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第九章 裏切りの愛人

 共に堕ちるなら地獄まで――そう決めた暁と絃成の二人は荷造りも漫ろにボストンバッグを持って家を飛び出した。夏も盛りのこの時期に、帽子を目深に被りマスクで顔の大半を隠し、一度北上し埼玉を大きく経由する形でバスの出る新宿へ到着した頃、日はとうに暮れていた。  それでも新宿に足を踏み入れるからには新名の包囲網に掛かる可能性を想定しなくてはならず、繁華街を避け南側の路地を伝い人の目を避けながら乗車時刻の数十分前、漸く目的地であるバス乗り場付近に到着した。  暁のスマートフォンはSIMカードごと破壊した後部屋へ置いたままにしてあり、万が一の為に絃成のスマートフォンは持ってきていたが、神戸に到着するまで絶対に電源を入れるなと強く伝えてあった。まさか絃成のスマートフォンに現在位置を確認出来るようなアプリケーションが仕込まれているとは考え難いが、絃成と萌歌の関係を考えた上でも用心に越した事は無い。  神戸まではおよそ八時間の長旅で、新幹線などの交通経路を使えばもっと早く到着する事も可能だろうが、即座に逃げ出せる列車よりも時間の掛かる夜行バスの方が相手の目を欺きやすい。それでも乗車するまでは油断が出来ず、一度乗り込み発車してしまえば後は大阪までは乗り込まれる可能性も非常に低い。  息を潜めながらも辺りを伺い、新名やその関係者、何処かで見た事のある顔が自分達に注視していないか、サングラス越しに二人は警戒していた。何事も無く乗り込んでしまえばこちらの勝利は確定する。那月へは神戸に到着してから連絡を入れれば良い。そこまでしなくとも、暁と絃成が共に姿を消したと話が広がれば遅かれ早かれ那月の耳にも入る事になるだろう。 「っ――」 「アキ?」  暁が息を呑んだ音に絃成は顔を上げかけた。しかし暁はそれを許さず、絃成に被せた野球帽の鍔を掴み深く被せさせると同時に自らは背にしていた壁から背中を浮かす。発車時刻まではもう間もない、暁は自らのポケットに忍ばせていた乗車券を絃成の手に握り込ませ周りの客に気付かれないようそっと耳元へ唇を近付ける。 「ちょっと、トイレ行ってくる」 「ああうん」  夜行バスにトイレは付いていないのかと自らも発車前に行くべきかと考える絃成だったが、不思議と今は自身の尿意よりも暁が定刻までに戻って来られるのかという事のほうが心配だった。しかし乗り場の電光掲示板に表示される出発時刻と現在時刻にはまだ十分近く余裕がある。腹でも下していない限り問題は無いだろうと考える絃成だったが、もしかしたら避妊具を使用しなかった自分に原因があるのかもしれないと考え、昨晩の暁を思い出し赤面する顔を隠すように顔を俯かせた。  絃成が避妊具を用意していなかったのは想定内で、暁の部屋にも残念ながら避妊具は常備していなかった。買いに行けば良いだけの話ではあったがそれを出来る状況でも無く、その何回かは肌の上やシーツの上へと吐き出されはしたが、それでも数回は間に合わず暁の中へと吐き出された絃成の若い欲は、絃成の想像通り暁を腹痛に苛んでいた。絃成に限って何かの病気を持っているという事は無さそうだが、やはりここは年上として何としてでもあの時には一度止めて近所の薬局へ避妊具を買いに行くべきだった。  ただ避妊具の用意をする余裕が無い程の切羽詰まった絃成の姿は今思い返しても胸を締め付けられる程の愛しさがあり、男性用洗面所で手を洗いながら暁は自らの口元が僅かに綻んでいるのを感じていた。それでも無事に神戸へと到着するまでは気を抜けない。気合を入れ直す為に冷水で顔を洗った暁が視線を上げると、鏡の奥に見知った姿があった。 「和くん」  数時間前、暁の部屋の前で絃成の真実を告げた和人の姿がそこにあった。見送りに来てくれた等という考えは及ばなかった。今この場所に和人が居る事そのものが暁にとっては絶望以外に他ならなかった。何故ここに和人が居るのか、何故和人は態々真実を告げに部屋の前まで現れたのか、あれは和人からの警告では無かった。蛇口から水を流したまま暁が振り返り様々な思考を巡らせていたのはほんの一瞬の出来事だった。  次の瞬間、暁は言葉を失った。焼けるように腹が痛い。まるで腰から下が別の生き物のように何も感じられなくなっていた。暁の腹部へと刺さる小型のナイフ、暁の至近距離に立つ和人の右手にその柄は握られていた。 「――――どうして?」  真っ先に暁の口から飛び出した言葉がそれだった。分かる事は和人に刺されたという事実だった。和人は左腕を暁の腰へと回し、暁の身体を抱き寄せながら右手に握ったナイフを更に奥へと押し込む。刺された場所が燃えるように痛くなり、ぼたぼたと真っ赤な暁の鮮血がタイルへと落ちる。 「お前は裏切るなって言ったよなアキ」  低く伸びの良い声が暁の鼓膜を直接震わせる。刺された箇所は熱いのに全身が震える程に寒い。姿を隠す為に夏であっても羽織った黒く長い上着が熱を奪う事を防いでくれてはいたが、それでも暁の全身が小さく震え始める事に時間は掛からなかった。 「お前に預けた俺の金持って、イトナと逃げる気か」  ボストンバッグは洗面所へと向かう時そのまま絃成の隣に置いてきたが、それらは全て和人の所有物だった。厳密には和人が暁に預けていたものであり、暁に大切な金を託す程に暁は和人から信頼をおかれていた。 「かずくん」 「ニーナとマヨからお前を守ってやったのは誰だ?」  和人の金を無断で持ち出す事がどういう事であるのか暁は十分承知していた。和人にバレれば命が無い事も理解した上で暁は絃成との逃亡を選んだ。それが和人に対して何よりも酷い裏切り行為である事を暁は痛い程良く分かっていた。  ただ新名から蹂躙されるだけの日々、事実を知った真夜子による更なる屈辱、それらの全てから暁を救い出したのが和人だった。和人は全てを聞いた上で暁に自分の愛人となる事を求めた。暁にとっては相手が新名や真夜子から和人に変わるだけの事だったが、暁の予想に反し和人は暁を手酷く扱う事は無かった。和人に抱かれている間だけは幸せを感じる事が出来た。その恩はとても返し切れるものでは無い。  和人は嘗て真夜子と付き合っていた。それは一部の者しか知らない事実ではあったが、時が経ち真夜子は刺激を求め和人から新名に乗り換えた。真夜子の裏切りに和人が深く傷付いていた事を暁は知っていた。だからこそ和人の心の穴を埋める事が出来るのならばそれでも良いと思っていた。  和人が真実を告げに来たのは暁の為では無く、その言葉を聞いた暁が絃成との逃亡を企て自分の事を裏切るのか、隠し切れない猜疑心から起こした行動である事を暁はこの時漸く気が付いた。 「和くん、ごめん、ごめんなさい……」  裏切って絃成を選んでしまった事は殺されても償い切れない。許されない事だとしても――それでも許して欲しい。漸く手に入れる事が出来た絃成という存在をもう二度と手放したくなかった。暁は膝から崩れ落ち、それに応じて和人も身を屈めて片膝を付く。 「アキ、お前は俺の物だ」  身体の奥深くへと突き刺したナイフを引き抜くと、口から泡を吐き出すように腹から血の泡が吹き出す。謝罪の言葉などもう何も意味を成さない。和人にとっては暁が裏切った事実しかそこには無かった。 「ゆる、して和くん……」  自らの非を詫びて、助けを乞えばきっと和人はこのまま暁を助けて絃成を見逃すだろう。絃成は神戸にさえ行けば一先ずの首は繋がる。暁は恐らく生涯和人へ償い続ける日々を過ごす事だろう。そこに暁の自由は一切無く、今までのように和人に買い与えられた部屋で暮らすような勝手も許されず、常に和人の監視下で飼われ続ける事だろう。絃成が逃げ切れるのならばそれでも良いと暁の考えが巡った。この命に替えても絃成を無事に逃がす事が出来るのならば――。 「俺を裏切るなっ……」 「和く、ん……」  暁は血に染まった片手を和人の服へと伸ばす。  和人から受けた恩が返し切れない事は分かっている。暁にとって和人は間違いなく大切な存在であり、和人が望むのならこの命を失っても構わない。  それでもどうか許して欲しい、絃成と共に行く事を。懇願する暁に和人は残酷な言葉を告げる。絃成が元々暁の保管する金が目当てだったと何故考えないのか、と。絃成と新名が予め共謀していた可能性すら示唆された。和人から提示された可能性は暁であっても「もしかして」と疑念を抱いてしまいそうだったが、すぐにその可能性を恥じた。  和人の言葉は暁の決意をぐらつかせるのには十分で、暁はタイルの上を這い和人に命を乞うのではなく絃成の為にこの生命を捨てる事を決めた。和人はそんな暁の姿をただ眺めるだけで、既に虫の息である暁がふらつきながらも立ち上がり洗面所から立ち去ろうとする時も手を貸す事は無かった。  自分の物にならないのならばその命は消えてしまっても構わない、暁だけは真夜子とは違う人間であると和人は信じたかった。しかしその期待も無惨に打ち砕かれ、また一人自分の側から離れて行こうとしている。いっそこの場で息の根を止めてしまえば永遠に暁は自分の物となる。和人は右手に握ったままのナイフを無防備に向けられた暁の背中へと振り上げ――そしてやめた。  患部を強く抑え、壁に肩を預けながら暁は一歩ずつ絃成が待つ待合室へと向かう。上下共に黒い服であった事は外から出血を気付かれ難くする事に最適で、夜も深まった事で周囲の誰も暁が重傷を負っている事に気付きはしなかった。 「イトナ、」  時刻通りならばバスが到着するのはもう間もなく、和人の告げた言葉が頭の中を巡ってしまうのも、恐らく正常に頭が働き切れないからだと感じていた暁はガラス越しに待合室を覗き込む。先程まで確かに絃成が背中を預けていたその壁際に、絃成の姿と逃亡資金の入ったバッグは残されていなかった。 「イト、ナ……」  温かいかも分からない涙が暁の頬を伝い流れ落ちる。和人の言葉が現実になったのだとしても、絃成が新名に命を狙われる事もなく無事に過ごせるのなら良いのかもしれない。だからと言って今更和人に助けは乞えない。今二度も和人を裏切り、どんな顔をして許しを乞えば良いのか、和人ならば受け入れてくれる可能性もあったが暁自身がそれを許せなかった。  馬鹿みたいに人を信じ過ぎて、昔から新名や真夜子に言い包められ騙されてきた。絃成にすら騙されていたという事実は、暁の腹の傷以上の大きな穴を心に開けたようだった。震える両足、自分を支えるのも精一杯の中傷口を抑える指の間からぽとりと紅い雫が滴り落ちた。

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