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第2話
「別れないの?」
軽い口調で言われ、田辺はこめかみを引きつらせた。
佐和紀は、大輔の名前を覚えようとしない。もちろん覚えて欲しくなかった。からかわれて酒の肴にされるのも癪に障る。
「また、それか……。そっちこそ、そろそろ結婚に飽きがきたんじゃないのか。別の男でも試したらどうなんだ」
嫌味で返して、そばに控える岡村へ視線を送る。兄貴分の嫁である佐和紀に惚れてしまい、一時期は転落するかに見えた。それが、持ち直すなり一足飛びに成長していま現在だ。周囲を騙す朴訥さこそが岡村のそつのなさであり、本性は見た目とはまるで違う。
静かに睨み返してくる視線も、刺さるほどに鋭い。
「冗談だよ」
田辺は肩をすくめた。佐和紀との複雑な関係を揶揄すれば、岡村の心は極端なほど狭くなる。付き合いが悪いこと、この上ない。
「冗談にならないんだよなー?」
笑ったのは佐和紀だ。酔いに任せて身を傾け、岡村の腕をバシバシ叩いてからかう。
かなり痛そうなのだが、岡村は迷惑そうな表情を微塵も見せなかった。それどころか、くちびるの端に、ほんのりとした笑みを浮かべる。
「……いや、おまえさ。それは、どうなの……」
田辺は首を傾げた。いつものことだが、岡村の惚気を見せつけられている気分だ。付き合ってもいないくせに、岡村と佐和紀のあいだには独特の空気感がある。
恋愛ではないが、友情でもない。かといって、主従関係と呼べるほど硬質でもないのに、信頼関係だけは構築されている。そういうあいまいなニュアンスだ。
酔っ払いの佐和紀は身体を斜めにしたまま笑う。
「なー、シン。こいつ、どんな顔して、カレシといちゃついてると思う? だいたい、なんで男を選ぶんだよ。おっかしいだろ」
まるで言いたい放題だ。最後には、お決まりの文句に行きつく。
「相手がかわいそう。本当にかわいそう」
言葉を繰り返した佐和紀は、焼酎の水割りをグビグビと飲み干し、手の甲でくちびるを拭った。場末の居酒屋で飲んだくれるおっさんのようで、女と向こうを張れる美貌が台無しだ。田辺は淡い落胆を感じながら眺めた。すると、着物で拭おうとしていた佐和紀の手を岡村が引き寄せた。
「佐和紀さん」
テーブルに置かれた手拭きのタオルでそっと手の甲を押さえて拭う。佐和紀は礼を言うでもなく、岡村に片手を預けたまま、酔いのこもった流し目を向けてきた。
「なー、それってやっぱり、俺とヤれなかったから?」
「なんでだよ」
間髪入れずに否定して睨みつける。
余計なことは言い出さないで欲しい。並べ立てられたら土下座をしても足りないような過去ばかりだ。
岡村に知られるのもややこしくなって困るが、佐和紀の旦那である岩下に筒抜けるのも、たまらない。
いまは特に微妙だった。やっと舎弟の立場から抜けることが許され、来月には大滝組との関係を断つための対外的な書類の発行が秘密裏に約束されている。それを警察へ提出すれば、田辺は大滝組と無関係になる。カタギへ戻る段取りの一環だ。
このタイミングで岩下の怒りを買ったら、すべての苦労が水の泡になってしまう。
「だってさ、おまえ、本当に……」
「そんな話、どうでもいいだろう」
田辺はさりげなく佐和紀の言葉を遮った。しかし、岡村が割って入ってくる。
「どうでもよくはない」
そう言われ、深追いされると都合の悪い田辺は顔を歪めた。
「仕方がないだろう。あのときはまだフリーだったんだから」
田辺にはそのときどきに女がいたが、誰も本命になったことはない。一方、佐和紀はいつもひとりだった。彼が気にかけていたのは組長のことだけだ。
その弱みにつけ込んで、あれこれと関係を迫ったことは本当だが、どれもが不発に終わった。ふたりのあいだに性的な行為が存在したことはなく、田辺からの嫌がらせと佐和紀の恨みだけが積みあがっただけの過去だ。
佐和紀はいまでも根に持っているようで、金を払っても殴られても忘れてくれそうにない。もしかすると、恨みよりもはるかに、田辺をからかうことに楽しみを見出しているのかもしれなかった。
「フリーなら、どんなことをしてもいいわけじゃない」
岡村がチクリと刺してくる。田辺は黙ってビールを飲んだ。余計なことは言わないに限る。だいたい、佐和紀にしたことのほとんどは、当時、酒席の笑い話として岡村に語っているはずだ。しかし、その相手が佐和紀だとは気づかれていない。もう忘れてしまった話も多いはずで、それはありがたかった。一生、気がつかないでいて欲しい。
岡村や岩下以外にも、佐和紀の周辺には美貌と男気に惚れ込むシンパが多く、そのどれもが厄介な男たちばかりだ。
岩下しかり、岡村しかり、大滝組若頭の岡崎しかり。
そして、大滝組組長のひとり息子である悠護(ゆうご)もそこへ加わっている。
田辺にとっては、岩下の次に、佐和紀への悪行を知られたくない相手だ。
大滝組のレッテルを捨てるため、岩下の元を離れることを決めた田辺は彼の下に入ることを選んだ。
悠護は海外在住のパーティーピープルであり、世界中を飛び回りながら、人から預かった金を元手に利益を得る投資家でもある。
規模は億単位だ。儲けも億なら、損失も億。シノギが縮小していく日本のヤクザ業界から見れば、桁違いにスケールが大きい。
そして、悠護のやることであれば、岩下は口出しできない。事実、その話を持ち出すことで、大滝組脱退の約束を取りつけることができた。
大滝組を足抜けしても、経歴のすべてがクリーンになるわけではないが、刑事として働く大輔の足を引っ張るような事態にはならない。
しかし、そのために岩下から要求された足抜け料は五千万を超えた。用意した金額を大幅に上回ったが『足りない』とは口が裂けても言えない。
結局、いくらかは悠護から借りることになり、これも気が重かった。
「俺となにもなくて、よかっただろ? な?」
酔った佐和紀が屈託なく笑う。小首を傾げる仕草は相変わらずの色気と無邪気さを兼ね備え、腹が立つほど魅力的だ。
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