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第12話 ここからが本番

 遥には、父親の記憶がない。物心ついた時にはもう母親しかおらず、芸能界で働いていた。  谷本という姓が、母親の旧姓だというのは何かのきっかけで知ったのだ。だから、一度結婚はしたんだな、とぼんやり思っている。  だから、遥にとって父親は空想上の中でしかおらず、理想の父親像を描いているうちにそれが憧れになり、年上の男性ばかり見るようになった。  大きくなるにつれて、遥の性指向は少数派だと知ったけれど、仕事で色んな人格を演じ、憧れから好意に変わることはよくあることだと学ぶ。  そして母親らしい母親というのも、遥は知らなかった。気付いたら谷本はマネージャーという位置におり、私が叶えられなかったことを叶えて、と夢を託されたのだ。純粋な子供だった遥は、母親の期待に応えようと張り切った。  それからが悪夢の始まりだった、と遥は思う。  遥が楽しく仕事をすればするほど、谷本の機嫌は悪くなっていった。今思えば、遥に自分の夢を託したくせに、自分より成功していく息子が妬ましいのだと思っている。足を引っ張り、ここがダメだあそこがダメだと欠点ばかりあげつらえて、遥のやる気を削げば集中しているのかとなじる。  数年前まで、遥は谷本に褒められようと頑張っていた。そのための枕営業だった。ここまでしたら褒めてもらえる、きっと仕事をもらってきたら「よくやったわね」と笑ってくれる……けれどそれは遥の都合いい妄想にしかならなかった。  そして次第にその承認欲求が、周りの男性へと向かうようになった。大御所の演出家、Aカンパニー専属の脚本演出家・月成(つきなり)、雅樹、そして先日仕事をした亮介──。  しかしみな、遥がアプローチをかけた時には既に相手がいたり、気になるひとがいて、遥のことなど相手にしないひとたちばかり。  そしてますますくさる日々。谷本との関係も言えず、あえて露悪的に振る舞う今の遥が完成したという訳だ。  遥は目を覚ます。  むくりと起き上がると、下半身から何かがとぷりと出てきた。不快感に顔を顰め、妙に暑い部屋のエアコンを切る。 「これから稽古だっていうのに、散々やってくれたな」  無感情で呟くと、乱雑に落ちていた下着とスウェットを穿いた。  あれから家に帰ると、永井とどんな契約を交わしたのか、どんな風に過ごしたのか、事細かに谷本は聞いてきた。けれど結局、何を言っても『おしおき』に行き着くのは変わらず、遥は感情を捨てたのだ。  とりあえずシャワーを浴びよう、と残りの服も着て浴室に向かう。  今後はスタジオに入り浸って稽古やリハーサルが多くなってくる時期だ。こんなに遥の身体を好きにされたら、仕事にも影響が出るのにどうしてだろう、と辿り着いた答えにうんざりする。  やはり谷本は、遥の成功が妬ましいのだ。  シャワーを浴び、部屋に戻ると家の中はしんとしている。谷本はいないらしい。  この家も、成人して一人暮らしをしたいと、雅樹におねだりして借りたマンションだった。こっそり引越しも手伝ってくれたのに、結局は見つかって一緒に住んでいる。  遥はスマホを見ると、メッセージが来ていた。永井からだ。  谷本には永井と仲良くなったと伝えた。あらそう、と興味なさそうに返事をされたので、何を考えているのか読めなくて怖い。だから永井の提案でもある、舞台終了後の仕事の話もしたけれど、彼女の反応は薄かった。  この舞台が終われば、遥は永井が経営する会社の、イメージキャラクターとして契約することが決まった。とても大きな仕事なのに、谷本の機嫌はよくならない。 『今日から本格的な舞台稽古ですね。私も見学に行きます』  遥はスマホに表示されたメッセージを見て、直ぐに削除した。別段おかしな内容ではないけれど、これを谷本に見られたらと思うと嫌で、少しでも仲がいいと感じられるメッセージは全て削除している。  返信はしない。こちらから送信した履歴をいちいち削除するのも面倒だし、これもまた谷本対策だ。  遥は出かける準備を始めた。暦的にはもうすぐ春だけれど、まだまだ寒い時期、服装はどうしようかな、と思って手が止まる。  どれも、谷本が「遥に似合うから」と買い与えられたものばかりだったからだ。自分が着たいと思う服は「イメージじゃない」「似合わない」「こっちの方が似合う」と希望の服さえ着られていないことに、今頃気付く。  遥は適当に服を取り出し、着替える。手前味噌だが顔もスタイルもいいとは思うのに、どこかパッとしない。  仕方がない、と支度をして外に出た。  空は重く、今日もまだ冷え込みそうだ、と肩を竦める。人肌が恋しいなとポケットに手を入れて、永井の大きな手を思い出した。 「……」  ポケットの中で手を握る。契約とはいえ、初めての恋人だ。だからか、どんな顔をして永井に会えばいいのか分からなくなった。 「演技力には定評のある、小井出遥だぞ。ちょっと優しくされて、母さんから守ってくれたからって、ちょろすぎ」  遥は永井の言葉を思い出す。私を口実に、谷本から離れろ、と。  ずっと切望していた言葉。愛されたいと願っていた遥に期間限定だが愛を与えてくれて、その上仕事までくれた。欲しいものを全部与えられて、本当に夢ではないだろうか、と疑ってしまう。 (けど、僕が離れたあと、母さんはどうなる?)  サッと血の気が引いた。泣いて謝ってくる? それとも、もっと酷い報復をしてくる? その時も永井は自分を守ってくれるのだろうか?  ぶんぶんと顔を振って思考を飛ばす。助けて欲しいと願っていたのに、どうして谷本の心配をしているんだ、と遥は短く息を吐いた。  そう、ここからが本当に遥にとって地獄になることなど、本人は知りもしない。  遥は手を挙げてタクシーをつかまえると、乗り込んで稽古場に向かった。

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