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前編
薄暗い部屋に小さな魔灯が灯っている。弱々しい光は、今のローレンスと同じく今にも消えそうに儚いものだ。
それもそのはず、魔灯は自分自身の魔力を使う。痩せ細ったローレンスは、父に命じられた魔導衣の制作に大量の魔力を注いでいて、今にも倒れそうだった。
魔導衣とは、最高峰の防具だ。甲冑とは違い、ジュストコールに魔石を縫い込み、付与を与えることでさまざまな効果を生む。例えば、火魔法なら触れた相手を燃やす、風魔法なら切り裂く、土魔法はバリアを張る……などだ。効果は使用者によって違うので、各魔導衣工房の極秘事項となっている。
魔力を持つ人間は限られ、基本的に一人につき一属性が常だ。つまり、一着完成させるには属性が違う四人の職人が必要となる。
だが、ローレンスは全属性を持つ稀有な存在として職人たちに褒めそやされ、新技術を次々と編み出していた。
工房で働くのは楽しかったが、成果が出ない時の父の対応は冷たかった。母との関係はもっと冷え切り、ローレンスは心を痛めていた。なぜ父が母を疎んでいるのかは、屋敷の使用人以外と接するようになり分かってきた。
ミクソン侯爵家は、魔力が減少しつつあった。そこで、優秀な魔力を持つ男爵令嬢だった母と政略結婚した。だが、自分より才能のある妻が気に入らなかったのだ。
――母上が家の財政を立て直したのに、矛盾してる……
それに、ローレンスの顔立ちが可憐な母そっくりで、陶器のように白い肌、金髪だったことも父を落胆させた。唯一、真っ青な瞳に、星を散りばめたような金の虹彩だけがミクソン家の証だった。
父は気分屋で、ローレンスに対しても整合性のない対応をする。それでも、愚かな自分は愛されたかった。
父が笑顔を見せてくれたのは、魔力の才能を見せ始めた時だった。しかし、10歳で工房を手伝うようになってから、すぐに忌々しいものを見るような目に変わってしまった。
『天才と言われていい気になっているのか』『私より能力が上だと見せつけたいのか』
口癖のように繰り返され、心は萎縮していく。それでも父の愛を求め、懸命に新しい技術を生み出せば、一旦は喜んでくれる。その中で生まれた人気商品は、羽ばたく蝶のモチーフだ。社交界で一躍人気となり、ドレスを飾る逸品として、注文は引も切らない。
そして、褒められては罵られる。新作を作らなければ見捨てられるのではという強迫観念に駆られ、不毛な行動を続けた。
15歳になる頃、王太子の魔導衣を任された。王家の紋である鷹をイメージし、肩章に羽ばたく羽の立体刺繍を施したのだ。それは大絶賛され、ミクソン家の地位は確固たるものになったと父は大喜びした。久しぶりに家族の団欒を味わい、ついに認められたと幸福の絶頂にあった。
その翌日、事態は一変した。工房で謎の病気を発症したローレンスは隔離され、そのまま監禁されてしまった。感染症を疑われ工房に隔離された直後、母が助けに来てくれたが、父が阻んだ。しかも、父は母が横領していると糾弾したが、そんな人ではない。父の横暴はそれだけではなく、母と離婚し、愛人と隠し子を本宅に迎えると言い出した。
「私は無実です! ですが……出ていくのは構いません。その代わり、ラリーを連れて行きま、きゃあっ! あ、やめっ!」
パン! と乾いた音と母の悲鳴が響く。
「あれはうちの財産だ。それを連れていくなど許されん」
父は母を何度も打擲する。ローレンスが止めようとしたが、父に腕を掴まれた。
「おまえ、魔力が多いからと私をバカにしているのだろう! 分かっているぞ!」
「父上! やめてください!」
母を救いたいのに腕から逃れられない。暴力を受けた経験のない母は、何度も殴られ恐怖と痛みで怯えきっていた。
「母上……もういいです……どうか、逃げてください……」
父は母に無実の罪を着せていると確信があった。何を言っても覆らないだろう。
「ラリー、ごめんなさい……」
母はよろよろと立ち上がり、滂沱の涙を流しながら屋敷を出ていった。そして、二度と会えない人になってしまった。
◇
絶望という言葉を知った日のことは、突然フラッシュバックして心を苛む。針を持ったままぼんやりとしていたローレンスは、はっとして作業を再開した。
どうしてこんなことになったんだろう……父上はそんなに僕を嫌いだったのかな。
工房に監禁されてから何日経ったのかもわからない。この部屋に監禁されて、一体どれくらい経ったのだろう……
はっきりしているのは、肩まであった髪が腰まで届くほど長い年月ということだけだ。
窓には外側から板が打ち付けられている。光はその僅かな隙間から漏れていた。カーテンがかかっていたが役目を果たしていない。寒さに耐えかねて外し、ないよりマシだと硬い床に敷いて寝床にしたからだ。
最初の頃は脱走を試みたが、その度に監視は強固になり、暴力も激しくなっていった。体力も気力も衰え、服従するしか生き延びる手段はない。
――余計なことを考えちゃダメだ。
目の前にある仕事を仕上げなければと手を動かす。
トルソーにはジュストコールのデザインに手を加えた、黒い魔導衣がかかっている。この人物の魔導衣を担当してから三着目の作品だ。黒いダマスク織を使用し、模様に沿って魔石を縫い込んでいる。他の騎士は見頃も色鮮やかな生地を好むが、この人物は違う。初めて注文を受けた時は、黒とは随分地味な色を選んだなと思ったのを覚えている。父など「辛気臭い」と愚痴っていて、派手好きな父の好みではないのはよく分かった。
ローレンスも最初は地味だと思っていた。だが、実際に手にすると、思ったよりも色が映えると知った。
徽章は黒狼を模したモチーフで、目に白い魔石を縫い込み、軽量化させる風魔法、フロゥトをかけると金色に輝いた。魔石がふんだんに使われた魔導衣は、フロゥトなしでは重くて動けないのだ。銀糸と青い絹糸で立体刺繍し、魔石で埋め尽くされた魔導衣は燦然と光を放っている。
「うん、かっこ良く仕上がった。ねぇ、ネロもそう思うだろ?」
テーブルの上に置いた黒狼のぬいぐるみに声をかけた。寂しさを誤魔化すためハギレをかき集め作ったもので、両手にすっぽり収まる小さなものだ。この子がいるお陰で話し相手ができた。辛く苦しい日々で、唯一の安らぎとなっている。
トルソーのてっぺんに置き、フロゥトをかけた。トップでゆらゆらゆれるネロに微笑みかけ、が教えてくれた歌を歌い始めた。
魔導衣の持ち主となる人を想像しながらトルソーの袖を持ち、ダンスをするように体を揺らす。ダンスも習ったが、踊る体力はもうないので、気分だけ楽しんでいる。
「生きてこの部屋を出られたら着てるところを見てみたいなぁ。ネロ、君も一緒だよ」
その日が来るだろうか……
不意に不安になりトルソーに抱きついた。
その時、遠くから荒々しい靴音が聞こえ、無意識に体が硬直する。
――あいつが来る!
あいつとは、腹違いの弟コリンだ。外鍵を開け、どかどかと靴音を鳴らし工房に踏み込んできた。
「のろまな兄上殿、新作は仕上がったのか?」
震えているローレンスを鼻で笑う意地悪い顔は父に瓜二つで、いつ見ても醜悪だ。
怯えながらトルソーから魔導衣を外し、コリンに差し出す。
「さっさと寄越せ! 兄なら可愛い弟に優しくするもんだろう?」
「うっ!」
コリンが魔導衣をひったくり、ついでというように脇腹を蹴飛ばされる。勢い余って机に激突し転倒してしまった。初めて会った日から傲慢に振る舞い続ける男を、どこの誰が弟だと思えるのか聞いてみたい。
「チッ! 兄上殿は、本当に仕事が遅ぇな」
コリンが兄上殿と呼ぶ時、強い憎しみを感じる。これまで認知されず、一般の市民として暮らしてきた苦しみをぶつけているのかもしれない。
「仕上げはいつも通り俺がやってやる。明日は黒狼将軍が初めて屋敷に訪問されるんだ。きっとお褒めの言葉を授かる。羨ましいだろう」
ローレンスは手柄など欲しくないが、今の言葉は聞き流せなかった。
――ああ、これを纏うお方がおいでになるのか。それなのに、コリンのせいで魔導衣の能力が下がってしまう……
コリンの魔力は、はっきり言って大したことがない。ローレンスが完成させたものに手を加えると、バランスが崩れてしまうのが心配だった。
「なんだ、その目は」
反抗的に感じたのか、コリンはローレンスを蹴飛ばした。
「なんでも、ない、あゔ! や、やめ」
2度、3度と蹴られ、床に崩れ落ちた。そんなローレンスをコリンは踏みつけ高笑いしている。
自分が魔獣や隣国の侵略から国を守る英雄なら、コリンを跳ね除けられるだろうか。憧れの騎士。決して会えない人。会わない方が想像が膨らむと自分に言い聞かせてきた。でも、本当は一眼でいいから将軍に会ってみたい。薄れゆく意識の中で、叶わぬ夢を見た。
全身を襲う痛みで目が覚めた。どうやら、ドアの側で倒れ気を失っていたらしい。せめてカーテンのところへと床を這うが、頭もぼんやりし、震え止まらない。どうやら暴力を受けたせいで熱が出ているようだ。
――まだ死にたくない……誰か、助けて。
救いの手など来ないと知りつつも願わずにはいられない。机の足に捕まりながらようやくカーテンの上に移動した時、外が騒がしくなった。音は工房に近づいてくる。
――嫌だ……来ないで……
ここにくるのは父とコリンとその手先しかいない。少しでも身を隠したくて、カーテンに包まり体を縮こめた。
「……でっ……困ります!」
外で誰かが叫んでいる。あれは父だろうか。
――なんの騒ぎだろう……?
横たわったまま耳を澄ます。どうやら大勢が言い合いをしていて、徐々に声が近づいて来る。
「やめてくださいっ!」
父が制止する声とほぼ同時に、どかっと凄まじい音がし、振動はローレンスのいる場所まで伝わった。
「ここはなんだ」
腹の奥まで響くような力強い低音が聞こえた。
「ん〜、ここも作業場みたいですけど、誰もいないみたいですねぇ」
もう一人は軽妙な語り口の人物だ。
「は、ははっ。その通り、誰もいませんよ。昔の工房で、今は倉庫にしています」
父が媚び諂う口調で話すのを初めて聞いた。その声が近づき、頭の近くに人の気配を感じた。布の塊と化したローレンスを隠すように、父とコリンが立っているらしい。
「ただの倉庫? 俺に見られるのが嫌だったのは何か問題があるんじゃないか?」
「それは、ええと、貴重な素材や、魔導衣の極意ですとか、色々ありますから……」
家族以外の誰かが来たのだと、ようやく理解した。
「……け、て」
弱々しい声は掠れ、かき消されてしまう。
「だが、ここに俺の魔導衣を仕立てた人物がいるのは間違いない。こいつがそう言ってる気がする」
――魔導衣が……?
彼らは言葉を発しないはずだ。だが、魔導衣と会話できるらしいその人物を好ましく思った。
「助けて」
もう一度声を振り絞ると、黙っていろと言わんばかりに踵で蹴飛ばされた。
「クライド様、何か聞こえませんでしたか? それに、あの布の塊……なんでしょう?」
「ああ、聞こえたな。ミクソン伯爵、そこを退いてくれ」
「私には何も聞こえませんでした。気のせいでは」
「では、こいつに聞くか」
まだ誰かいるようだ。誰でもいい、ここにいると気づいて欲しいと願っていると、何かが自分の上に覆い被さった。
そして、すぐに魔力の感覚で自分が作った魔導衣だと気がついた。
――もしかして、助けに来てくれたの?
何が起きているか分からないが、魔導衣だけでも自分を認識してくれているのが嬉しかった。なんとか自分の存在を伝えようと、体をもぞもぞと動かす。
「う〜ん。今、動きましたよね? カーテンとモップ……? いや」
「エリック殿、気のせいですよ。あの、クライド将軍、やめっ!」
コリンが制止する声が聞こえた瞬間、カーテンが剥ぎ取られローレンスの姿が曝け出される。
「人間じゃないか!」
ドスが利いた怒号に、ローレンスも恐怖を抱いた。
「……呼吸はあるな。おい、しっかりしろ」
恐れ慄いていると、その人物はそっと頬を撫でてくれた。
「話せるか?」
「み、ず」
辛うじて言えたのはそれだけだった。
「水か。エリック」
「はい、ただいま!」
足音が往復しローレンスに近づいた。将軍は逞しい腕で抱き起し、グラスを口に当ててくれた。水を飲みたい気持ちはあるのに、うまく飲めずほとんど口の端からこぼれてしまう。
「仕方ない」
低い声がため息をついた。
謝ろうとした瞬間、ローレンスの唇に温かいものが触れる。温かく湿った舌が唇をこじ開け侵入し、口中に水を送り込んできた。
ローレンスは待ち望んだ水への渇望で、これがどんな行為かなど考えが及ばない。ただ喉の渇きを潤したい一心で飲み下した。唇が離れたが、全く足りない。口を開けて舌を突き出し、もっとほしいとねだった。
「――待ってろ」
繰り返し与えられる水を貪る。時折お互いの舌が掠める度に陶酔感が高まる気がした。
甘く切ない、初めての感覚にうっとりと身を委ねる。
――温かい……
硬い胸板の感触、太く逞しい腕にすっぽりと包まれた。抱きしめられるのはいつ以来だろう。見知らぬ人ではあるが、人の体温を感じ安らぎを感じていた。
「もっと……」
そんなローレンスの手首に触れる手があった。
「クライド様、脈が弱いです。しかも高熱でかなり衰弱しています」
「そうか。ミクソン伯爵、彼はうちで保護する」
「そんな! クライド将軍、これはただの使用人でして……ええと、窃盗癖があって隔離をしたのですよ。ですから、その」
父が必死で引き留めている。でも、自分がいなくなって作業が遅れるのを心配しているだけだ。それに、制作者がコリンではないとバレることも恐れているはずだ。
「さっきとまた話が違うぞ。仮にそうだとしても、病人を放置しておけん」
体がふわりと宙に浮き、将軍に抱き上げられ移動する。
「あ、あの」
必死で目を開いて将軍を呼ぶと、目が合いヘーゼルの瞳が見開いた。
「お前、その目の色は……いや、話はあとだ」
父を見ると、ローレンスを睨め付け、胸につけているブローチに触れた。母が大切にしていたもので、脅す時にいつも使っている。これは「何も言うな」という命令だろう。母に危害を加えるつもりかもしれない。
父の仕草に気づかない将軍は歩みを進めている。
「待って……お願い、ネロも、一緒に」
「ネロ? まだ誰かいるのか」
「狼の、ぬいぐるみが……お願いです……友達、で」
ぬいぐるみなんてと馬鹿にされるだろうか。だが、たった一人の友達だ。
「エリック、取って来てやれ」
「イエッサー」
将軍は何も言わず命じてくれた。なんて優しい人だろう。
「お待ちください! 俺が将軍の魔導衣を仕上げたんです! 本当です!」
コリンが叫んでいる。彼のこんな情けない声を聞くのは初めてだ。
「クライド将軍、勝手にそれを連れて行かないでください!」
父は自分を「それ」と呼んだ。人間扱いされてないと感じ、啜り泣きは嗚咽に変わっていく。
「……ミクソン伯爵、彼の名前はなんだ?」
「は?」
「使用人の名前も知らんのか」
「は、ロー、いや……ラリー、そう、ラリーです!」
ついに本名まで奪われた。
もう自分には何も残っていない絶望に涙が止まらない。息苦しくなり、ぽっつりと意識が途切れてしまった。
◇
辛い。苦しい、痛い、寂しい……ローレンスは、長い間負の感情に晒されて心が壊れる寸前だった。
「はは、うえ……」
熱で朦朧としながら母を呼ぶ。そんなローレンスの額に冷たいものが触れた。冷たさが心地いい。
「助けて、母上……」
弱々しく伸ばした手を握られ、やっと母が会いにきてくれたのだと思った。
「会いたかった」
返事がなくても、触れてくれる温もりは現実……のはず。浅い眠りを繰り返していたが、常に誰かがいてくれた。高熱にうかされ、都合のいい夢を見ているだろうか。
「みず、飲みたい……」
幼い子供に戻ったように母にねだる。ふわりと抱き起こされ、唇に柔らかいものが当たった。口移しで水が与えられ、何かがおかしいと感じた。
――母上も使用人もこんなことしないはず……?
疑問が浮かんだものの目が開けられない。与えられる水が体に染み渡り、疑問は吹き飛んでまたねだってしまう。その人は何度も水を飲ませてくれた。抱きしめられた腕の中にいると、やはり母ではないと気がついた。
「……誰?」
「まだ寝ていろ」
よく響く低音は、とても優しかった。
◇
意識が浮上し目を開けると、眩しさに驚いた。しかも、背中が柔らかい。見回すと、質素だが清潔な一室に寝かされていた。
――ここ、どこ……? あ、そうだ。助けてもらったんだっけ。
まだ体がだるく動けないが、枕元にネロがいるのが見えた。本当に将軍が取って来てくれたのだ。それに、夢現で聞いた声の主は、将軍のような気がする。
ぼんやりと現状把握をしていると、遠くから力強い足音が近づいて来た。少し怖くなり、身を守るように毛布を引き寄せる。こんなものでは防御力など皆無だが、隠れるように頭まで包まると、世界を隔絶できるような気がした。
「おい、目が覚めたんだろう? 顔を出せ」
「クライド様、もうちょっと優しく……」
聞き覚えのある二つの声。興味を惹かれ、目元が出るまで毛布を下げた。それに、本当に同じ人物なら、あの時助けてくれた礼を言わなければならない。
「あ、の」
言いかけ、不機嫌そうな顔をした、黒髪を短く刈り込んだ男と目が合った。眼光鋭いヘーゼルの瞳に屈強な体躯。一眼で騎士と分かるその人は、口を真一文字にしてローレンスを見下ろしている。
迫力に気押され、言葉に詰まり固まってしまった。
「ほらほら、そんなおっかない顔するから怯えてるじゃないですか。大丈夫ですよ〜。この人、強面なうえ無愛想だけど、根は優しいんですよ〜」
声を聞いて、もう一人は、おそらくエリックと呼ばれていた人物だと思った。明るい茶色の長髪を一つに結んでいることから、貴族階級だと推測できる。基本的に、貴族は長髪、市民は短髪にしている習慣があるからだ。
「この顔は元々だ。――俺はクライド。第三騎士団のまとめ役だ」
黒髪の男が名乗る。
「またまた謙遜して。黒狼将軍の二つ名は知っているでしょう? 彼は本人ですよ。私はエリック、将軍の片腕です」
「黒狼将軍……? クライド様……?」
第三騎士団の団長が変わったことも、二つ名についても、世間を知らないローレンスには何もかもが初耳だった。
だが、あの狼をモチーフにした徽章の部隊が第三騎士団で、現団長がクライドなのだ。密かに憧れていた人物はローレンスを睨んでいるような気がする。しかし、エリック曰く元々こういう顔だと言った。怒ってはいないらしい。
「助けていただいて、ありがとう、ございます」
話をするのも切れ切れになってしまう自分がもどかしいが、ようやく礼が言えてほっとした。
「あの状況を見れば誰でも同じことをする。ところで、おまえの名前は?」
「名前ですか? ロー……」
言いかけて、はたと止まる。父は、母が自分を呼ぶ愛称のラリー呼んだ。本名を名乗るべきではないだろう。
「……ラリー、です」
「ふぅん」
クライドは答えに不満そうだ。
「で、なんで体調が悪いのに、たった一人であんなところにいた? おまえの服はつぎはぎもあったが、一般市民とは明らかに違う高級品で正体は貴族階級だろう。名字を名乗れ」
矢継ぎ早の質問に思考が追いつかない。だが、どれも答えてはいけないものだった。何かいい言い訳がないかと思うが、口をぱくぱくとさせるだけで言葉にはならなかった。
「……」
下手なこと言ってボロを出すより、無言を貫いた方がいいかもしれない。どうしたらいいのか考えを巡らす。
「黙ってんじゃねぇよ」
威圧感のある声にビクッと体が震えた。
――殴られる!
咄嗟に自分自身を抱きしめ衝撃に備えた。息が荒くなり、体はガクガクと震える。
「は、は、ひゅっ……けほっ」
息を吸い込むと嫌な音がした。またあの症状だ。落ち着いて息を吸おうとすればするほど、うまくできなくなる。こうなると、父とコリンは面白がってローレンスを嬲るか、気味悪がって去っていく。彼らはどちらだろう。
だが、いつまで経っても何も起こらない。恐る恐る目を開け見上げると、眉根を寄せて見下ろすクライドと、微妙な顔をしたエリックがいた。何も起きなかったせいか、呼吸は次第に落ち着いてきた。
「殴ら、ない……ですか?」
クライドの眉間の皺が一層深くなる。
「すみません、すみません……!」
よく分からないが、自分のせいで不快にさせたのだろう。
「すみま、んっ」
謝罪を繰り返していると、大きな手に口を塞がれた。
「なぜ謝る。何か悪いことをしたのか?」
「んんん、んんん」
口を塞がれたまま首を横にふる。手が離れていき、クライドは横たわるローレンスに覆い被さり強引に目を合わされた。ヘーゼルの瞳が眼光鋭く、あまりの眼力に耐えられずに目を逸らしてしまった。
「ミクソンはおまえに窃盗壁があると言っていた。だが、医者が診察したところ、手足の筋肉は衰えてまともに歩けやしない。要は、罪が発覚しても逃亡できないってことだ。で、おまえは何者なんだ?」
粗野な話し方の方が本性なのだろう。貴族間の付き合いしか知らないローレンスにとって、クライドの詰問は恐怖しか感じない。心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れて息苦しい。
「クライド様ぁ、もう少し元気になってから話を聞きましょう。ラリーは四日も眠ってたんですから」
――四日も。
随分と寝込んでいたようだ。起きても体に痛みがないので、せいぜい一日くらいかと感じていた。やはりベッドはいいなと、現実逃避するようにくだらないことを考えていた。
「ったく、めんどうなのを拾ったな」
すっと体が離れていき安堵した。
「まぁ、事情はおいおい聞きます。食事もしっかり食べてくださいね
そういえば、喉の渇きを感じない。
「あの、誰かが、水を飲ませてくれたような……」
「ええ、それならこの、痛っ! ちょ、蹴らないで、痛いですって!」
「?」
ベッドの上からでは見えないが、クライドがエリックを蹴っているらしい。その様子を見るに、二人はとても打ち解けた関係だ。友人らしい友人のいないローレンスは、羨ましい思いで戯れるのを眺めていた。
「おまえを連れ戻そうと、ミクソンと息子が毎日訪ねて来る。お前、あいつと深い縁があるんだろう。長男は死亡したらしいが、愛人の子か?」
自分は死んだことになっていると知り、青ざめるローレンスを二人が観察するように見ている。わざとこのタイミングで言ったのだと分かった。
「あの、それは、僕をあの家に帰すということ、ですか」
一気に口がカラカラに乾いた気がした。帰ったら、今度はもっとひどい場所に閉じ込められるのではないか。いや、もしかしたら……死が待っているかもしれない。
「いいえ。丁重にお断りしてますよ〜。だから安心して療養してください。でも、早めに全部暴露してほしいんですよねぇ」
帰らなくていいと安心したら涙がこぼれてしまった。エリックは困ったように肩をすくめた。
「ちょっと意地悪でしたね。すみません。さて、今後ですが、医務室だと野次馬が来て面倒なので部屋を移動してもらいます」
誰でも出入りできる医務室では、眠っているローレンスを見物しようと騎士が群がっていたらしい。警護をつけていたので室内に侵入するのは阻んだが、軽症でも手当を求める野次馬根性の強い者もいたそうだ。
「ここにいたら、ご迷惑をおかけするんですね」
では、どこへ行けばいいのか。騎士団を追い出された後、世間を知らない自分が生き残れるか疑問だった。魔導衣工房で仕事を探しても、出自が定かでないものを雇ってくれるかどうか。他の仕事ができるだろうか。自分は縫うことしかできないのに。
「確かにここでは医者に迷惑がかかる。だから俺の部屋へ移動するぞ」
「え、クライド様、マジで言ってるんですか?」
エリックも仰天して大きな声を上げた。
「そうです。ご迷惑です……」
「俺以外は医者とエリック以外の入室を許さないようにしておく。さすがに俺の部屋に無理やり侵入しないだろう」
逆にいえば、そういう可能性があるという意味だ。クライドが眼光鋭く睨みつけていて、拒絶は許さない空気を醸し出している。
「分りました……」
まだここにいていいらしい。だが、いつまでも迷惑はかけられないし、父が何か手を打つかもしれない。
――この人たちにどこまで話していいのか分からない。でも、治療はしてくれる……?
久しぶりに他人と長い会話をしたせいか、また瞼が重くなってきた。うつらうつらしていると、クライドに抱き起こされグラスを口につけられた。
「寝る前に水を飲め。まだ微熱がある」
怖いけれど優しいと言ったエリックの言葉が浮かんだ。それも、情報を得るためのかりそめの優しさかもしれない。うっかり信じてしまったら、きっと辛い思いをするだろう。
グラスの水を飲み干すと、自然と大きな吐息が漏れる。とても美味しいけれど、眠っている時に飲んだ水はもっと美味しく感じていた。目覚めてしまったので、あの特別な水は飲めないのかもしれない。
「眠ってください。その間に移動しますけど、いいですよね?」
小さく頷いて、深い眠りに落ちていった。
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