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第6話 谷本の機嫌が良い
「……っ!!」
ガバッと、勢いよく遥は起き上がる。辺りを見渡すと、見慣れた自分の部屋だった。
心臓が痛いほど早く動いていて、汗もびっしょりかいている。それが冬の冷たい空気に触れ、急激に冷えて寒くなった。
身体が冷えないように、慌ててフリースの上着を着る。耳を澄ますと、水を流す音と、食器がぶつかる音がした。はあ、と息を吐き出す。
あれから、谷本に懇々と叱られた。彼女は興奮すると止めるのに苦労するので、早くこの時間が過ぎないかなと耐えているうちに寝てしまったらしい。
遥は袖で唇を拭うと、痛いほど冷たい床を歩き素早く浴室に向かった。鍵を掛けサッと服を脱いで洗濯乾燥機に放り込むと、浴室に入り、手早くシャワーを浴びる。
浴室から出てリビングに行くと、やはり谷本が朝食を作っていた。
「おはよう遥」
谷本の機嫌がいい。反対に遥の気分は最悪だ。黙って部屋に戻り着替えようとすると、ノックもなしにドアが開く。
「ノックぐらいしろよ」
「何? 見られちゃまずいものでもあるの? 挨拶くらいしなさい」
見られる以前にプライベートはないのかと、喉まで出かかった。けれどそれを言ったら「有名になったらそんなのはない」と言われるのがオチだし、これ以上口答えしてめんどくさいことにしたくない。
「おはようございます。着替えるから出てって」
谷本の言う通りにすると、彼女は粘ついた視線を一瞬遥に向け、ドアを閉めた。
「ふー……」
遥はため息をつく。自分と谷本の関係は、マネージャーと俳優という域にちゃんと収まっているのだろうか? 公私共に支えるといえば聞こえはいいが、谷本の本性を知っている遥にとって、ずっと彼女が一緒にいられるのは、正直疲れる。
谷本は、本当に五十代に見えないほど若々しくて美人だ。本人は芸能界に入りたかったらしいけれど、子供ができてその夢を諦めたという。
だからこそ芸能界に携わっていたいという気持ちが大きいし、遥を大きく育てたいというのも分からなくはない。
(やめやめ)
遥は着替えて伊達眼鏡をし、マスクを着けて家を出る。谷本は合鍵を持っているし、どうせ事務所や現場でも会うのだ、一緒にいたくなければこちらが出ていけばいいだけの話。
どうりで寒いと思ったら、雪がチラついていた。吐く息は白く、すぐに消えていくのを見て、このまま自分も消えることができたらどんなに楽だろう、と考える。
そんなことを思っていたら、いつの間にか事務所に着いていた。時計を見たら午前八時を回っていたので、この時間なら大丈夫か、とドアを開ける。
屋内は静かだが、人がいる気配がする。事務室に入ると、社長秘書の菅野 がいた。
「おはようございます、小井出さん」
「……」
遥は彼を無視し、社長室に入る。案の定誰もいなくて安心した。振り返ると菅野が後をついて来ていたので、しっしっと手で追い払う。
「寝るから。誰も入れないでよ」
「……分かりました」
彼が社長室を出ていったのを確認し、遥はエアコンの暖房と加湿器をつけた。伊達眼鏡を取りアウターを脱いで、靴を脱ぎ捨てソファーに倒れ込む。
芸歴だけ長くて、売れてないあなたには何も言う資格がない。
昨晩谷本に言われた言葉だ。間違いない、と遥は瞼を腕で覆った。
業界ではそこそこ名は知られている。けれど芸能界の位置的に言えば、遥は「演技もできるアイドル」だ。一時期仕事が爆発的に増え、その頃は目まぐるしくも楽しい毎日だったのに、その頃と何が違うのだろう、と思う。
そのままウトウトとするけれど、やはりぐっすりは休めない。それでも起きて活動するよりはマシだと思っていると、ドアがノックされた。
「小井出さん? 綾原です」
よりによってムカつくやつか、と遥は無視を決め込む。チラリと時計を見ると、そろそろここを出ないといけないことに気付いた。
はあ、とため息をついて、のそりと起き上がる。
「……何?」
「そろそろ出ないと間に合いませんよ。大丈夫ですか?」
「言われなくても分かってる!」
感情に任せて怒鳴ると、耳がキーンとした。反射的に押さえたけれど、すぐに治ったのでスルーする。
「遥」
雅樹の声がした。
「私が送ろう。準備して出ておいで」
穏やかな声にしぶしぶ動き出す。ドアを開けると声と同じく穏やかな顔をした雅樹がいた。
「谷本さんには、今日一日お使いを頼んだよ」
「あっそ」
行こう、と促され、二人で雅樹の車に乗り込む。場所はどこだと聞かれて答えると、ギリギリだね、と彼は苦笑した。
「遥……珍しいね、きみが遅刻ギリギリになるのは」
「……」
遥は助手席でそっと窓の外へ視線を移す。音楽もラジオも流れていない車内は静かで、エンジン音すら聞こえない。
「黒兎に叱られたよ。遥は疲れを溜めすぎてるって。最近仕事が楽しそうじゃないのは、そのせいかな?」
「気のせいじゃない? 僕はここ十年くらい、同じような生活をしてる」
仕事が楽しそうじゃない、と言われてドキリとした。それと同時に、あんたなんかに何が分かる、とムカつく。
そう、十年だ。その間に雅樹の気を引こうと頑張った時期があったのに、彼は見向きもしなかった。心配しているふりをしているけれど、それは仕事だからだ。だから諦めたのに。
いまさら心配する素振りを見せるな。遥はそう思う。
「遥……」
「うるさい。もう話し掛けんな。あんたは黙って仕事持ってくればいいんだよ」
そう言うと、さすがに雅樹も黙った。遥は続ける。
「僕はあんたが嫌いだ。英 や綾原とは、全然扱いが違うの、分かってたからな。英とのいざこざがあった頃から、僕はあんたを諦めるって決めたんだ」
遥が十六の頃、Aカンパニーの看板役者の一人である英に、雅樹は想いを寄せていた。遥は雅樹の気を引こうと英に『いたずら』をしたのだ。それは下手をしたら犯罪になるもので、英、雅樹、谷本と話し合って結局お咎めなしとなった。
社長の一番のお気に入りになれ。そう谷本に言われていたことを彼は知らない。それが達成できなかった時から、遥はずっと地獄を見ている。雅樹がダメならもっと有名なタレントに。それがダメなら大御所に。失敗したら谷本が仁王立ちで待っている。その恐怖は雅樹には分からないだろう。
遥は運転席の雅樹を横目で見た。大人の色気を垂れ流した美丈夫は苦々しい表情をしていて、遥の溜飲が少し下がる。自分のせいでその綺麗な顔を歪めていると思うと、せいせいした。
「……それでも、遥はうちの大事な俳優だ」
「あっそ」
雅樹の言葉に遥は素っ気なく返すと、ちょうど車が目的地に着く。雅樹を見もせず、お礼も言わずに車を降り、ビルの中へと入っていった。
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