという選択肢しかない。冷え切った身体が痺れてきて、もぞりと身体を動かした。  カチャン。  かすかな金属音を耳が拾う。  ばっと戸口のほうを見る。息も忘れて見つめた先で、ガララ、と引き戸が開く。  中から、長身の男が出てきた。  「……ぁ……」  黒いパーカーに、ジーンズ。少しぼさぼさの黒髪。  その姿を見た瞬間、何の言葉も出てこなくなった。  謝罪も、言い訳も、懇願も、全部、言葉が喉に詰まって、ただ見つめることしかできない。  抱えていたバッグが地面に落ちる。ピク、と音に反応して、人影がこちらを振り返った。  少しだけ痩せたように見える顔。黒い切れ長の目が、こちらを捉えた瞬間、はっと大きく見開かれた。  「ま、こと……ぁ……、ッ!」  言いかけた言葉ごと、近づいてきた大きな影があっという間に覆いつくす。目の前が見えなくなる。ぎゅう、ときつく、真の腕の中に抱き込まれていた。  身動きも取れないほど抱きしめられて、その温かさに、ぐっと目頭が熱くなる。  「……真、ごめん。突然いなくなって」  何度も何度も、頭の中で繰り返していた言葉。言いたくてたまらなかった。けれど、電話をかけることも、戻ってくることもできなかった。『ふつう』でないといけないと、必死だった。  「あの日、大学の奴らに会った。それで、泊めてもらってる奴に会わせろって言われた」  言葉が口から溢れ出る。冷たい身体が真の体温で温められるように、心の奥で固めていた思いが溶けだしていく。  「俺、自信なかった。あいつらが何か言っても、空気読んで、一緒になって笑うことしか、できないんじゃないかって。だから、車に乗れ、って言われて、乗った。断れなかった。『ふつう』じゃなくなることが、怖かった」  みっともない。情けない。それでも、全部知ってほしい。これが金子千隼という人間なんだと、真に知ってほしかった。  まくしたてるような言葉を、抱きしめたまま真は黙って聞いている。零れた涙が、真のパーカーに吸われていく。  「だけど、違った。『ふつう』にならないとって、俺が勝手に、怖がって、否定して、目を塞いでた。ずっと、言えばよかった。ちゃんと、思ってること、自分の言葉で、全部」  口を噤んで笑うのではなく、思ったことを声に出せばよかった。周りにいる人の顔さえ、ちゃんと見れていなかった。  きっと、『ふつう』の呪いは、自分で自分にかけていた。  「真が俺のこと、『特別』だって言ってくれて……それでやっと、気づけたんだ」  真の背中に手を回す。ぎゅう、と腕の中の身体を抱きしめる。温かい。ここにしかいない。たった一人しかいない。  「真は、俺にとって『特別』だ」  右肩が湿っている。かき抱くようにきつく背中にまわった腕が、小刻みに震えている。  「……なあ、俺、勝手だろ?勝手で、情けなくて……なのに、なんでお前が泣くんだよ」  「千隼」  名前を呼ぶ、真の声。聞きたかったその声に、身体中が震えて、また涙がこぼれていく。ごめん、と呟くと、小さく真が首を振った。  「今、千隼がここにいる。それだけで、いい」  絞り出したような、掠れた声。普段と違う声に乗った感情に、どれだけその心を振り回したのかがわかる。すり、と頬に真の髪が触れる。温かい吐息が耳にかかる。  「もう、離せない」  はっきりと、囁かれた言葉。腕の中で、何度も頷いた。  『ふつう』でいたら、手に入らなかった場所。手を伸ばして、初めて掴んだぬくもり。誰かの存在が怖さでなく、安らぎになる感覚を、初めて感じた。  「……答え、まだ、聞きたいか」  俺の呟きに、ゆっくりと真が腕を解く。見つめあっただけで、もうその答えを知っていることはわかる。それでも、真はゆっくり頷いた。  「……ああ。教えてくれ、千隼」  お互いに涙に濡れた瞳が、朝日に照らされた海原のように、穏やかに光っていた。  「初恋だよ。それも、特上のやつ」  初めて、真が笑った。

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