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第七章 事件の真実

 時計の時刻は翌日の午後を周り、絃成からの執拗な追及による求めに一晩中応じ続けた暁はもう指の一本も動かせない倦怠感に誘われつつも、小さな寝息を響かせ胸を大きく上下させている絃成の腕の中での微睡みに寝付けないままでいた。  絃成が戻ってくる事は暁にとって予想外で、加えて告げられた言葉は今も非現実を疑うほどだった。それでもこの安寧は長く続かない。そう遅くない内に新名は絃成の居場所を特定し、強襲をかけてくる事だろう。絃成がまだ膝元に居るという事が露呈する前に、少しでも早く新名の手が届かない場所へ逃がす必要があった。  今の生活にもう未練は無い。僅かな人脈や交流の全てを捨ててしまっても構わない、暁にとっては目の前の絃成さえ居ればもうそれで良かった。少し前の暁からは到底このような思考になる事は決して無かった。絃成の思いが確実に自分へと向いていると分かるまでは、今の生活を捨てられない理由があった。  躊躇っている時間の余裕は無い。今すぐにでも荷物を纏めて、日付が変わる前に逃げ出した方が良い。――誰にも告げずに。幸い絃成が那月から受け取っている神戸の伝手を辿れば取り急ぎの潜伏先にはなるのだろう。一度身を落ち着けてから先の事を考えれば良い。何よりも優先すべきは新名の網から抜け出す事だった。  暁はそっと身を起こし薄暗い寝室内を見渡す。脱ぎ散らかした服を再度着る気にはなれなかったが、幾ら自分の家だとしても絃成が寝ている前で全裸のまま歩き回る訳にもいかなかった。そう考えられるのも相手が絃成だからであって、仕方なく暁はカーテンの隙間から差し込む西陽をその身に受けながら下着を手繰り寄せ音を立てずにそっと着用を始める。  仕事は何処でも出来る、SCHRÖDINGのCDやハジメの小説は残念だけれど置いていくしかない。後日那月に頼めば回収くらいはしてくれるだろう。それでもこの本だけは――と暁が指先で取ったのは乱雑に伏せられていた《後悔するには愛し過ぎた》の文庫本だった。初版であることもそうだったが、暁はこの本に何度も救われてきていた。誰かを心から深く愛するという事、その愛が形を失ってしまってからも、後悔出来ぬほどに相手を深く愛してしまったその思い。その気持ちが今ならば良く分かる気がした。強い思いを以て願い続けていたとしても、報われないものがこの世には幾つあるのだろう。必ず実る訳では無い、捨てようとしても捨て切れなかったこの思いが、今こうして夢では無いと暁に知らしめていた。  下着姿のままシャツに腕を通し、移動経路をネットで検索していた暁の耳に絃成の微かな唸り声が聞こえる。起こしてしまったかと振り返る暁だったが、絃成は尚も仰向けに寝息を繰り返しておりほっとした暁は再び画面へと視線を戻す。本日中に向かうのならばゆっくりと寝ている余裕はもう無い。一度寝てしまえば再び日付が変わるまで目を覚まさない自信が暁にはあった。  今の時代ではネットで乗車予約を出来るのが幸いで、当日であっても神戸行きの夜行バスに二人分の空きはあった。乗車時間まで外を彷徨く事も新名の網に掛かり易い。出来る限りギリギリの時間に家を出て素早く乗車してしまった方が良い。しかし仮に家から着けられてしまった場合、巧くそれを撒かなければ行き先がすぐにバレてしまう。新名の詰問から既に丸一日近く経過している、幸い新名に自宅はバレていない筈だったがそれでも隠し通せるのは一日が限界だろう。那月やそれ以外からか――新名に自宅がバレないという保証はどこにも無かった。  軽快な呼び鈴の音が家内に響き渡り暁は息を呑んだ。その音は微睡みの中に居た絃成の耳にも届いたようで、寝室の布団の中で僅かに動いた絃成が暁の視界の端に映った。荷物然り訪問者が現れる予定などは無かった。そもそも絃成の訪問ですら予想外の出来事である程、暁の部屋を訪問する客は決して多くない。まさかもうバレたのか、暁の心臓は大きな高鳴りをみせながら足は自然と訪問者の待つ玄関先へと向かっていた。ひたりとした足音が静寂に響き、暁はそっとドアスコープに身を寄せるように扉へ両手を付く。 「――アキ」  ぞくりと暁の全身に緊張が走った。聞き覚えのある声、その人物ならば確かに暁の自宅を知っていても不思議では無かった。それでも今まで一度たりともそも人物が直接暁の家へと訪れる事は無かった。 「かず、く……」  ドアスコープから目を覗かせる事もなく暁は無意識に後退りしていた。背中にとんと何かが当たる小さな衝撃があり、すぐに五指が暁の両肩を掴んだ事から暁はそれがすぐに絃成である事が分かった。今の暁はもう一人じゃ無い、しかし一人で無い事が今は逆に不利となる。絃成が肩を掴んだ手に自らの手を重ね振り返った暁は言葉を発さずとも意思疎通をはかり頷く。 「アキ、居るならそのまま聞け」  暁の震えに絃成は気付いていた。圧倒的なカリスマ性と統率力を誇る我らがリーダーに暁が気圧されるのも無理は無いが、鼓動と呼吸が今まで以上に上がっている事が引っ掛かった。二人の間に何があったのかという事はこの場をやり過ごしてから問い詰めれば良い、もしかしたら暁は言葉を濁すかもしれないが今の暁ならば隠さずに話してくれるような気がした。  もしかしたら新名とだけではなく、和人ともそういう関係にあったのではないかという絃成の疑念は深まるばかりだった。数日前に逃亡を持ちかけた時も暁の態度が煮え切らなかった理由は和人にあるのではないかと、察せないほど絃成も鈍くは無かった。しかし暁の緊張以上に絃成の緊張も高まっていた。二人の呼吸だけが微かに室内に響く。 「イトナがニーナを刺した理由についてお前に話しておこうと思ってな」 「ッ――!!」 「イトナ、しぃっ」  思わず動揺を示し声を上げそうになった絃成を暁は諫める。相手が新名ではなく和人だったとしても絃成が今この場所に居るという事を知られる訳にはいかない。暁の考えはそうだったが、絃成の立場からは暁にも隠し通すつもりだった事件の真相を第三者の口から伝えられる訳にはいかなかった。  絃成はその理由を知られたくないようだったが、暁としてもその理由に興味が無い訳ではなかった。放っておけば口を挟んでしまいそうな絃成の口を手で覆い隠し、じたばたと藻掻く絃成を抑え付けながら暁は扉一枚隔てた向こう側から聞こえる和人の言葉に耳を澄ませる。 「あの日はニーナも深酔いしてた」  やめてくれと暁の腕の中で暴れる絃成の表情には鬼気迫るものがあった。思い起こされるあの日の出来事、定期的に開かれるグループ内での飲み会。用事がある者は不参加の場合もままあれど、暁以外の六名はそれでも変わらぬ交流を続けていた。突然姿を消した暁のことはある意味タブーのような扱いを受けており、現在の暁について口に出す者は居なかった。それは確かに暁の現在を知っている筈の那月も同じで、萌歌や真夜子が戯れに話題を持ち出そうとも那月はその追及を毎度巧く躱し続けていた。  新名と暁の関係を知らない者は誰ひとりとして居なかった。誰もそれを敢えて口に出さなかっただけで、暁がグループを離れた理由がSCHRÖDINGの解散以外にもあった事は周知の事実だった。  四年という歳月を経ても新名と那月の不仲は相変わらずで、普段は二人の間に諍いが起こらないよう、和人が間に入っていたがそれでも手が回らない時はあり、その日は偶然いつも冷静に新名を躱していた那月の虫の居所が悪く、類を見ない口論が勃発してしまった事にあった。 「那月とぶつかって苛ついてたニーナはお前との昔の写真持ち出してイトナに見せた」 「うそ……」  暁も気付いていた、新名が何枚も行為中の写真を残していた事に。不思議にも新名がそれを利用して暁を脅すというような事はしなかったが、姿を消した今もそれが新名の手元に残っている事に暁は恐れ慄いた。途端に両足から力が抜け、暁は両膝をその場に付いた。新名が残した写真を直接確認した事は無かったが、掻き捨てたい恥である事に代わりはない。それを新名が絃成に見せたと確かに今和人の口から語られた。新名にされた事、させられた事、それがどの瞬間であったに関わらず、絃成に見られたという事実そのものが暁の心を大きく揺さぶった。  見たくなかったと言えば嘘になる。しかし知らなければ暁の心の傷にも気付く事は出来なかった。恐らく暁は知られたく無かったのだろう、絃成に向けられる暁の瞳は大きく揺れ、その色は絶望に塗り潰されていた。絃成は思わず暁から目を反らしてしまいそうになった。もし今ここで暁から目を反らしてしまえば、暁を深い絶望の底へと置き去りにしてしまう事となる。  考えるより早く、絃成は暁の身体を抱き締めていた。浅い呼吸を繰り返す暁の吐息が絃成の耳へと届く。大丈夫だからと願う気持ちが自然と抱き締める腕に力を込めた。  何もかも、全てを知った上で絃成は暁の前に現れた。ひとりでグループを離れた暁がそれまで新名に何をされてきたのか、そしてそれが決して同意の上の事で無かった事も、写真の中に収められた暁の表情から分かっていた。 「そんでニーナが言ったんだ。お前の事『便所』って。だからイトナがキレた」  瞳に溜まる涙が堪え切れず絃成の肩へと落ちた。その場で何が起こったのか和人の言葉だけで暁は容易に想像が付いた。和人がこんな事で嘘を吐くような人物で無い事を暁は良く知っていた。だからこそ和人から知らされた話は真実であり、絃成が目の前に再び現れるより前から新名との事を知っていて、あまつさえ自分の為に事件を起こしたのだと事実から発生する感情が洪水のように暁の心を揺らす。 「――それだけ、お前は知っていた方が良いと思ってな」  何故、和人がその事実を告げに来たのか、その理由は暁には分からなかった。それでも踵を返すコンクリートの音に振り返った暁は絃成の制止も聞かず弾かれたように天の岩戸の扉を開ける。今言わなければきっと一生後悔する事になる、それまで何とか声を潜めてやり過ごしていた決意もあっという間に瓦解し、暁は夕焼けの赤い空に染まる和人の背中に声を投げ掛けた。 「っ、和くん!」 「わ、馬鹿っ、アキ――」  何の為に居留守を使っていたのかと暁に手を伸ばす絃成だったが、暁の在宅以上に自分が此処に居る事が露見する方をまずいと感じた絃成は手を伸ばしたままその場に棒立ちする他無かった。和人だからといって安心は出来ない。和人と新名が通じているという様子は今まで見られなかったが、同じグループの仲間として和人が必ず隠し通すと断言する事も出来なかった。もし扉を開けた先に立っていたのが和人だけで無かったら――声も上げられぬまま絃成は凍り付いたように扉から身を乗り出す暁の背中へ手を伸ばしていた。 「ありがとうっ……」  暁のその一言を受けて、和人は微かに暁を振り返る。愛用するサングラスが顔半分を隠している所為でその表情は伺えなかったが、そのレンズの奥に暁は僅かに和人の瞳が見えたような気がした。

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