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ようやく天守に着き、武器や防具などの展示を見ながらゆっくりゆっくりと階段を上る。
ほんの少し先か、ほぼ隣をずっと歩いていたはずの亮治は、いつの間にか俺の真後ろにいた。
想像以上に急な階段だけに、足腰に不安のある俺を心配したんだろう。
恩着せがましくもなく、それをごく自然に当たり前の事としてできるのが亮治で...そしてこれこそが俺達二人の時間なんだなぁなんて思う。
狭く急な、そして低い階段をなんとか三階まで上がれば、ようやく目的の最上階に着いた。
素晴らしい。
360℃のパノラマの景色に思わずゆっくりと深呼吸する。
決して寒すぎはしないが、それでも初冬のピリッとした乾いた空気が心地好い。
怠さがまだ残っていたはずなのに、自然と背筋が伸びていた。
風を遮るつもりか、それとも暖を取りたかったのか、亮治がピタリと肩を寄せてくる。
ドキッとしながら慌てて周囲を見渡してみたが、幸か不孝か今この最上階には誰もいなかった。
「ねぇ、たかちゃん......」
夜とはまるで別人の、いつもの甘えん坊な瞳が俺を映す。
「ん? 何?」
「うーん...あのねぇ...たかちゃん、何か考えてない?」
俺と同じく周囲をチラリと窺うと、亮治が俺の左手を握ってきた。
俺もその手をしっかりと握り返す」
「考えとる事なぁ...あるで」
「何?」
「......一つは、お前が引退するまで俺の童貞はお預けでええって事」
「......へ? 俺、次は俺の番かぁってちゃんと覚悟しとったよ?」
「ほんまかいや」
ニッと笑い、コイン式の望遠鏡の為に置いてある踏み台に腰をかける。
亮治は俺の足元にチョンとしゃがんだ。
「昨日お前とエッチしてみて思うたんよ。気持ちがええか悪いかは一旦置いとくとして...」
「置いとくん!? 気持ちよう無かった!?」
「......良かったって、ぶち良かったよ。ほいでも俺がお前と同じ事して、ちゃんと気持ちようにできるかどうかわからんじゃろ? 何より...今日の俺見てわからんか? あれだけ時間かけてゆっくり無理の無いようにしたつもりでも、俺の脚も腰もガクガクじゃもん。これからプロとして体のケアを一番に考えんにゃいけんお前に、こんな思いさせるわけにいかん」
「ほんまにええん?」
「まあ引退までお前のバージン貰うんは我慢しといちゃるわ」
「それまでに俺が、たかちゃんのチンチン役立たずにするかもしれんよ?」
「......ま、それならそれでええんじゃない? そこまでされたらさすがに俺もお前の処女寄越せ!とは言えんじゃろ。あともう一つは......」
俺より少しだけ低い場所にある亮治の頭をポフポフと叩く。
亮治は磨きあげられた板張りの床に膝を着くと、俺の太股に額を擦り付けてきた。
「もうええ...なんか、聞きとうない」
「ええけ、聞けぇや」
「嫌じゃ。たかちゃん、ろくでもない事言う時の顔しとるもん」
「亮治...お前、福岡に行ったら...とりあえず女抱いてこい」
顔を上げないままの肩がピクリと震える。
怒ったらしい亮治は、俺の腿に噛みついてきた。
「痛いってば」
「わけのわからん事言うけじゃろ! 女抱けとか、どういうつもりで......」
「最後まで聞けって」
泣いてしまうのではないかと思えるほど声を震わせている亮治の頭をギュッと抱き締める。
縋るように長い腕が腰へと回された。
「昨日はな、もしエッチができてもできんでも...気持ち良かったとしてもそうでもなかったとしても、お前にそう言わんにゃいけんと思うとった。お前はこれからどんどん有名になるんじゃし、そうなったら俺の存在は足枷になるんじゃないかと思うとった。それに、知らんだけでいざ女とヤッてみたら...やっぱり男の体なんかよりも気持ちええかもしれん。女子アナとかアイドルとか、綺麗な人と仕事する事も食事する事もあるじゃろうし、その先を望まれる事もあるじゃろう。ほじゃけ、まずは女とヤッてみて、ほんまに男の俺が恋人でええんかじっくり考えてみぃって言うつもりじゃったんよ」
「そんな事、あるわけないが......」
「言うつもりじゃったって言うたじゃろ。昨日お前としてみて...女でも男でも関係ない、俺はお前を誰にも渡しとうないって思うた。お前も絶対、俺以外なんて欲しいないはずじゃって」
「ずっと言うとったじゃん...たかちゃんしかいらんって」
「ほうじゃの。ほいでも俺は、手放さにゃいけんかもしれんと思うとったし...でもそんな事できんて昨日気付いたんよ。ごめん...お前の本気、なめとったわ」
怒りが解けたのか少しは嬉しくなったのか、まだ拗ねたように頬を膨らましながら顔を上げた。
微かに目元があかくなっていて、申し訳なさに胸が痛む。
「俺は勉強終わったら、広島に戻ってお前の帰り待っとる。ほじゃけお前はボロボロになるまで必死で頑張って、それでももうそれ以上俺をプレーで喜ばせられんと思うたら...その時は安心して帰ってこい。何年後でも、ちゃんと待っとるけ」
「お尻洗って?」
「バカか。その時はお前がケツ洗う番じゃ」
「......無理じゃって。たかちゃんの体、俺が作り変えるって言うたじゃろ?」
ギラリと一瞬だけその目に浮かぶ狂暴な光。
昨日の夜を思い出して背中がゾクゾクする。
もう...作り変えられているのかもしれない。
「それならそれでもええよ。どっちにしても、俺にはお前しかおらんけん。ただな、一つだけ約束してほしい」
「約束?」
「お前が俺を裏切るとは思うとらん。ほじゃけど付き合いで女のおる席に顔出さにゃいけん時もあるじゃろうし、先輩にエッチな店行くって呼び出される事もあるかもしれん。そんな時は、俺の事は気にせんでもええけ行ってくれ。でも行ったら行ったで教えて欲しい...いきなり週刊誌で写真見るとかなったら、なんぼ信じとってもやっぱりショックじゃと思うけ」
「行かんし! 俺をそんな店に誘う先輩なんかと付き合いとうないもん」
「そうはいかんじゃろ。まあ、行かんのなら行かんでええ。とにかく行ったらちゃんと正直に教えるって約束してくれ」
「......わかった。でも俺は、たかちゃんが誰かに誘われてもそういう店には行って欲しいない」
「心配すんな。俺は誘われたとしても行かんよ。俺の体は...お前だけのモンじゃけ」
ゆっくりと立ち上がる。
亮治も立ち上がると、ギュッと折れそうなほどの力で俺を抱き締めた。
「俺もたかちゃんだけのモンじゃって自信持ってや」
「お前は俺のモンじゃけど...しばらくはファンのモンでもあるけ」
「それは野球選手としての俺じゃろ。たかちゃんの事が大好きな俺は、たかちゃんのモンで?」
一瞬チラリと辺りを見回す。
相変わらずその階にいるのが俺達だけなのを確認すると、俺から亮治の唇に唇を合わせた。
「知っとる。幼馴染みのお前は、会ったときからずっと...これからもずっと...俺だけのモンじゃ。ちぃとの間だけ、野球界に貸し出しちゃる」
「ちょっとだけ行ってくるね。関西に遠征の時とかオフの時には会いに行くけ、いっぱいエッチしようね」
「おう、成績さえ残しゃなんぼでもさしちゃるわ」
ポケットから100円玉を取り出し、望遠鏡のコイン投入口に放り込む。
丸いレンズの向こうに見えるジオラマのような景色。
冬ではなく、春や秋の過ごしやすい時期に来たら尚美しいんだろう。
特にモミジの色付く季節ならば感動すら覚えそうだ。
ここにそんな季節に来るのは何年後になるのか......
早く来たいと思う反面、何10年も来なければいいとも思う。
その時ふと、ドラフト会議の時の事を思い出した。
「なあ、亮治......」
望遠鏡から顔を離すと、ワクワクした顔で亮治が慌ててそこを覗き込む。
途中でコインが切れたのか、慌ててポケットから取り出した小銭を追加した。
「お前、ドラフトで交渉権福岡が獲ったって時...なんで笑うたん?」
そうだ、ずっと聞きたかった。
一番好きな球団からの1位指名がかかったにも関わらず、全く想定していなかった球団に割り込まれたも同然だ。
それも、自分のコンディションを整える為にも必要だったはずのバッティングを捨てなければいけないパ・リーグの球団。
不貞腐れたり悔しそうにするならわかるけれど、あの時こいつは確かに笑ったのだ...嫌々でも悲しそうでもなく、してやったりの顔で。
「まあ、チーム自体は地元じゃし...広島が好きよ、それは変わらん。ほいでもね、福岡の監督ならピッチャー出身じゃけたぶん俺の投げやすい環境をわかってくれるはずじゃ。キャッチャーはパ・リーグ屈指の頭脳派じゃし肩も強い。打たせて取るんじゃなく力で捩じ伏せるタイプの俺は、いざ打たれると連打を食らう可能性が高いけ、配球とリードのええキャッチャーがおってこそ生きると思うとる。そうなると俺がたかちゃんに一番カッコええ姿見せる為にはあのキャッチャーのおるチームこそが本命じゃったんよ」
「お、お前...そんな事一言も......」
「......まあ、これは表向きの理由。勿論本心でもあるけどね。でも一番の理由は...広島からは離れたいと思うとったけ。たかちゃんは勉強が終わったら広島に戻るじゃろ。本拠地が広島じゃったとしたら、物理的な距離は近いのにそれでも自由にたかちゃんに会えん自分が耐えられんと思うた。逃げ出すかもしれんて。そんなカッコ悪い事、できんじゃん? 簡単には会えん距離におったら、せめてテレビでカッコええ姿見せんにゃいけんけぇ、ますます頑張れると思うたんよ」
「そこまで...俺の為か」
「今更じゃろ。俺が野球続けとる理由は、最初からたかちゃんにカッコええと思われたいからじゃし、勝ちたいと思うたんはたかちゃんを喜ばせたいけじゃもん」
ずっと望遠鏡を覗き続ける亮治を後ろから抱き締める。
コインの切れる音はとっくに聞こえていたのに、亮治はずっとそのままだった。
「ずっとカッコようおってくれ」
「勿論」
「ずっと俺を喜ばせてくれ」
「任せといて」
「......オフにはまた...道後温泉来ような」
前に回した手にそっと亮治の手が重ねられる。
大きくて、あちこちマメのせいで硬くなっていて、だけど最高にカッコいい手。
冷たい風に吹かれているのに、頬と手はひどく熱かった。
プロになって20年。
メジャー行きを何度も噂されながらも日本球界を牽引し続けた亮治は、その年も二桁勝利を挙げながら39歳での引退を発表した。
先発完投型のスタイルを貫いたその肩は、もう限界だったのだ。
日本シリーズ進出を逃し、早々に引退試合を終えた亮治と俺は、ようやく松山城の天守から見事な紅葉を眺める事ができた。
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