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第1話 経験しているのは、えらいことですか

男だけの生理なのかはわからないが、誰でもいいからふれてほしいと欲の塊になるときがある。 向井(むかい)(りつ)はそれが人より激しい(たち)ではないかと、子供の頃から悩んでいた。 律が手で慰めることを知ったのは、他の男よりは早かったかもしれない。 小便をしたくないときにそこを丹念に擦れば、痺れのようなものが襲ってくるのだと、幼稚園に上がる頃に知った。 快感という言葉を知る前に、律は快感を覚えた。 時は過ぎて、体をかさねる方法を悪友の口から聴くと、まさしくこれだと合点がいった。 生まれてからずっと身のうちに沸き起こる焦燥は、誰の肌も知らないからだった。まだ詰襟を着たばかりの律は、そう考えた。 :蝦夷梅雨えぞつゆ)で一層(かび)臭くなった町立図書館で、『からだのしくみ』という分厚い図解入りの閉架資料を読み(ふけ)ったのはこの頃だった。 でも、だからといって。誰かと通じるにはどうしたらいいか、律にはわからなかった。 正体がわかっても、治療できぬとは。焦りは募るばかりだ。 二十三になって自慢できるのは、慰める手つきが昔より上手くなったことだけだった。早く達して、欲の塊になっていた自分を、日のもとに出られる理性ある自分に戻す。慰めることは、機械的な作業に陥っていた。 高校の学園祭、大学の飲み会と、体をかさねる機会はあったのに、騒ぐ連中を律はただぼんやりと眺めるだけだった。 奥手と人に言われたが、ただわからないだけだった。 冗談を言い合う仲のふたりが急にまじめくさった顔で服を脱ぎ、さて一戦……どんな流れだとうまくいくか律は知らない。 それでも、こんなものかしらと文章を書いたら、うけてしまった。 映画や本のラブシーンをかき集めて律の脳みそで煮込んだ、実体のない『恋愛』に人々は唸った。 「夢のような恋」と言った読者もいた。当たり前だ。 すべては律の夢なのだから。 何も知らないのに、こんなものだろうと、律はたくさんの恋愛小説を書いた。 純愛、不倫、SM。筆の加減を知らず、律は書いた。 律は知らなかった。 たったひとつの経験で、湧きあがる空想を塗りつぶせるということを。 律は知らなかった。 思うままに書いた小説が、ある男を欲の塊にさせていたことを。 「きみは、本当に伸び伸びと書きますね」 「ありがとうございます」 札幌狸小路商店街の外れにある喫茶店で、律は男と向かい合っていた。 少量のカフェインでも眠れなくなるが、律は男と同じくコーヒーを頼んだ。 原稿の打ち合わせでミックスジュースをオーダーするのは、あまちゃんと思われるような気がしたからだ。 しかし、苦い。熱い。 カップを持って口を軽くつけて、戻す。ただそれを繰り返して、コーヒーが冷めるのを待った。 「橋田(はしだ)さん。今回の描写、マンネリではないですか?」 「そうですね……女性の反応が同じといえば、同じかな……」 喫茶店には律と橋田の他に、客がひとり。昼休憩の営業マンらしきスーツの男性が、煙草をくゆらせている。 平成になり、喫煙可能な喫茶店は減った。喫茶『ふらんす』は、愛煙家にとって貴重な店だろう。 律も橋田も、煙草は吸わない。煙たくても、いつも打ち合わせは『ふらんす』だ。 禁煙の喫茶店では、学生も婦人もいるだろう。そんな店で、男がああしたら女がああしろと話し合うのは(はばか)られた。 橋田はごつごつした指で、原稿の一点を指す。 「女が初めて身を任せる、このシーン」 原稿は、律が不慣れなパソコンでタイピングした。 行間が狭く、書体が妙に大きい。設定を直せばいいのだが、やり方がわからない。橋田は、構わないといつも笑顔で受け取ってくれる。 律は橋田に甘えてしまう。 デビュー前、新人賞の最終選考まで残ったときに連絡をくれた橋田。橋田のアドバイスで翌年に受賞すると、当たり前のように彼が担当になった。 あれから四年。 何かあれば律は、「橋田さん、橋田さん」と彼の携帯に電話する。私用携帯の番号は、橋田が教えてくれた。 「きみが描く女性は、あまりいやがらないですね」 「……そんなものじゃないですか」 橋田は律のことを、『きみ』と呼ぶことが多い。 律は橋田の弟と同い年らしい。「十三歳も離れているんですか」と律が聞き返したら、橋田は「体力があるんですよ、親父とおふくろは」と笑みを浮かべた。笑い返していいのか、律はわからなかった。 「女の人って……好きな人にさわられたら、うれしいものですよね。だから、体が……そんな風に」 「体の反応って、好きな相手じゃなくても起こるんですよ。いやがっても体は素直だな……って経験、ありませんか?」 橋田は笑った。あのときと同じ顔だ。 律はどう返したらいいかわからない。 「律先生は好きでもない人とは、しないんですね」 橋田はたまに、律のことを『律先生』と呼ぶ。 律よりも売れている『向井』という名字の推理作家がいるからだ。 (好きでもない人どころか、誰とも……) 「……ないですよ。好きでもない人となんて」 この返事は嘘ではないはずだ。 ずっと自分の恋愛小説を読んでくれた橋田には、ある程度まで打ち明けてもいいだろう。 「好きな人とじゃなくては、楽しくないですよ」 「いや、それがね。結構、溺れてしまうものなんですよ」 橋田が身を乗り出した。 律は驚いた。橋田の目が輝いているような気がした。 「私、学生時代にそういう関係の友人がいたんですよ」 「友人なのに……?」 「セフレです」 「セフレ?」 「セックスフレンドです」 律はようやく意味を理解した。 「それは……随分、盛んな学生時代でしたね」 慎重に言葉を選んだ。 けれど口にしてみれば、軽蔑しているような言い方になった。 「すみません。びっくりして、変な返事になりました」 「いえいえ。歪んだ青春でしたよ。彼で、散々遊んじゃったなあ……」 橋田は笑いながら、コーヒーを啜る。音を立てずにカップを戻した。 「……彼で、ですか。え、彼?」 律は、自分が聞き間違えたのかと思った。 橋田は、唇の片方をつりあげた。 「男と寝てたんです。毎晩のように」 「はあ」とも「へえ」ともいえない曖昧な言葉を、律は返した。店内が静かになったような気がした。 男と通じたい男がいるのは、知っている。 しかしそんな男は、まるで浮世の精のような、はかない外見をしているのだと勝手に思っていた。 橋田はたくましい男だ。 学生時代はラグビー部だったらしい。腕と首が太くて、就職活動の頃はワイシャツ選びが大変だったらしい。いまでは多少は細くなったそうだ。 「片手で林檎を割れる」とよく言うので、初めて自宅に来たときに渡したら、簡単にやってくれた。 もし締め切りを破ったら、自分の頭蓋骨も握りつぶすのだろうか。橋田が帰ったあと、律はひとり震え上がった。 しかし、橋田は出会った頃から優しい男だった。 体育会系の流儀を律に押しつけることはない。厚い胸板にスーツをきっちり着込んで遥々、東京から会いに来てくれる。 橋田のことを何もわからなかったと、思い知らされた。 「……誰でも、よかったんですか?」 沈黙を破ったのは、律だった。 「体の火照りを鎮めるためなら、相手は誰でも……」 「ええ。まあ、そんなところです」 橋田は笑った。 男と寝ていたなんて想像できない、爽やかな笑顔だった。 (橋田さんみたいに欲望に素直になれたら、僕もとっくに経験していたんだろうな) 踏み出せる者とためらう者。ちがいはどこにあるのだろう。 律はずっと留まる人間だったから、飛び越えた人の心情はわからない。 わからないから、尊敬の念を抱いてしまう。 「すごいですね……あ、変な想像はしていませんよ」 「してますよね、いま」 橋田は頬づえをついて、律を見つめる。 小動物を観察するような、かわいいものの仕草を目に焼きつけようとしているまなざしだ。 「想像通りですよ、きみの」 橋田は律を見つめて、自分の人差し指を何度も突き合わせた。 「服を脱いで、キスして、扱きあって」 律は目を伏せた。橋田の動かす指が、視界の端に入った。 「私が挿れて、彼の中で果てる」 橋田は両手を広げる。律のよりもずっとずっと大きな、ひらたい手だ。 「これが、私の青春です」 橋田の視線を感じたが、律は目をそらし続けた。 もしかして反応を楽しむために、卑猥なエピソードを語ったんだろうか。 (何か言わなくては……でも、何を言えば……) カップを持つ手が震えた。コーヒーがこぼれそうなので、口をつけずにソーサーに戻した。 心臓が痛くなるくらい、鼓動が速い。 中学生の頃に図書館で読んだ『からだのしくみ』 大学生の頃に友人と観た、淫らなビデオ。 さまざまな裸体が頭のなかを駆け巡った。 「律先生、律先生?」 橋田の声で我に返った。 「すみません。ちょっと、僕にはそういった話は……」 「苦手、みたいですね」 「ごめんなさい」 「……やっぱり、きみは[[rb:初心 > うぶ]]なんですね」 橋田が独り言のようにつぶやく。小さな声だったが、律は聞き逃さなかった。 初心。 確かにその通りだが、からかわれたような気がした。 「……経験してるのが、そんなにえらいことなんですか」

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