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第15話
飲み会が終わったのは、夜の十時過ぎだった。二次会の流れになったところを、ちょっと抜けようぜ、と須藤に誘われた。新見と美嘉も加わって、四人で二次会。先輩たちがいる飲み会よりはいい。
けれど、向かう先がどこかわかった瞬間、今すぐ帰りたくなった。
「やっぱシメは寿司だろ!」
「お前が食いたかっただけだろ。あ~、俺ラーメン食いてえな~」
チェーン店の回転寿司。寿司屋は、一番来たくない場所だった。
それでも、このアルコール交じりの乗り気な雰囲気の中で、『帰る』という言葉が、口に出せない。情けなさと、今すぐ帰りたいという気持ちを堪えながら、俯きがちに三人に続いてボックス席の通路側に座った。
「でもさあ~、マジで千隼、よく生きてたよね。一カ月も連絡つかなかったから、ほんとに死んじゃったかと思った」
ほとんど無意識で人数分のあがりを用意していると、隣に座った美嘉が話しかけてくる。さりげなく寿司の流れるレーンから視線を外しながら、曖昧に笑う。
「ゆめちゃん、だっけ?あの子も超ビビってたよな。急に連絡してきて、車出して今から言うとこに連れてって~、って泣きながら言ってきてさあ……」
「千隼が死んでたらどうしよう、ってビビってたんじゃねーの?ま、一カ月も黙ってた時点でヤバいけど」
三人が次々にレーンから皿を取りながら話すのに合わせて、無理矢理笑う。明らかに顔が強張っている。
向かい側に座った新見とふと目が合って、あれ、という顔をされた。
「千隼、なんも取ってねーじゃん。食わねーの?」
「え、あ……」
「千隼が好きなの、サーモンだっけ?あ、ちょうど来るじゃん、取ってあげるよ」
美嘉が言いながら、レーンにさっと手を伸ばす。断る言い訳を口にする暇もなく、目の前に皿が置かれた。丸くて赤い皿の上に、二貫のサーモンが乗っている。
「……」
全然違う。
色も、艶も、全部違う。
「あれ、好きじゃなかった?」
「え、あ、いや、好き好き!ありがとな!」
探るように、横から美嘉が覗き込んでくる。慌てて礼を言いながら、ぎゅっときつく箸を握った。
「……ぇ、あれ……?」
何故か、うまく握りが掴めない。なんとか一貫取り上げても、手元がひどくおぼつかなくて、醤油をつけるのにも手間取る。
「お、かしいな……なんで……?」
困惑しながら顔を上げると、前に座る新見と須藤が、驚いたような表情でこちらを見ていた。
「千隼、お前、どうした……?」
「え、何が?」
「何がって、お前……なんで泣いてんの?」
ぱちり、と瞬きをする。
頬を伝う、濡れた感触。顔を動かすと、ぼたぼた、と丸い水滴が二粒、机の上に落ちた。
「え……」
次から次へと、溢れるように涙が零れ落ちていく。箸を握った右手も馬鹿みたいに、ガタガタ震えている。だからうまく掴めなかったのか、と何故か冷静に思った。
なんでだろう。理由を探して自分の中を覗き込む。浮かんでいた答えは、ひどく単純だった。
食べたくない。
上書きしたくない。
真が、『初恋』だと言った、あの味を。
ぼと、と音を立てて、箸の間から握りが滑り落ちた。
「……っ」
蓋をした、一カ月の記憶がどっとあふれ出す。
派手な思い出なんてない。一緒にあの狭い一軒家で、一カ月暮らしただけ。毎日、朝起きて、一緒にメシを食って、店を開けて、夜にはまた一緒にメシを食って寝る。なのに、どうしてこんなに懐かしくて愛しくてたまらないんだろう。
全くつかめないあいつに、死ぬほど振り回された。
でも、俺のことを、ずっと見ていてくれた。俺の言葉に、子供みたいに喜んでくれた。俺を、『特別』だと言ってくれた。俺に、恋してくれた。
まだこの記憶は残っている。けど、いつまで残る?日常に塗りつぶされて、上書きされて。
教えたいと思ったあの言葉も、いつか俺からも、真からも、消える。
カチャン、と机の上の皿が音を立てた。ひっくり返った皿から、醤油が零れる。けれど、誰もそんなことは気に留めていなかった。いきなり泣き出したかと思えば、突然立ち上がった挙動不審な男を、三対の目が、不審そうに見上げている。
「おい、千隼……」
呼びかけられて、ビクリと身体が竦む。この怖さに、耐えられなかった。耐えられなくて、手放した。だけど。
「俺……っ」
今、言わなきゃ駄目だ。そんな予感が、怯えて震える両足を支える。
耳の奥で、真がくれた言葉が聞こえる。
もう、『ふつう』じゃなくてもいい。俺は、『特別』でいたい。
「……っ」
涙目で、鼻水が出て、引きつった唇は、誰かを馬鹿にできないくらい酷い顔だった。
それでも、三人に向かって初めて、震えて掠れた声で、俺は自分の言葉を口にした。
「俺……っ、好きな人が、できたんだ」
カタカタと全身が震えている。黙ったらもう二度と喋りだせない気がして、必死で喉から声を押し出す。
「一カ月、一緒にいたやつ。けど、お前らが来たとき、それ、言えなくて」
俯いた先で、爪が食い込むくらい両手を握りしめる。きつく目を閉じた。
「相手が……男、だから」
沈黙が身体に刺さる。怖い。嫌だ。痛い。苦しい。今すぐ消えてなくなりたい。
「相手に黙って、私たちとこっちに戻ってきたってこと?」
最初に口火を切ったのは、真横にいた美嘉だった。少し戸惑ったような声色。
「……うん」
「こっちに戻ってきてから連絡したの?」
「し……してない」
「はあ!?してないの!?」
突然語気を強めた美嘉の声に、反射的に目を開いた。見下ろした先の美嘉の目は、何度も見たあの夢のように冷たくなかった。それどころか、熱く、少し怒ったようにも見える。
「え……」
「お前、それはまずいだろ」
「今すぐその人のところ行ってこい。で、土下座してこい」
続けて、向かい側の席で須藤と新見が呆れたように言う。二人の目も、呆れてはいるけれど、突き放すような冷たさはない。むしろどこか茶化すような、あたたかい目に見えた。
「え、えっ……」
「よくわかんないけど、泣くほどその人のこと好きなんでしょ!?」
「……は、はい」
「じゃあこんなとこでぼーっと寿司食ってる場合じゃないでしょ!」
ものすごい剣幕で詰めてきた美嘉に、バシッ、腰のあたりを叩かれて、よろよろとよろめいた。向かい側にいる新見に、ぼうっとしながら声をかける。
「あの、気持ち悪いとか、なんか、そういうの、思わ、ねーの……?ふつう、じゃ、なく、ないか……?」
うーん、と新見が首を傾げる。少し考えてから、カラッと「いや、別に」と言った。
「普通って、そんなん別に、決まってるもんでもねーじゃん」
すうっと、身体の中から、何かが抜けていくような気がした。
それは多分、赤い教室で、壊れたランドセルで、あの時助けてあげられなかった、好きだった男の子の顔だった。
「っつーかさ、千隼っていつも自分のことあんま話さないじゃん?だから、ちょっと嬉しいわ」
「そうそう、なんか千隼のこと、あんまり知らなかったよなって、千隼がいなくなってから、俺達初めて気づいたんだよな」
須藤と新見が、少し照れ臭そうに笑う。須藤は笑うと目がなくなって、新見は右頬にえくぼができる。こいつらって、こんな風に笑ってたんだ。初めてちゃんと、二人の顔を見た気がした。
「それは私も思ってた、けど、でも!今はそれよりやること、あるでしょ!」
横にいる美嘉の顔を見る。勝気そうな釣り目が、ほんの少し緩んで、にっと豪快に笑う。
「とっとと行って、謝ってきな!」
駅に向かって走りながら、スマホで目的地への最短ルートを検索する。時刻は夜の十一時近く。検索欄に表示されるのは、始発出発の検索結果だけだ。
それでも、足は止めない。今ここで、立ち止まりたくなかった。
溢れて今にもこぼれだしそうな感情を抱えたまま、星のない夜の街を走った。
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