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第16話 聞き分けのいい子
遥、これはお母さんとの秘密ね。
ふわふわと、心地よい気分で遥は母の言葉を聞いていた。
遥はまだ十歳にもならない年齢。甘えん坊の遥が珍しくその欲求が満たされた時の記憶だ。
母の優しい手が頬を辿り、母の頬が額や頬に触れられる。愛してると囁かれて、自分はちゃんと母親に愛されているんだ、と思った。嬉しくて、遥は笑う。
「好きだから、こうするのよ。これは私の遥への、愛情表現なの」
そう言った母は、顔を近付けた。
「──っ!」
ハッと目を覚ました遥は飛び起きる。
「……え?」
ヒヤリとした。今のはいつの記憶だ? 自分と谷本がそういう関係になったのは、遥が思春期を迎えてからだと思っていたのに、とサッと血の気が引く。忘れていただけなのか、思い出したくないことまで思い出してしまった。
まだ朝方なのか、いつもの自分の部屋は薄暗い。しかも隣に温かい体温があり、それが誰なのか考えたくなくて素早くベッドから降りる。
浴室に入り鍵をかけ、シャワーを浴びる。どういう流れであそこに谷本がいたのか、考えたくなかった。ただ分かるのは、自分の足でまた地獄に戻って来てしまった、ということだけだ。
遥、ごめんなさい! 私がキツく当たりすぎた、反省するからどこにも行かないでちょうだい! 私をひとりにしないで……!
昨晩の谷本の声が蘇り、吐き気がする。頻度はそれほどないとはいえ、血の繋がった肉親と繋がってしまった嫌悪感と不快感、罪悪感に何度もえづいて吐く。
助けて欲しいと永井に対して思ったのに、自ら手を離したのは自分だ。永井は呆れているだろうと思うと、今度こそ絶望した。
けれど、ひとりにしないでという母を遥は放っておけない。唯一の家族であり、今まで公私共に支えてくれたひとなのだ。
あなただけが私の家族なの!
谷本の泣き縋る声が頭から離れない。
この、抜け出せない沼からどうしたら脱出できるのだろう? 昨日みたいに、無理やり離ればなれにされるのはもう嫌だ。
遥はシャワーを浴びながら、まだ胃がムカムカした気がした。自分の中の汚いものを出したくて、指を口の中に突っ込む。
「僕は……『小井出遥』なんだから……」
明るくて、人懐っこくて、わがままで、猫みたいに気まぐれで。それが本当の遥で、今の状態の自分は、本当の自分ではない。
永井との契約を破棄したからこそ、この舞台は成功させなければ。そしてもっと役者として頑張って、谷本が自分から離れてくれるようにならなければ。
遥はそう心に誓い、もう一度頭からシャワーを浴びた。
◇◇
それから約半月後、舞台稽古も大詰めになり、通しでのリハーサルが増えていく。遥は順調に主役として立ち回り、周りとの信頼も得ていた。
「遥さん、こう見えて寂しがり屋なんですよー」
「ちょっと、そんなこと言ったら『かまってあげるー』ってひとがいっぱい来ちゃうでしょー?」
急遽始まった番組も、公演が始まる前まで。遥は少し寂しさを覚えつつ、キャストと仲良く談笑している。
「いよいよ公演が始まります。それでは劇場でお待ちしてまーす!」
カメラに向かって手を振ると、録画停止ボタンを押す。そのままそれをスタッフに渡し、稽古に戻ろうとしたところで永井と雅樹の姿を見つけて、笑顔で谷本の元へ行く。
「どうだった?」
「まずまずね。あなた以外はライバルなんだから、あんまり仲良くするのもどうかと思うわ」
思った通りの返答がきて、遥は笑う。これでも、谷本の機嫌はいい方だ。もちろん表面上だけだよ、と小声で言う。
あれから、永井と雅樹が揃って現場に来ることが増えた。谷本から遥を引き離す作戦が失敗に終わり、向こうも躍起になっているらしい。だから遥は彼らをそれとなく避けている。
「遥」
そこへ、雅樹がやってきた。遥は谷本を庇うように背中に押しやると、「なに?」と笑顔で対応する。
「きみ、衣装合わせでサイズ直しすると聞いたよ。きちんと食べているかい?」
「ああ、ここのところ消費カロリー半端ないから、食べても痩せちゃうんだよね。でも、適正体重だから問題ないよ」
嘘ではなかった。激しいダンスに戦闘シーン、歌にと舞台をやるにはかなりのカロリーを消費する。
「社長、遥はこの舞台を成功させるために頑張っているんですよ? そんな些細なことで水を差さないで欲しいです」
谷本が口を挟んだ。案の定雅樹は眉根を寄せる。珍しい彼のそんな表情で、本気で遥のことを案じているのだと分かった。
「些細なこと? 舞台本番前にサイズダウンするほど痩せているのに、心配しない訳がないでしょう」
「遥の言う通り、消費カロリーが高いだけです。食事も私が管理しているのに、何が不満なんです?」
「いつもの遥なら、それも見越して体型をキープしているはず。だから心配している」
「まぁまぁ社長、僕がもう少し気を付ければよかったよ」
遥は落ち着けとでも言うように両手を上げた。こんな所で揉めて欲しくない、と言うと雅樹はため息をつく。
「遥、最近は随分聞き分けがいいじゃないか。それが余計に……」
「うるさいな。……これでいい? 本番前で気が立ってるのに、僕の周りで騒がないでよ」
遥は雅樹の発言を遮り、雅樹の望み通り反発する姿勢を見せてあげる。そして黙った雅樹を無視し、谷本を連れて控え室に向かった。
ここのところ雅樹と谷本は、こんな感じで堂々といがみ合っているので、疲れる、とため息をつく。
今言った言葉は半分は本当だ。舞台に集中したいのに、余計な心配事は増やして欲しくない。
「遥……私怖い……またあのひとたちが遥を連れ去るんじゃないかって……」
「ん、大丈夫だよ……」
二人きりになったとたん擦り寄ってくる谷本を、遥は頭を撫でて慰める。谷本もあれから、こうして甘えてくることが多くなった。
そして慰めと称して母親に触れる度、身体の中に汚いものが溜まる感触がするのだ。
「ごめん、トイレに行ってくる」
すぐ戻るから、と言って不安げな谷本を残しトイレに行くと、個室に入る。そしてそのまま、思い切り指を口の中に突っ込んだ。
遥が痩せた理由は単純だ。食べたものを吐き出しているから。しかし、雅樹に気付かれるほど痩せているとは思わず、遥は肩で息をしながら生理的に浮かんだ涙を拭う。
そう、いつもの遥ならこの時期はカロリーも多く摂って体重をキープしている。なのにここのところ、谷本と接触があった時は、身体の中の汚いものを出すかのように吐いてしまうのだ。
抑えられないこの衝動は、既に治療が必要な程度だとは理解している。けれど、芋づる式にすべてを話さなければならなくなるため、谷本にも隠していた。
「……」
深呼吸をし、ある程度落ち着くと個室を出る。手と口を洗おうと足を踏み出した時、視界がぐらついた。
(やば……)
そう思った時にはもう遅く、したたかに肩を打ち付ける。視界が回り起き上がれず、目を閉じて平衡感覚が戻るのを待った。
まずい、本番前なのにこんなことになるなんて。
「遥!?」
そんなことを思っていると、酷く安心する声がする。永井の声だ。どうしてこんなにタイミングよく来るのだろう、と思う。
ああ、舞台を成功させなきゃいけないのに、こんな所で倒れている場合じゃない。
そう思いながら、遥の意識は落ちていった。
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