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第1話

 春先の冷たい風が頬に当たり、眼鏡をかけた田辺(たなべ)はひとり、トレンチコートの襟を立てた。ラウンジばかりが入った繁華街のビルが目的地だ。  エレベーターに乗り、階数のボタンを押す。指先で髪を整えているうちに着き、停まった階で降りて飴色の扉を開いた。 「いらっしゃいませ」  にこやかに近づいてくるボーイに、脱いだコートを渡して名前を告げる。  待ち合わせだと付け加えるまでもなく、シャンデリアの吊るされた豪奢な店内へ案内された。赤いベルベットのラウンド型ソファが壁沿いにいくつも並び、それぞれの席のあいだには、すりガラスの仕切りが設置されている。高級店ということもあり、満席にはなっていない。 「来た来た。遅っせぇ……っ」  細縁の眼鏡をかけた和服の男が、指先をヒラヒラと揺らした。ホステスを両脇にはべらせ、片手にグラスを持っている。テーブルの上に置かれたプレミア焼酎で気持ちよく酔っているらしい。  パッと目に入る雰囲気の麗しさに比べ、はすっぱな口調が著しくアンバランスだ。  声をかけられた田辺は言いようのない苛立ちを覚え、すんっと真顔になった。挨拶もしないでいると、ソファの端に控えていた岡村(おかむら)がすかさず動き、楽しげに笑うホステスたちを急かして下がらせた。  こちらは朴訥とした印象の男だ。地味なシングルスーツを着ているが、オーダーメイドスーツに慣れた人間の目はごまかせない。  深い紺色の布地のなめらかさ。体格をさりげなく補正するパターンと仕立ての確かさ。  あきらかに金のかかった一着は、そこいらのヤクザが好んで仕立てるとは思えない趣味の良さを兼ね備えている。  田辺は内心で驚き、同時にあきれた。高品質で高級感溢れる一流のスーツを、これほどまでカジュアルダウンさせていることに対してだ。無個性と感じられるほどたわいもない着こなしが、和服姿の目立つ佐和紀(さわき)をさらに引き立てる。岡村はわかっていて、朴訥な世話係を演じているのだ。 「あー……」  離れていくホステスたちを見るともなく見送り、田辺は小さく声を発する。せめて自分の隣には女の子を残して欲しいと思うが、気を利かせてもらえるはずはなかった。  佐和紀との『飲み』はいつだって気鬱だ。  注文をつけるのも面倒になり、今夜もおとなしくスツールに腰かけた。  へりくだる気はない。スーツの襟を引いて居住まいを正し、オーダーを取りに来たボーイに生ビールを頼んだ。 「おまえ、なに、ぬるいこと言ってんだよ」  向かい側に座る佐和紀が眉根をひそめた。柳の葉のように細くて美しい眉を見ると、心底から、この男が女だったらよかったのにと思う。眼鏡を取って着飾らせれば、三日は夜のオカズがいらなくなるような風情がある。 「一緒に、グラスをもうひとつ」  手にしたタンブラーグラスを揺らし、佐和紀は軽快な口調でボーイに向かって追加の注文を出す。田辺にも焼酎を飲ませるつもりだろう。  紬の着流しに羽織姿で眼鏡をかけ、不敵に微笑む佐和紀は独特の雰囲気がある。眼鏡で素顔を隠していても、ときどきハッと胸を掴まれるぐらいに整った顔立ちだ。  田辺と岡村の兄貴分である大滝組(おおたきぐみ)若頭補佐・岩下(いわした)周平(しゅうへい)の男嫁となって四年が経ち、ますます美貌に磨きがかかっている。  付き合いの長い田辺には、いまでも旧姓の『新条(しんじょう)』のほうが馴染み深く、彼特有の雰囲気が、ガラの悪い『狂犬』の本性だとも知っていた。凶暴なチンピラの名残は、そこかしこにある。  そのくせ、ほんの少し艶が混じる。昔から変わらない特徴であり、田辺の気鬱をもっとも逆撫でするところだ。  酔って赤みが差した頬やうなじに色気があり、常識知らずの幼稚さが加わると、隙を見せられたような気分になる。あきらかに一方的な勘違いだが、見えるのだから仕方ない。  とはいえ、佐和紀の身持ちの堅さは半端ではなく、うっかり手を出そうものなら、うかつな指の一本、すり寄せたあばら一本ぐらい、簡単に折られてしまう。  いまも凶暴さは健在だが、田辺にはまったく関係ない話になった。  美人局をしたりして小銭を稼いだふたりは、あるときからまるで別々の人生を歩き始めたからだ。チンピラの粗雑さを残す佐和紀はもう、幼稚な世間知らずではない。  田辺にしても、服を剥いだらどうなるかと想像するような、暇つぶしの興味をいっさい持ち得なかった。なのに、なぜかまた道が交錯してしまい、こうした酒の席に呼び出されている。 「……ツケておけば、あとで払うって言ってるだろ」  すぐに届いた生ビールを喉へ流し込み、田辺はおおげさに顔をしかめた。  佐和紀が、金に困っているわけがない。名目上の夫である岩下は金回りがいい大幹部だ。  支払いなら財布を持たされた世話係がおこなう。それなのに、わざわざ田辺を呼びつけて飲み代を支払わせる。ツケの後払いにしてくれと言っても無駄だった。  これは佐和紀の暇つぶしであり、嫌がらせだ。  しかも、田辺が繰り返したことを、ごく当然になぞられているだけで、まさしく身から出た錆でしかない。  藪をつつけば蛇が出る。佐和紀に対しておこなったからかいの数々を思えば、呼び出しには素直に応じて、適度に相手をするしかなかった。  機嫌を損ねたら、心底から面倒なことになる。それが田辺と佐和紀の関係だ。 「おまえの顔が見たくなったんだよ」  あごをそらした佐和紀が、意地の悪そうな薄ら笑いを浮かべる。 「……カレシ、元気?」  顔を合わせれば、いつも同じ質問だ。田辺は無表情のまま、うんざりした。『おまえに関係ない』と言おうものなら、そばに控えている岡村に睨まれる。  佐和紀に執心してしまったせいで、舎弟仲間としての気づかいもなく、まったく肩を持ってくれない。そもそも岡村との仲も、ひとくちに友人と呼べるものではなかった。 「仕事が忙しくて、会えないぐらいには、元気だ」  田辺が答えると、酒をひと飲みした佐和紀はふっと鼻で笑った。 「そのまま会わないでやれば、向こうにとってもいいのに」  田辺のカレシ、つまり『恋人』は男だ。三宅(みやけ)大輔(だいすけ)。組織対策課の刑事で、日々、暴力団を取り締まっている。田辺との関係は表向き、情報をやり取りするヤクザと刑事だったが、いつしか抜き差しならないほど深い仲となった。  目を細めた佐和紀が、グラスを揺らす。氷が硬い音を響かせた。

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