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第八章 逃亡の算段

「イトナ、すぐ出るよ準備して」 「えっ?」  扉をそっと閉めた後、暁は絃成に背中を向けたままそう告げた。もう少し時間をみて暗くなってから闇に紛れて出掛けるつもりだったが、そう悠長な事も言っていられない理由が暁には出来てしまった。しっかりと内側から施錠を下ろし、先程まで頭の中だけで考えていた計画通り少し早いが荷物を纏めてこの場を後にしなければならなかった。  絃成は暁が何を言っているのか理解出来ず下着一枚の姿で立ち竦んでいたが、暁の唐突な一言に思わず聞き返してしまった。声を掛けた和人が再び戻ってくる事も無く、紙一重で暁の部屋に潜んでいる事はバレていない様子だったが、少し前とはがらりと印象が変わった暁の様子に付いていけない絃成の腕を掴み、暁は強引に寝室へと連れ込むとクローゼットを扉を開く。 「和くんが来たって事はイトナがここにいる事もうバレてる」  例え直接絃成の姿を見られなかったとしても、和人がこのタイミングで暁に絃成の真実を告げに来たという事が、絃成の逃走に暁が関わっている事実が露見していると如実に表していた。間もなく新名が訪れる事は明らかであり、和人の訪問は警告であると察した暁はもう一刻たりとも猶予は無く、暁はクローゼットの奥から黒いボストンバッグを引っ張り出す。 「お前、そんな身体でまだ無理は……」  暁が何かに急かされている事には気付いた絃成だったが、下着にシャツ一枚という姿でクローゼットからボストンバッグを取り出す暁の後ろ姿を見ると、その肩に手を置いて制止を促そうとした。一晩中求め続けてそう簡単にすぐあちこち動き回れる訳も無い。確かに暁の言う通り少しでも早く逃亡を図る必要はあったが、和人が自分の存在を強く問い詰めなかった事からまだある程度は時間に余裕があるものだと考えていた。 「すぐニーナが来るよ、だから急いでっ!」  もしかしたら新名は和人を着けていたかもしれない、和人との遣り取りを何処かで見ていたかもしれない。顔を出した直後に部屋へ乗り込まれてもおかしくは無かった。もう夜を待っては居られない、すぐに部屋を出てバスが出発するまでの時間逃げ続け息を潜めなければならない。ただその死線さえ抜け切れてしまえばもう新名に見付かる不安は訪れない。当面の逃走資金さえあれば何も問題は要らない、暁はボストンバッグのジッパーを開く。背後から覗き込んだ絃成が目にしたのはボストンバッグ一杯に詰め込まれた札束だった。目測でその束が三十近くあると考えれば、その額は三千万円に及ぶのだろうか。勿論全てが本物だったらの話ではあるが、暁のクローゼットから出てきたその札束の量に絃成は絶句した。 「アキ、何だよお前その金……」 「これだけあれば暫く暮らせるよね?」  到底暫くどころではなく過ごせる金額ではあっただろうが、暁の部屋やその室内を幾ら見ても、とてもそんな大金を持っているような暮らし振りには思えなかった。思えば当初から暁には謎が多かった。まだ学生だった絃成には社会人の年収事情など思いも及ばなかったが、真っ当な仕事に就いていたならばたった数年で稼げるような金額では無い事は理解出来た。それがこのようにバッグの中に現物として保管されていた事から普通の金でない事は分かる。 「……それ、お前の金じゃ無いよな? 何の金だよ……」  絃成からの問いに暁は口を噤む。誰が見ても普通の金で無い事は明らかだった。しかしそれを説明している暇など暁には無かった。その金の出処を明かしてしまえば、新名との関係以上に軽蔑されてしまう事になるだろう。バッグを掴む暁の指先へ僅かに力が篭もる。 「なあアキ、俺たちのグループ抜けた後何してたんだよ」  絃成の知る暁は犯罪に手を染めるような人間では無かった。でももしこの大金が、暁がグループを抜ける一因であったとしたら――考えかけて絃成はやめた。そんな事が起こり得る筈が無かった。どう考えても暁は小心者だ、犯罪に巻き込まれる事ならばあるとしても自らがそのような企てを起こす筈も無かった。ただそれは絃成が知っている限りの暁であり、暁に絃成の知らない一面があった通り、まだ絃成は暁の事を何も知らないでいるのかもしれない。  そうだとしても、絃成は暁の全てを受け入れるつもりでいた。もしこの金が表に出せないような汚れた物だったとしても、暁の家にそれがある事にはきっと理由がある。そう信じている絃成は黙り込んでしまった暁へ催促するように顔を覗き込む。 「アキっ!」  何があってももう逃げない、暁を一人にはしない、絃成は再びこの部屋に戻った時にはそう決めていた。その考えは暁にも伝わっていた。新名の写真を絃成に見られたと知ったあの瞬間、即座に強く抱き締めてくれた絃成の気持ちを疑える訳も無かった。それでも出来る事ならば隠し通したかった。そう決意を固めた時、暁は絃成の瞳を正面から見据えていた。 「――イトナ、俺を信じて」  絃成が金の出処を危惧している事は暁にも分かった。いつか話せる時が来るかもしれないけれど、それは決して今では無い。今すべき事は金の出処を詳細に説明する事では無く、この金を持って神戸へと逃げる事だった。 「一緒に逃げよう、神戸。俺が絶対にイトナを守るから」  絃成が寝ている内に決意を固めたが、それを伝える時間の余裕が無かった。命に替えても絃成の事は無事に守り切る。もしその事で多くの物を失う結果になったとしても、今行動しなければその方がきっと深く後悔する。  逃げるとしてもそれは自分だけだと思っていた絃成は、暁が告げた『一緒に』という言葉を聞き間違いではないかと放心した。数日前には確かに拒絶された、それでも諦めきれないから再び暁の前に現れた。暁と新名の関係を知っていた上だとしても、新名に傷付けられた暁を目の当たりにした時絃成の中に湧き上がった感情は、新名に対する殺意だった。あの時は殺すつもりまでは無かった、ただ皆の前で暁を侮辱された気がして悔しかった。しかし今は殺したい程憎んでいる。 「一緒に……行ってくれるのか?」  一体いつから、その答えは自問自答しても出なかった。自分は間違いなく女性が好きであるし、暁以外の男に今まで性的好奇心を抱いた事など無かった。初めて暁の家に来た時は、暁ならば自分を匿ってくれる筈だと考えていたからだった。そこに色恋沙汰の絡んだ余計な気持ちは無く、ほとぼりが冷めたら黙って神戸へと逃げるつもりで、暁を抱いたのはただの気まぐれだった。暁が自分の事を好きだという事は知っていたし、篭絡してしまえば追い出されるリスクも少ないと考えたからだった。その中でも、暁を侮辱された事に何故あんなにも腹が立ったのかを考えてもいた。だから暁を神戸へと誘った。逃げなければならなかったが、もう少し時間を掛ければもしかしたら何かが分かるかもしれないからだった。暁に断られた時、思いの外傷付いている自分が居た事に気付いた。暁ならきっと来てくれる筈だと思い込んでいた上で、暁が自分を選ばなかった事がショックだったのだと理解をした。  昔の事だと思っていた、しかし新名に凌辱された暁の姿を見てもう歯止めが聞かなくなった。いつ堕ちたかなど、絃成に分かる筈も無かった。一度は断られた筈だったが、今目の前の暁がこうして一緒に神戸へと逃げてくれると言っている。夢では無いだろうかと絃成は何度も目の前の現実を疑った。喧嘩をした萌歌と縒りを戻した瞬間の気持ちとは何かが決定的に違う、温かい安堵感。これが感情の伴う嬉しさであるという事をこの時の絃成はまだ知らなかった。 「俺も一緒に行く。だから……今は何も聞くな」  共に歩む道が茨のそれであったとしても、暁はあの頃のように何も出来ずに縮こまっていた頃とは違う。絃成が自分を守ってくれたから、自分も絃成を守りたい。例えこの身も心もとうに汚れきっていたとしても。

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