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第17話 逃げられない

 気が付くと、そこは病院だった。 「遥!」  そばに座っていたらしい谷本が、心配そうに顔を覗いてくる。その目から勢いよく涙が溢れ出し、遥は慰めようと手を出しかけて、止めた。  永井と雅樹もそばにいたのだ。  途端に左肩が痛み、右腕で押さえようとしたけれどできなかった。なぜなら右腕には点滴の針が刺さっていて、上手く動かせなかったからだ。  そして痛んだ左肩は、大袈裟に見えるほど腕ごとしっかりと固定されている。まさか、と遥は雅樹を見た。 「鎖骨骨折……あとは栄養面でも問題があって……しばらくは入院だよ」  苦々しい雅樹の顔は悔しそうだ。永井は相変わらず感情の読めない顔をしている。  雅樹の言葉に谷本が声を上げて泣き出した。ここが個室なのは、多分雅樹の計らいだろう。遥は力が入らない腕で起き上がり、雅樹を縋るように見る。 「嘘だ……。だって僕、主役だよ? こんなこと、あってはならないのに」 「どうあがいても現実だよ。急遽代役で公演することになる。……永井さん」  雅樹は永井の方へ身体を向けると、深々と頭を下げた。 「申し訳ありません。私の監督不行届きです」 「嘘だ!」  あの雅樹が頭を下げるなど、ましてやその原因が自分だとは信じたくない。遥は滲む視界を首を振って誤魔化す。 「嘘だ……まだ開幕してないよね? それまでに治すから! 舞台に立たせて!」  遥は叫ぶ。けれど三人とも、何も言わない。 「嫌だ……、嫌だ、嘘だ! どうして……っ!」  瞼の許容量を超えた涙が落ちていく。キャストやスタッフとも切磋琢磨していたのに。それが楽しいと思って開幕も楽しみにしていたのに。  遥は谷本を見る。彼女は永井や雅樹からは見えない位置で、わずかに口角を上げていた。ゾッとして、最大の『おしおき』の口実を作ってしまったと震える。 「嫌だ……こんなの……!」 「……きみはよくやっていたと思う。しかし起きてしまったことは仕方がないし、これはビジネスだ。今後どうするかを話そう」  そう言って、永井は遥に近付いた。しかし、そばにいた谷本が彼を睨む。 「遥がこんなにショックを受けているのに……今後の話なんて、あなたどうかしてます!」 「どうしてでしょう? できないことを悩むよりも、工夫次第でできることを探す方が、ずっと建設的だと思いますが」  永井の言葉に他意はない。遥もその方が正しいと思う。けれど感情論で動く谷本には、それが厳しい意見だと捉えられてしまうのだ。 「まずは遥の心のケアが先決でしょう!? 大体、なぜ永井さんが遥のことに口を出すんですか!?」  谷本が叫ぶ。すると永井は静かに遥を見た。けれど遥は視線を合わせられず、ベッドのシーツを見つめる。 「私は遥の恋人で、大切に思っているからです。俳優『小井出遥』を、もっと売り出したい」 「な……」  谷本はさすがに言葉に詰まったようだ。遥は右手でシーツを握る。黙っていてくれと頼んだはずなのに、どうしてここでハッキリ、谷本に伝えてしまうのか。それに、恋人契約は破棄したはずだ。そんなことを言ったら、谷本は自分を否定するに決まっている。 「嘘よね、遥? あなた脅されて、言うこと聞かされてるんじゃないの?」 「嘘ではありません」 「私は遥に聞いてるんです」  案の定疑う谷本に、永井が否定する。途端に遥に視線が集まり、「別れたはずですよ」と遥は小声で言うしかなかった。 「……谷本さん、遥と二人で話をさせてください」  埒が明かないと思ったのか雅樹はそう言う。けれど谷本は雅樹にも疑いの目を向けた。 「嫌です。もう私はあなたたちを信用しません」  谷本は椅子に座ったまま、雅樹たちを睨む。雅樹は眉間に皺を寄せて、短く息を吐くとこう続けた。 「ではハッキリ言おう。あなたは遥のマネージャーとして相応しくない。近日中に退職してもらう」 「……は? 私は遥の母親ですよ? 遥のことを一番分かっているのは私……」 「でも実際遥は倒れている。栄養失調気味だと医者に言われたが、それで本当に遥の管理をしきれているというのか?」  雅樹の言葉にヒヤッとしたのは遥だ。このままでは遥が自分で吐き戻していることがバレてしまう。そう思って声を上げる。 「止めて。谷本さんはちゃんとやってたし、僕の自己管理がなっていなかっただけ。……もう今日は帰ってよ」 「遥……」 「帰れって言ってんだろ! 母さんは何も悪くない!!」  しんと静まり返った部屋で、はぁはぁと遥の荒い呼吸の音だけがする。しかし雅樹からは、これ以上ないくらいピリピリしたものを感じた。遥はギュッと握った手を見つめたまま、彼を見ない──いや、見られない。 「……早く回復するよう、綾原くんにも見舞いに来てもらう。異論は認めない。ではまた明日」  矢継ぎ早に雅樹は言うと、永井も連れてすぐに病室を出ていく。直後、谷本が鼻を啜った。 「ごめんね……お母さんがちゃんとしていれば……」 「だったらもう、僕が嫌だって言ったら止めてよ。いつもいつも……っ」  そう、いつもだ。谷本は遥が嫌だと言っても聞かない。遥のためと言いながらなじり、愛してると言いながら触れてくる。遥の気持ちは、いつも置いてきぼりだ。  すると谷本は声もなく、ボロボロと涙を零すのだ。 「遥……お母さんの愛は要らなくなったの……?」  遥はグッと息を詰める。谷本は追い詰められると、こうして幼い子供のように泣くのだ。遥をコントロールする為だとこの間は言っていたくせに、今度は愛だと主張する。一貫性がない谷本の言動に、遥はずっと翻弄されてきた。 「愛してるから厳しくするし、愛してるからキスもするのよ? 全部遥のためなのに……っ」 「親子でする行為じゃないでしょ……」 「でも、遥も受け入れていたよね? 抵抗もしないし私の手で何度も……」  一瞬前まで子供みたいだと思っていたのに、その声色が強くなっていって、遥は恐怖を覚える。そして、その声には逆らうな、と長年積み重ねられてきた経験から、声はおろか、指一本動かせなくなるのだ。 「遥……いい子いい子してあげる……」  身体を這ってくる手に嫌悪感を抱きながら、遥は身体が硬直する。谷本は口角を上げて、赤い唇を動かした。 「言う? 言えるの? 恋人だったとかいう永井さんに話す? そういえば、永井さんは遥の好みだものねぇ」  かぁっと顔が熱くなる。自分の性指向もだけれど、好きなタイプまで言い当てられ、遥は首を振った。 「違うの? そうよね、遥は私のだもの。……本当に、あのひとそっくり」  遥は右手で口を押さえる。そうでもしないと声を上げてしまいそうで、親指の根元を噛んだ。身体は嫌でも高まっていくのに、心が追いつかない。そのギャップに、気持ち悪くなる。だから遥は心を殺す。  ガタッとベッドが揺れる音がした。遥の身体が大きく跳ね、追い詰められて高い壁に登っていく。  もう、ここから逃げることは叶わないのだろうか。そう思いながら、遥は頂点に達した。

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