1 / 2
第1話
ようこそおいでませ、此処は|驚異の部屋《ヴンダーカンマー》。貴方は記念すべき××××人目のお客様です。
なんと、ご存じないとは心外!
ご覧なさいな、此処の名前の由来となった展示品の数々を。珊瑚や石英を加工した装身具、実在・架空取り交ぜた動植物の標本やミイラに巨大な巻貝、オウムガイを削った杯にダチョウの卵、貴重な錬金術の文献に異国の武具、機械仕掛けの形見函、はてはキリストの襁褓と噂される聖遺物に至るまで、此処に展示されているのは人類の叡智の結晶。
此処は次元の|間《はざま》に存在する場所。
時折お客様が迷い込みます。
偶然か必然か、驚異の部屋に至った彼等彼女等をもてなすのが僕の役目。
自己紹介がまだでしたね。|学芸員《キュレーター》とでもお呼びください。
……ん?これまた毛色の変わったお客様ですね。
いえいえ皮肉なんてとんでもございません。
率直に申し上げ、貴方はとても美しい。
まさかご自身の容姿に無頓着で?
だとしたら罪作りですねえ、一体どれだけ女性や男性を泣かせてきたのやら。
さあ、水晶玉を覗いてください。
最高級の天鵞絨さながら艶めく黒髪、コーヒーに数滴ミルクを落としたような褐色肌、長い睫毛に物憂く沈む|御影《みかげ》の瞳。
秀でた鼻梁に孤高の翳りを纏わせて、一匹狼を彷彿とさせる野性味帯びた風貌に、心惹かれるご婦人がたはさぞ多いでしょうよ。しなやかに引き締まった長身痩躯も注目を集めるはずだ。
まだお名前を伺っていませんでしたね。
なんとお呼びすれば?
……そうですか、好きにしろと。でしたらそうさせていただきます。ロマというのはいかがでしょうか?
なんですその仏頂面。好きに呼べと言ったのは貴方でしょうに解せません、さては天邪鬼さんですかね?
貴方はロマ。
大虐殺を生き残った流浪の民。
睨まないでください。この姿はお気に召しませんか?かしこまりました、指を弾いて……
アインス・ツヴァイ・ドライ!
魔術?手品?ふふ、どっちでしょうねえ。ご想像におまかせしますよ。
今の僕は貴方の同胞、ツィゴイネルの美少年です。
黒い巻き毛と浅黒い肌、磨き抜かれた御影の瞳が証拠。この姿は変幻自在、お客様がご所望ならいかようにも化けられます。老若男女問わずね。
さあさ遠慮はいりません、どうぞお近くでご覧ください。
驚異の部屋に展示されているのは僕が世界を股にかけ蒐集した自慢のお宝、古今東西の名品珍品の数々。
胡散臭げな顔ですねえ、僕の口上が信用できませんか?
たとえばほら、貴方の右手に飾られているのは十五世紀のドミニコ会士、ハインリヒ・クラーマーが著した『魔女に与える鉄槌』の原本。ハインリヒ・クラーマーは教皇インノケンティウス八世の命を受けた異端審問官であり、本書において異端や邪悪の根源たる魔女を激しく糾弾し、その発見の手順や裁判の段取りを詳細に記述しました。後世ではヨーハン・ニーダーの『蟻塚』、ジャン・ボダンの『|悪魔憑き《デモノマニア》』と並び、魔女狩りの|三大奇書《バイブル》と呼ばれています。世が世なら禁書で焚書でしょうに。
……知ってる?
同時代の人でしたっけ、うっかり失念してました。
なるほどねえ、ハイリンヒ・クラーマーはペテン師だと。ヨーハン・ニーダーやジャン・ボダンも同類だと、貴方はそうおっしゃりたいのですね。
僕も同感です。曰く産婆は魔女、曰く薬師は魔女、曰く寡婦は魔女、曰く曰く曰く……彼等の裁きにかかればおよそ全ての女性が断罪されかねない。
あらら、また気に障っちゃいました?すいませんねえ、僕ってば人の心の機微とやらに疎くって。
未だ蒙が啓かれざる暗黒の中世。
白を黒に裏返すのが異端審問官の仕事であり、それにはしばしば拷問が用いられました。
おおっといけません手を触れちゃあ!驚異の部屋の展示品は僕の財産、見物は無料ですが壊したら弁償していただきますのであしからず!
全く、ヒヤヒヤさせないでください。貴重な展示品だと紹介したそばから破り捨てようとする人がありますか、しかも書見台まで蹴倒して!
どうやら貴方にとって、ハインリヒ・クラーマーは憎んでも憎み足りない怨敵のようだ。
さあ、お掛けください。立ちっぱなしは疲れるでしょ、座って話しましょうよ。
何が目的だ?
皆さん口を揃えてそれを訊かれます。
僕の求めは身の上話、お客様の数奇な半生。
言いたくない?
違いますね。言えないんですよね。
はは、その顔が見たかったんですよ!やっぱり貴方もそうなんですね、都合よく自分の罪を忘れてらっしゃる!ここに来る人はみんなそうです、前の人も前の前の人も前の前の前の人も。
人の身に耐えざる罪を背負い、あやまちの記憶を封じた者たち。
ねえロマさん、貴方は一体どんな罪を犯したんですか?
水晶玉を覗いてください。
濃紫のエリカが咲き乱れる荒野のただ中、真っ直ぐ敷かれた街道に幌馬車が連なっています。
乗っているのはツィゴイネルの一団。御者台の男が馬を鞭打ち駆りたて、女子供が伸びやかに歌います。寄せては返す風にエリカの海がさざめき、澄んだ蒼穹に歌声が吸い込まれていきます。
粗末な幌を張った荷台から苦しげな呻きが漏れてきました。おやおや、お産の真っ最中らしい。大股開いて息む女性の手を握り締め、老いた産婆が励ましています。
「もうすこしだ、頑張るんだよ」
ほどなくして甲高い産声が響き渡りました。続いて大量の羊水と胎盤が排泄され、産婆の細腕が赤子を受け止めます。
「元気な男の子だよ」
「ああ……」
まだ少女といえる年齢の母親は我が子を抱き締め、額に接吻し、喜びと絶望が入り混じった涙を流しました。
「本当に育てるのかい?」
産婆が疑問を呈すのも無理ありません、その赤子は白人とツィゴイネルの混血だったのです。
自分と比べごく僅かに肌の色が薄い赤子を抱き、彼女はきっぱり言い切りました。
「この子に罪はないもの」
貴方の誕生はけっして祝福されたものではありませんでした。はじまりから呪われていたともいえる。
貴方は私生児だった。
半分はツィゴイネル、半分は白人。いわば雑種として生を享け、本来帰属する仲間にさえも疎外された幼少期は過酷です。味方はお母上と産婆だけ。
目を瞑り思い出してください。
ツィゴイネルの多くは生きる術として芸を身に付けていました。ある者は占いをし、ある者は楽器を奏で、歌い踊って日銭を稼ぎます。傭兵として出稼ぎに行くものもいました。
ツィゴイネルが歴史の表舞台に登場するのは西暦1100年。
十五世紀には欧州全域に散らばり、巡業で身を立てるようになりますが、貴方が産声を上げた頃には教皇庁の取り締まりが厳しくなり、どんどん苦しい立場に追い込まれていました。
人々はツィゴイネルを泥棒扱いし、強姦魔や人さらいの濡れ衣を着せ、地方や国によっては追放令や死刑に処します。囚人としてガレー船の漕ぎ手を強制される事さえありました。
貴方のお母上は美貌と踊りの才に恵まれた、キャラバンの花形でした。
自慢のお母上だったのでしょうね。
十六で子を身ごもり、馬車の上で産み落とし、立派に育て上げたのですから。
貴方は物心付いた頃からお母上の踊りを間近に見てきました。
行く先々の町や村の祭りにて喝采を浴びる艶姿は、幼心にはっきり焼き付いています。
幌馬車を駆る旅暮らしは決して楽ではありません。幼子だろうと容赦なく働かされます。
貴方も幼い頃から馬を世話し、飼い葉桶運びを日課としました。えっちらおっちら危なっかしい足取りで歩いてると、行く手に影が立ち塞がりました。
「わっ!」
飼い葉桶がひっくり返り、泥の飛沫が跳ねました。
だしぬけに突き飛ばされ転倒した貴方を取り囲み、いじめっ子が囃し立てます。
「やあい間抜け!」
「のろくさ歩いてるからだよ」
「厄介者は早く出てけ、目障りなんだよ」
いじめっ子たちは皆年上です。ちびでやせっぽちの貴方は唇を噛んでただただ耐えるしかありません。
彼等はますます調子に乗り、ぬかるみに倒れ込んだ貴方に跨り、力ずくで服を脱がせにかかりました。
「やだ、やめて」
当然抗いました。しかし貴方は無力でした。あっというまに丸裸にひん剥かれ、羞恥と混乱にべそをかきます。ですがまだ終わりません。いじめっ子たちは手掴みした泥を貴方の肌に塗りたくり、口にまで詰め込んできます。
「喜べ、おそろいにしてやる」
抗おうと無駄でした。ともに馬車で回る子たちは貴方の肌の色を囃し、巡業先の町の子は石を投げます。
大人たちとて同様です。
貴方は嫌われもののツィゴイネルの中にあっても異端だった。
いじめっ子たちは貴方が嫌がれば嫌がるほど面白がり、しまいには馬糞を掴み、全身に擦り付けてきました。
「食えよ」
しまいには馬糞のかたまりを口に詰め込まれ、苦味と屈辱でめまいがしました。
「ううっ、ぐすっ」
どうしてこんな目に。
何も悪い事してないのに。
体も心も打ちのめされ、ぬかるみに突っ伏し泣きじゃくり、どれ位経った頃でしょうか。いじめっ子たちは貴方をいじめるのに飽き、とっくに走り去っていました。
馬車の影に大人が集まり、こそこそ話しているのが聞こえてきました。
「ゾラはなんだってててなし子を産んだんだ、うちのキャラバン一の別嬪だったのにもったいねえ」
「白人の種だろ、忌々しい。肌の色が俺たちと違うじゃねえか」
「誰に孕まされた?」
「鍛冶屋のドラ息子が夜這いをかけたってもっぱらの噂だよ」
「収穫祭の日か。どうりで」
「アルスの町の粉牽きも怪しいぜ、村外れの水車小屋の。随分お熱だったみてえじゃねえか、絶対ものにしてやるって飲み仲間に宣言して」
「俺はルーベン領主の三男坊に賭けるぜ。キャラバンが去ってすぐ修道院に放り込まれたって話じゃねえか、おいたがばれたんだよ、きっと」
幌に映る影絵のおぞましさに耳を塞いで逃げ帰ると、ヴァイオリンの弓に松脂を塗り、お母上が待っていました。
「どうしたの、べそかいて」
「母さん」
貴方はお母上の膝に縋り泣きじゃくりました。聡明なお母上はすぐに何があったか察し、真剣な表情で諭しました。
「悔しかったら芸を磨きなさい。アンタを馬鹿にした連中全員見返してやるの」
「できない」
「できるわよ。私の子でしょ」
お母上は優しく厳しい人だった。
一粒種の息子に愛情を注ぐ傍ら、歌を教え踊りを教え、ヴァイオリンの弾き方を教えました。
ゾラとはツィゴイネルの言葉で夜明けをさします。その名が示す通り、お母上の存在は貴方にとって唯一の光でした。
察するにお母上は、貴方の生が過酷なものになる事を予想してらしたのでしょうね。
折にふれ貴方を抱き上げ、手ずからヴァイオリンの弾き方を教えながら説きました。
「これだけは覚えていてね。貴方は私の自慢の息子。誇りを持って生きなさい」
そんなお母上も、貴方のお父上の素姓に関してだけは頑として口を割りません。
ゾラさんは実に情熱家でした。貴方はお母上の気性の激しさを受け継いだのでしょうね。
息子を侮辱する者あれば気炎を上げ、誰だろうと突っかかっていきます。
「この子は私が産みたくて産んだの、文句あるヤツは前にでなさい!」
ヴァイオリンの弓で男たちを鞭打ち、行ったり来たり追い回す姿は非常に滑稽で、皆が笑い転げました。
ええそうです、そうですとも。
貴方は確かに異端児でしたが、ツィゴイネルの暮らし自体は嫌っていませんでした。
たとえ村外れにしか野営を許されず、町や村の悪ガキどもに石もて追われ、大人たちに疎んじられようとも、車窓から覗く黄金に実った麦畑や収穫祭の賑わいが心を癒してくれました。
馬車の藁床で母と寄り添い眠る日々も、回る車輪が地面を踏む震動も、馬の嘶きや仲間の歌声も、定住する故郷を持たないツィゴイネルたればこそ郷愁をかきたてる。
年に数度の祝祭の日、ツィゴイネルたちは村の広場に招かれ歌や踊りを披露します。
貴方もお母上と手を繋ぎ、村人たちと交わって軽快なステップを踏みました。
老いも若きも男も女も輪になり、方々で黄金の麦酒が酌み交わされ、愉快な嬌声が弾けます。
ゾラさんは快活な笑顔で足を上げ下げ、貴方を褒めました。
「そうよその調子、飲み込みが早いわね」
辛い事だけではなかった。
楽しい思い出もあった。
だからこそ……。
お母上が死んだのは十三の時。
貴方は天涯孤独になりました。もはやキャラバンに居場所はありません。
そこで産婆に教えられたキャラバンの軌跡を、遡ってみることにしたのです。
ゾラさんの波乱万丈な人生を辿ろうとしたのでしょうか?
もしくは……野暮な詮索はやめておきましょうか。いずれわかることです。
ツィゴイネルの孤児に宿を貸してくれる物好きはおらず、大抵は野宿でした。
母の形見のヴァイオリンを弾いて日銭を稼ぎ、それでも足りない時は盗みや物乞いをし、どうにかこうにか食い繋いでいたものの、限界は刻々と近付いていました。
その日、貴方は逃げていました。
全身生傷と擦り傷だらけな上、空腹で力が出ません。
空からは冷たい雨が降り注ぎ、残り少ない体力を奪っていきます。持ち物は母の形見のヴァイオリンだけ、それさえ弦が切れて使い物になりません。
不協和音しか奏でないヴァイオリンなど無用の長物。
ですか貴方はひしと抱いて離さず、鬱蒼とした森へ続く道をひた走りました。
「追え!」
「逃がすな!」
「あっちへ行ったぞ!」
よろめく足を血が伝います。すぐそこまで追手が迫っています。
万事休すと思われたその時、森の中に石垣を巡らせた、素朴な小屋が見えてきました。
考えるより先に裏手に回り、石垣を乗り越え、敷地に侵入しました。
ふと足元を見れば、地下室の木戸が少しだけ開いています。
貯蔵庫でしょうか。
しめたと階段を駆け下り、まんまと忍び込みました。
襤褸切れと化したシャツの下で心臓が跳ね回ります。悪寒と火照りに同時に襲われ、体の震えが止まりません。
ヴァイオリンを抱いて蹲る頭上で扉を開け閉めする音が立ち、怒号が駆け抜けていきました。
どうにか無事やり過ごしたのも束の間、立ち上がりしな膝が泳ぎ、また蹲ってしまいました。
まずい事になった。すぐ出ていく予定だったのに……これでは家主にばれるのも時間の問題。
固い靴音が石段を下りてきました。
誰か来る。
慌てて奥へ退き、闇に慣れた目が戸惑います。
地下室というより工房でした。
部屋中に珍しい薬草や香草が干され、机には分厚い本と羽ペン、羊皮紙やインク壺がのっています。調合用の窯と鍋もありました。
「誰?」
「……」
穏やかなノックに次いで、柔和な声が誰何しました。貴方は口を覆い、だんまりを決め込みます。
「開けるよ」
咄嗟の判断で薬草を吊るしたロープを回収し、それをドアの手前に張り渡しました。
次の瞬間ドアが開き、一歩踏み出した男がロープに蹴っ躓き、見事に転倒しました。
「……ええと、大丈夫?顔面から行ったっぽいけど」
靴の爪先でちょんちょん脇腹を突けば、青年がかすかにもぞ付き、情けない顔で笑いました。
「珍しいお客様だな」
肌の色の事を言われてるのかと早合点しましたが、違いました。
鼻の頭を擦り剥いた青年は、貴方の腕の中のヴァイオリンを興味津々覗き込みました。
「楽士さんが来てくれるなんて、当分退屈せずにすみそうだ」
変なヤツ。
第一印象はそれに尽きます。
貴方を笑って迎えてくれた人は、ゾラさんと産婆以外で初めてでした。
次に目覚めた時、木製のベッドに寝かされていました。
「気付いた?丸一日寝込んでたんだよ」
怪我には湿布が貼られており、青年は乳鉢で木の実と薬草をすり潰している所でした。
既に雨は上がり、窓の外には陽が射してツグミが囀っています。
「アンタは?」
不躾な問いに気分を害さず、青年は答えました。
「名前を聞いてるならダミアン。職業は薬師」
「森で一人暮らししてんの?変人」
「薬草を採るにはこっちの方が都合良いのさ。君の名前は」
口を噤みました。赤の他人にロマの名前を打ち明ける気にはなれません。
ダミアンは風変わりな男でした。
年の頃は二十代後半でしょうか、光の加減で金褐色にも見える茶髪の下に地味に整った温和な風貌を備えています。
見た目は若いのに世捨て人に通じる老成した雰囲気を漂わせており、夜明けの空に似た|紫《ウィスタリア》の眼差しは、知性と包容力を感じさせました。
「地下室の草は」
「乾燥させてるんだよ」
「……あちこちスースーする」
「特製軟膏の効能」
得意げに声が弾みます。
こぢんまりした外観に違わず、ダミアンが暮らす家は質素に片付いていました。
見た所ベッドは一台きり、それを貴方が占領しています。
「丸一日寝てたって言ったっけ」
「そうだけど」
「その間どこにいたの」
「机で徹夜仕事」
「なんで」
「煎じ薬を作ってた。塗るより治りが早いから」
ダミアンが傾けた乳鉢の底には、緑色のペーストがこびり付いていました。
ぎょっと身を引く貴方の口元へ、木匙でこそいだペーストをさしだし、ダミアンが微笑みました。
「食べて」
「いいよ」
「死ぬほどまずいけど死なないから大丈夫。むしろ良くなる」
「絶対嫌だ」
「体の内側から治すのが回復の近道なのに」
ダミアンは哀しげに眉を下げ、いきなり匙を咥えました。
「……何やってんの」
「毒見」
今すぐ吐き戻したげな涙目で嚥下し、表情筋がだいぶ無理した笑顔を繕います。
「ほら、大丈夫だろ。ちょっと舌が痺れる位で死にはしないさ、僕の薬はよく効くんだ。一昨日は靴屋の奥さんに悪阻止めを都合した、八人目が生まれるんだって、すごいよねえ。家族がたくさんで羨ましいなあ、僕は長いこと独りだから。先週は皮鞣し職人のアウグストに水虫薬を処方したよ、足裏が酷い有様で歩くのが辛そうだった。ほっといたら自分の足の皮まで鞣しちゃいそうであせったあせった」
なんだコイツ。
ごねる気力が萎えて口を開けるや、待ちかねたように木匙が突っ込まれます。
「う゛ッ」
クソまずいのを我慢し飲み下せば、ダミアンが嬉しげに目を細めていました。
「……貸せ」
すかさず乳鉢をひったくり、一気に口に流し込みます。死ぬほどまずい。
空っぽの鉢を突っ返し、手の甲で無造作に口を拭き、謎の男を睨み付けます。
「お前、ダミアンとか言ったか。何が目当てだ?」
「ん?」
「見返りもねえのに人助けなんかしねえだろ。特に……」
俺みてえな奴のと続けようとして止めたのは、机に寝かされたヴァイオリンが目に入ったから。
「返せ!」
素早くヴァイオリンを奪い、そこで力尽きました。
「駄目だよ安静にしてないと、まだ回復しきってないんだ。ご飯は?兎肉のスープ食べるだろ」
「何企んで……」
「ちょうど毒見役兼実験台兼助手が欲しかったんだ。文句は受け付けないよ、地下工房に転がり込んだのは君の方だ。あそこに保管されてるのは僕が採取した薬の原料、即ち君もその一部、煮るなり焼くなり煎じるなり好きにしていいって事だろ」
「砕いて磨って塗って呷んの?」
「右足の小指の爪を煎じて……冗談だよ」
「畜生、確認しちまった!」
毛布を剥いで慌てる様子に吹き出し、ダミアンがちゃっかり付け足します。
「宿代は後々働いて返してもらおうかな」
貴方の腹が鳴ったのを合図に腰を上げ、暖炉に掛けた鍋からスープをすくい、椀に注ぎました。
「食べなよ」
奇妙な共同生活が始まりました。
怪我は三日もすれば快方に向かいました。もとより育ちざかりで自然治癒力が高いのです。
貴方が自力で歩けるようになるのを待ち、ダミアンはこまごました手伝いを頼みました。
「この花を摘んできてほしい。森の西側、泉のほとりに咲いてる」
「何これ?」
「右からカモミール、ラベンダー、ローズマリー、ベラドンナ、マンドラゴラ。ハーブの薬用酒は二日酔いや冷え性に効く」
「こっちの葉っぱがギザギザに尖ったのは?黒い実がなってる」
「食べられない」
「焼いても駄目?」
「弾けて大変、熱に反応する性質を持ってるんだ。体内に取り入れたらめまいや幻覚を引き起こす」
「まずい草は摘む気起きねえ」
「臭いから食欲失せるよ」
「毒草なんて物騒だ」
「使い方次第で薬になる」
字が読めない貴方の為にダミアンは写実的な図解を描き、それぞれの特徴を説明しました。
薬草は動かないのでまだ楽ですが、小動物の捕獲を命じられた時は手こずりました。
「ヤモリ、カエル、蛇……牡鹿の角?落ちてるわけねー」
「手に入る分だけでかまわない。すばしっこさには自信あるだろ?僕は鈍くさくて」
「家畜の鶏にも逃げられちまいそうだもんな」
「手懐けたら余裕だよ、多分」
ほんの少し心外そうな顔をします。
「カエルはどうすんの」
「村長さんの希望でね。干して煎じて精力剤にするのさ」
「老いぼれのくせにおさかんだな」
「しー」
貴方一人を行かせる事もあれば二人で出かける事もありました。一緒の時、ダミアンはよく喋りました。貴方はツンと無視し、矢継ぎ早の質問に知らぬ存ぜぬを通します。
この男が命の恩人なのは不承不承認めますが、まだ心を許していません。
ダミアンは一人で森に住み、乳鉢や鍋で薬草を調合し、近在の村人にそれを商い生計としていまた。
今日も今日とて村人が戸を叩きます。
「代わりに出て」
「しかたねえな」
乳鉢で薬草を練っているダミアンに促され、渋々戸を開けた所、腰を不自然に曲げた髭面の男が立っていました。
目が合った瞬間、眉宇に嫌悪が過ぎります。
「なんだお前は」
「……ここで世話んなってる」
「ツィゴイネルの浮浪児が?」
非友好的な髭男と少年の対峙に、作業を中断したダミアンが割り込みました。
「助手ですよ。おかげさまで村の人たちに贔屓してもらって、僕一人じゃ手に余るんで、家の事をお願いしてるんです」
髭男が顰め面で値踏みします。
「ちょっと前に変なガキが迷い込んだって聞いたが、おまえさんが匿ってたのか。どうせ盗みたかりを働いて逃げてきたんだろ、とっとと叩き出せよ」
「!ッ、」
泥棒や掏摸をしたのは事実、悔しいかな否定できません。それでも屈辱でした。
拳を握り固める貴方を下がらせ、前掛けで手を拭いたダミアンが仕切り直します。
「本日のご用件はなんでしょうか、エルマー親方」
「腰痛の特効薬をもらいにきたんだが」
「長時間座りっぱなしの作業が原因でしょうね。塗り薬を処方しますんで、毎日ちゃんと塗ってくださいね」
「恩に着る」
瓶を手渡す間際ダミアンが止まり、エルマーが不審げに催促します。
「どうした?早く」
「原料を摘んだのは助手です。調合も手伝ってもらいました」
きっぱり前置きして微笑みます。
「お礼なら彼に」
「……効いたらな」
やりこめられて憮然とし、銅貨を詰めた小袋を差し出すエルマーに耳打ち。
「お代はいりません。かわりに」
余っ程意外な申し出だったのか、相手は目を丸くしました。
「そんなんでいいのか」
「ええ。日を改めて出向きますので、お体を労ってください」
エルマーの退散後。
「手伝ったって少しだけじゃん」
「役に立ったよ、君がいなけりゃ乳鉢の中身を練り続けて手首が炎症起こすところだった」
ダミアンが気さくにはにかみ、扉に凭れてふてくされる貴方の肩を叩きます。
訂正、ふてくされたんじゃありませんね。面映ゆかったんですよね。お母上以外の大人に庇ってもらうなんて経験、殆どなかったですもんね。
まだ納得できず、調合を再開するダミアンに食い下がります。
「がっぽりふんだくってやりゃよかったのに」
「屋根の修繕中で物入りなのさ」
「関係ねェじゃんお前には。薬代とりっぱぐれて馬鹿みてえ」
「もっと大事なことを頼んだ」
「意味わかんねえ」
清貧の美徳といえば聞こえはいいですが、生まれてこのかた世間の荒波に揉まれてきた貴方にとって、採算度外視で村人に尽くすダミアンの無欲さは理解不能でした。
かようにダミアンは善良で献身的、奉仕精神の権化といえる人物だったのです。
数週間後。
貴方が目を覚ますと、弦が綺麗に張り直されたヴァイオリンが枕元に置かれていました。
驚きに息を止め、すぐ理解しました。
修理がすんだヴァイオリンをひっさげ厨房へ赴けば、ダミアンがミルク粥を煮ていました。
「これお前が?」
「エルマー親方が。さすが腕利きヴァイオリン職人の仕上げ、生まれ変わったね」
薬を譲る条件はヴァイオリンの修理でした。
壊れて音が出ず、折れた魂柱や切れた弦を見るのが忍びなく、ダミアンと暮らし始めてからは放置していたのに……。
「余計な事すんな」
「お気に召さなかった?」
「直してくれなんて頼んでねえ」
「君の為じゃない。僕の為」
「あん?」
「介抱したお代まだなの忘れた?一曲弾いてよ」
ダミアンが悪戯っぽく含み笑い、貴方はいよいよ困り果て、「飯がすんだらな」と降参代わりに呟きました。
その日の昼下がり、貴方はダミアンと共に森にでかけ、懐かしい曲を演奏しました。
生前母が愛した曲です。
魂柱を支え持ち、深呼吸ののち弓を滑らします。
鮮やかに翻り滑走する弓と震える弦が紡ぐのは、情感が乗った蠱惑的旋律。
豊穣に膨らむ低音に呼応し、蒼穹へと昇天する清冽な高音。
木漏れ日が斑に落ち、木の葉がさざめき、過去の祝祭の残響が甦ります。
ダミアンは倒木に掛けて陶然と耳を傾け、貴方が弾き終わると同時に温かい拍手を贈りました。
「故郷を思い出した」
「ロマじゃねえだろ」
このように、ダミアンは皆に分け隔てなく親切でした。
急病人や怪我人が出れば夜中だろうと労を惜しまず問診し、癒えれば我が事のように喜び、亡くなればとても落ち込みました。
さらには田舎の薬師にしては学があり、貴方が頼んでないにもかかわらず、字の読み書きを教えてくれます。
「アインス、ツヴァイ、ドライ……いい調子だ」
夜寝る前に机に向かい、ダミアンお手製の薬草図鑑や調合レシピを写本するのが新しい習慣になりました。
ランプの薄明かりのもと、貴方が握る羽ペンに手を添え綴りの誤りを正し、ダミアンが言い聞かせます。
「君の名前はこう書く。覚えといて」
「お前の国の言葉なんか知らない。俺はロマだ」
「でもさ、名前がたくさんあるのはお得じゃないかな。それだけ祝福されてるみたいで」
「誰に?」
ダミアンは束の間沈黙し、気恥ずかしげに告白しました。
「神様に、かな」
ほんの一瞬、ランプに映える横顔の静謐さに見とれました。「神様」と呟いた瞬間のダミアンが、聖なる祈りを捧げてるように見えたからでしょうか。
名前の表記の数だけ祝福されてる。
そんな発想、終ぞした事がありませんでした。
ロマとして産まれロマとして生きてきた貴方に、ダミアンの考えはとても新鮮に感じられました。
胸の内に激情が吹きこぼれ、知らず声が尖ります。
「お前たちが信じる神様ってイエス・キリスト一人じゃないの?祝福の大盤振る舞いだな」
露骨な当てこすりにダミアンは唇を噛み、慎重に言葉を選んで、羊皮紙に目を落としました。
「カトリックの見解ではそうなっている。でも僕は……神様っていうのは、むしろこの世界そのものじゃないかって思うんだ」
こんなこと言ったら捕まっちゃうかもしれないけど、と口元に人さし指を立て。
「収穫祭に行ったことは」
「……あるよ。ガキの頃、村に呼ばれて楽器を弾いた。母さんと一緒に」
昔を懐かしんで呟けば、ダミアンが遠くを見詰める目をします。
「豊穣を祝い踊るひとびと。咲き零れる笑顔。黄金の麦穂。高らかに囀るツグミ。果てしなく続くエリカの荒野。丘を駆ける幌馬車のキャラバン。そんな地上の営みこそ、神の|御業《みわざ》と結び付いてるように感じないかい」
「わかんねえよ」
「難しいか。ごめん、人に物を教えるのが下手だね」
「じゃなくて。俺が馬鹿なんだ、きっと」
「違うよ。そうじゃない。そうじゃなくて……」
もどかしげに否定し、貴方の手を強く握り締めます。
「神様はね、熱を出した子の背を一晩中さする母親の手に宿る」
「……」
彼が言おうとしてる事、伝えたがっている事が漠然とわかりました。嘗てそのぬくもりを体験したから、実感として腑に落ちたのです。
「学びは無駄じゃない。勉強を疎かにしちゃいけない。君は賢い、きっともっと賢くなれる。僕の図鑑の写しで満ち足りず、より広い知識を身に付け、世界を切り開いて行ってほしい」
理解に苦しむ貴方の肩を掴み、ダミアンは熱心にかきくどきました。
「言葉はね、人の心が訳した世界なんだ」
……思い出しましたか。
ご自分で気付いてません?今、すごく優しい顔をしてましたよ。
ダミアンはロマンチックな人でした。
空想家、とでも呼びましょうか。
詩的な表現を多用し、その言葉はまるで音楽のように響きました。
貴方がたは十四歳離れていた。世間的には師弟で通ります。
実際貴方にとって、ダミアンは唯一無二の師といえる存在でした。
あるいはお母上が与えたもうた以上のものを、ダミアンは授けました。
森で採れる薬草の名前や種類、調合の仕方、さらには各種ジャムやピクルスをはじめとする保存食の作り方。
もとより聡明な貴方は学ぶ機会を得たことで、あらゆる知識を貪欲に吸収していきました。
「収穫したハーブは軽く水洗いしたあと水分を拭きとり、少量ごと束ねて逆さに吊るす。大量にまとめちゃうと中まで空気が通らずカビが発生するから注意してね。天日干しは香りが飛ぶから避けて、風通しが良い日陰に保管するんだ」
「小姑かよ。言われなくてもわかってるって」
「さすが僕の弟子、飲み込みが早い」
正直、ダミアンに褒められるのはくすぐったい。胸の内がざわざわして落ち着きません。
数か月経過する頃にはひと通りの家事を覚え、捻挫の処置程度なら楽にこなせるようになりました。
貴方はダミアンに用事を言付かり、村にでかけるようになります。
「おかえり。って、どうしたの」
「転んだ」
「誰にやられたんだ」
「人の話聞いてた?」
「手当するから来て」
行き帰り、悪ガキどもに石を投げられました。ダミアンは案の定しょげ返り、包帯を巻きながら詫びました。
「気が回らなくてすまない」
「別に。慣れてっから」
ツィゴイネルはどこへ行こうと嫌われもの。
村外れの森に住み着いた孤児の噂はあっというまに広まり、今もって白眼視されています。
ダミアンは貴方の答えに胸を痛め、次からは自分が村に行く、と断言しました。
「そういうのやめろよ、かえって迷惑だ。ただでおいてもらってるだけで居心地悪ィのに」
「助手を住みこませるのは普通だろ」
「変な気遣うなってば、ガキに石投げられたりこそこそ言われる位へっちゃらだ」
「僕が嫌だ」
ダミアンは案外頑固でした。貴方は途方に暮れ、妥協案を閃きました。
「……じゃあさ、一緒に行くってのは」
「え?」
顔が熱くなります。
「どのみち荷物持ちは要るだろ。盾になってくれりゃその、有難てェし。無理にたァ言わねえけど」
ああ、何言ってんだ俺。
遂には耳たぶまで火照りだします。
ダミアンはきょとんとし、次いで晴れ晴れと笑い、貴方を抱き締めました。
「名案だね」
その夜、物凄い勢いで小屋の戸が叩かれました。眠い目を擦って扉を開けるや、息を切らしたハンスが転がり込んできて面食らいました。
「助けてくれダミアン、女房が産気付いた!」
「え……」
当惑します。
「八人目だろ?ンな慌てなくても」
「前と違って血がたくさん出て止まんねえんだよ、今までこんな事なかったのに」
「村の産婆は」
「グレーテル婆は先月コロッと逝っちまった、四の五のぬかさず血止めに利く薬草あんならくれよ、お代はあとで必ず払うから……くそっ、てめえじゃ話になんねえ!ツィゴイネルの小僧は引っ込んでろ!」
怒り狂ったハンスに呼ばれ、ランプを下げたダミアンが出てきました。
「話は聞かせてもらいました」
「知り合いの産婆を呼んでくれ、今すぐ紹介状書いて、ああ畜生間に合わねえ今夜が山なんだ、アドルフの嫁さんみてえに赤ん坊ともども死んじまったら」
靴職人のハンスは子煩悩な愛妻家で知られていました。すっかり思い詰め、頭を掻きむしる醜態にはさすがに同情を禁じ得ず、おそるおそるダミアンの顔色を窺います。
薬師の決断は迅速でした。
「来い」
「え?」
「人手は一人でも多い方がいい。いい加減血に慣れて欲しいし」
「お産の手伝いに行くのか?」
「そうだよ」
「アンタ男だろ、出産に立ち会うなんて聞いたこと」
「僕たちしかいないんだ」
ダミアンは「たち」と言いました。
まだ半人前の助手にすぎない貴方を、現場を支える即戦力と見込んだのです。
キリスト教的価値観が根付いた中世欧州にて、産婆は異端の類縁と見なされていました。
曰く産婆は異教の母権制社会や女神崇拝に結び付いており、カトリック教会は彼女たちを許し難い信仰の敵と定めたのです。前述した『魔女に与える鉄槌』にも魔女の代表例として産婆が挙げられ、台所で新生児に魔術的洗礼を施す他、悪魔の生贄に捧げると信じられていました。
あんまり大きな声じゃ言えませんが、内緒で通ってくる女たちに、子堕ろしの薬草を都合していたのも無関係ではないでしょうね。
ダミアンはタブーを破りました。
難産に苦しむ患者を見捨てられず、男の身でありながら産婆を代行し、夜道をひたすら駆けてハンスの家に向かったのです。
グレーテル婆さんが死んだ今、村外れの森に住む薬師の青年だけが村人たちの拠り所でした。
「ハンスさんはありったけお湯を沸かしてください」
「よしきた」
あたふたする旦那に命じ、颯爽と歩くダミアンに追いすがります。
「俺は何すりゃいい」
「付いてきて」
寝室ではハンスの女房が壁に手を付き、近所の主婦の立ち合いのもと、大股開きで息んでいました。
床には羊水と血が溜まっています。
「ダミアン!?」
「非常識じゃない、出てって!」
寝室に踏み込んだ青年と少年に女たちは色めき立ち、激烈な拒絶反応を示しました。
「ぐっ」
「失神するなら外でね」
一瞬が気が遠のきかけるも、辛うじて踏みこたえます。ダミアンは壁を支えに踏ん張る女房の腰に手を回し、注意深くベッドに導きました。
「横になった方が負担が少ないでしょ」
ここで注釈を加えますが、当時は立産……立ったままお産するのがスタンダードだったんですよね。
「お湯を持ってきて!」
「わかった!」
ダミアンの指示で部屋から飛び出すなり、ハンスと隣人の会話が聞こえました。
「……しかしなあ、いくら腕利きでも野郎にお産を頼むのは……」
「背に腹は代えられねえ」
「教会にばれたら事だぞ」
「隣村から呼んでくるにしたって今から峠越えは……」
「こないだも旅人が狼に食われたっけ」
「うちの女房はやっこさんにぞっこんなんだ。悪阻止めがばっちり利いたもんで、頭っから信頼してんのさ」
「人のカミさんの股ぐらただで見れて、全くツイてるよな」
何故真夜中に叩き起こされ、文句も言わず飛んできたダミアンが蔑まれなければいけないのでしょうか。
猛烈な怒りがこみ上げ、強く強く拳を握ります。
殴りかかろうとした矢先、力強く肩を掴まれました。背後にダミアンがいました。
「吹きこぼれるよ」
直後、優先順位を思い出しました。
貴方は暖炉へ駆け寄り、沸騰したお湯を盥に移し替え、それを抱えて寝室に急ぎました。
ベッドでは女房が唸っていました。
「布を消毒して!」
的確な指示に従い、大急ぎでシーツを煮沸します。
ダミアンは女房の足元に回り、両膝を大きく開かせ、彼女が今からひりだそうとする赤ん坊に呼びかけていました。
「頑張れ。もうすぐだ。いいぞ、その調子」
「師匠、俺は!?」
「手を握って」
もちろんそうしました。陣痛に喘ぐ女房の手を包み、顔に滴る汗を拭い、「頑張れ」「その調子」「ひっひっふー」と応援しました。
神様どうか、この人と赤ん坊を助けてください。
無事に産ませてやってください。
二時間後、産声が響き渡りました。
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」
「ああ……ありがとうございます」
分娩を終えた女房が泣き崩れ、貴方に向き直ります。
「アンタもありがとね」
初めて村人にお礼を言われました。
「臍の緒の処置は任せた」
夜通しお産にかかりきり、窓の外には夜明けが訪れていました。死んだ母と産婆の面影が脳裏を過ぎり、自分もこうして産まれたのだと悟り、哀しくもないのに何故だか涙が滲み、髪の毛をかき回す師匠の手の優しさにまた泣けてきました。
臍の緒を断ち切る頃には手の震えもおさまりました。
ダミアンは産湯に浸けた|嬰児《みどりご》を清潔な布にくるみ、小さな額に接吻しました。
「新しい命に祝福を」
父を知らずに育った貴方は、赤子を慈しむ青年の横顔に父性の上澄みを見ました。
「抱いてみる?」
「……いいの?」
ベッドに仰向けた女房とダミアンを見比べれば、両者に笑顔で促されました。
おずおず嬰児を抱き取り、薄毛の生え際をそっと撫で、小さな手のひらを人さし指で擦ります。
次の瞬間、赤子が指を掴みました。
「|嬰児《みどりご》は産声で世界を訳す。赤ん坊が泣いて生まれてくるのは、まだ見えない目の代わりに、声で世界を手探りしてるからなんだよ」
「それって……」
「生きようとする意志そのものじゃないか」
一生懸命、がむしゃらに。
希望を掴むために。
貴方がダミアンを師と認め、慕うようになったきっかけの出来事です。
ハンスは大袈裟に泣き崩れて感謝し、「ダミアンは名医だ」「すぽんとガキが産まれてきた」と吹聴して回りました。
この一件が転機となり、村人たちの態度は次第に軟化し、貴方を取り巻く状況も改善されました。
貴方は薬師の助手として認められ、村の行き帰りに石を投げてくる悪ガキどもは一掃され、奥さん連中は気さくに挨拶し、ライ麦パンだのジャガイモだの、ちょっとした差し入れを持たせてくれるようになります。
季節は二回巡ります。
十五歳を迎えた貴方は背が伸び、顔付きは凛々しさを増し、外を出歩く都度娘たちから熱い視線を注がれました。
師に付いて問診すれば両手に持ちきれないほどのお土産を貰い、閉口せざるを得ません。
ある春の日、ダミアンと薬草摘みに出かけました。
「少し休もう」
切り株に腰掛けてチーズとライ麦パンの昼食をとってる最中、ふいに師が言いました。
「ここに来て二年か。大きくなったねえ」
「師匠は変わんねェな」
「背丈を追い越されるのは時間の問題かな。そういや聞いたよ、エルマー親方の娘さんが君に」
「手紙?読まずに捨てた」
「なんで!?可哀想じゃないか」
「興味ねェし。直接口で言えっての、まどろっこしい」
「乙女心がわかんない子だ」
「ドーモ。師匠はそーゆーの得意そうだけどさ、恋文とか」
「往復書簡には憧れないでも」
「窓から投げ込むの?」
「乱暴なやり方だね」
ダミアンが苦笑い。
「僕なら予め隠し場所を決めて、それでやりとりするかな」
「たとえば?」
「地下室北側の壁のへこみ。一か所だけ煉瓦が緩くなってる」
「へえ、知らなかった」
「試してみたら?」
「ネズミ捕りの改良案練るのに忙しいの。最近やけに増えたじゃん、うちじゃあんま見かけねェけどハンスんちなんかあちこち齧られて大変だってぼやいてたぜ。ハーブの匂いが嫌いなのかな」
「ネズミ捕りの改良に貴重な青春費やすの」
鼻白み、足元の雑草をぶちぶちむしります。
「女ってめんどくさい。すぐ手のひら返しやがる」
「昔石を投げた子の中に……」
「いた」
エルマーの長女はよく覚えています。ダミアンの家に来て間もない貴方に、繰り返し嫌がらせしていた張本人の顔を忘れられるわけがありません。
居心地悪い話題を打ち切り、貴方は聞きました。
「師匠はなんで辺鄙な森に住んでるの。色々不便じゃね?」
「薬草の採取には都合がいい」
「そりゃそうだけど……出会いがねえじゃん。一生やもめでいんのかよ」
貴方が知る限りダミアンに交際相手はいませんでした。
まだ三十路前の男ざかりだというのに、禁欲生活に嫌気がささないのでしょうか。
ダミアンが回想します。
「もともとは僕の師匠にあたる老婆が住んでたんだ」
「先代薬師の?」
「結構な高齢だった」
「看取ったんだ。その人も薬草の種類や調合に詳しかった?」
「比べ物にならない。身分の上下問わず、遠くから色んな人が訪ねてきたよ」
偉大なる師を偲ぶ横顔には畏敬の念が滲んでいました。
「後を継げって言われたのか」
「いや、僕の意志。今さら実家には帰れないし、薬草の分類や調合は奥深くて楽しい。今の暮らしが気に入ってるんだ」
「物好き」
「かもね」
「君は?」
ダミアンがライ麦パンを齧ります。
「出ていきたければ独り立ちを後押しするよ」
唐突な申し出に手が止まります。
「……いきなり何?」
「いや……」
「俺がいちゃ迷惑?」
「じゃないよ。とんでもない」
慌てて否定したのち、後ろめたげに目を伏せて。
「人恋しさに負けて、随分長い間縛り付けてしまったね。最近よく考えるんだ、僕は……君の優しさに甘えてたんじゃないかって」
パンのかたまりが喉に閊えました。
「そんな」
急に何を言い出すんだ。小鳥の囀りが俄かに遠のき、動揺が広がりゆきます。ダミアンは完全に俯いてしまいました。
「僕と一緒にいなければ、石を投げられずにすんだかもしれない」
違います。
前提からして間違っています。
村人に石を投げられたのはツィゴイネルの出自が原因で、断じてダミアンのせいではありません。
「僕は薬師。いい年して所帯を持たず、村外れに暮らす独り身の変人。その前は流れ者。師匠が気まぐれで拾ってくれなきゃ野垂れ死んで、今頃狼の餌だ」
「俺と同じ?」
「寂しくて。話し相手がほしくて。あの日偶然貯蔵庫に迷い込んだ子供を無理矢理引き止めた、それがどんな結果を生むかろくに考えもせず」
後悔と懺悔。
「十五といえば一人前の男。君は強く聡く賢い、きっとどこでもやっていける。義務感で薬師になんかならなくても、自由に道を選べるんだ」
|なんか《・・・》?
聞き捨てならない自虐に身を乗り出し、語気荒く抗弁します。
「恩人にツマんねえ義理立てして薬師をめざしてるとでも言いてえのか」
「ロマは自由を愛する民族じゃないか。こんな狭っ苦しい小屋で草を干してカエルを煮て、一生終えて欲しくない」
目の前が真っ暗になります。
二年間ともに寝起きしたダミアンが見ず知らずの別人に思え、世界が脆くも崩れ去りました。
「決め付けるんじゃねえよ」
ダミアン、どうして。
「もっと広い世界を見ろって言ったアンタが、|ロマ《俺たち》を一括りにすんな」
ツィゴイネルの全てが旅に出たがるわけじゃない、広い世界に憧れるわけじゃない、中には安住を求める者もいる。
「薬師なんかとか卑下すんな。アンタがいなけりゃハンスの赤ん坊は助からなかった、お袋さんと一緒に死んでたかもしんねーじゃん、みんなに泣いて感謝されたの忘れちまった?」
狭苦しい小屋を隅々まで掃き清め、水分を飛ばした薬草を干し、スープ鍋を火に掛けて、そんなささやかな毎日に満ちて足りる。
「帰る場所さえありゃ、アンタが迎えてくれんなら、他になんもいらねえ」
ダミアンは苦悩していた。彼もまた異端でした。
中世欧州社会において薬師の役割を担うのは寡婦と決まっており、若い男が好んでする仕事ではありません。
「エルマー親方が……その、君さえよければ徒弟にと望んでるんだ。婿入りを条件に」
やめてくれ。
幻滅させんな。
「願い下げだよ」
「ヴァイオリンは好きだろ。君の演奏は素晴らしい、もっと大勢の人を感動させる事が」
「他人の為に弾きたくねえ」
「気が進まなけりゃ断ってもいい」
「厄介払いか?」
「真面目に検討して、悪い話じゃない。エルマー親方が提示した条件は破格だ、新しい部屋も用意するって言ってる」
「腰痛持ちの職人なんかなりたかねえ、乳鉢ゴリゴリしてるほうがよっぽど楽しい」
「君は手先が器用で我慢強い、それに向上心がある。将来的に大成するはず」
「馬鹿野郎!」
ダミアンの顔にパンを投げ、森から走り去りました。
……ええ、まあはい。お二人とも不器用だったんでしょうね。言葉足らずと申しましょうか。
愛する弟子の将来を憂えばこそ、ダミアンは他の選択肢を用意しようとした。
それは師としての責任であり、義務であり、なにより不器用な優しさでした。
その年は不作でした。
麦穂は枯れ、作物は萎れ、家畜は流行り病に倒れていきました。
貴方とダミアンは寝る間も惜しんで家々を回りました。しかしできる事は殆どありません。既に手遅れだったのです。
「ひでえ」
貴方たちが到着した時、家畜小屋の馬には夥しい蠅がたかり、腐敗が進んだ悪臭を放っていました。
ダミアンは屍の傍らに跪き、全身に広がった黒斑を検分しました。
突然、慟哭が上がりました。なんだろうと外に出、衝撃的な光景を目にします。
ハンスの家の前に人だかりができていたのです。
「どうしたんですか」
「ああダミアン。実は」
扉が猛然と開け放たれ、泣き腫らしたハンスがのっそり出てきました。
「ペーターが死んだ」
ダミアンが取り上げた末っ子の名前。
「どうして……」
「何日か前から具合が悪くて、体中に黒い斑点が浮かんで……ッ、ダミアン!」
ハンスが血相変えてダミアンに掴みかかりました。
「よくもだましやがったな!」
「ちょ、離れろよ!」
「どうしてうちの坊主が死ななきゃいけねえんだ、何も悪ぃことしてねえのに理不尽だろ!くそっくそっくそったれ、お前がなんかしやがったんじゃねえか!」
ハンスの目はあらん限りの憎悪にぎらぎら輝いていました。周囲の野次馬は息を飲み、成り行きを見守っています。
ダミアンは無抵抗のまま、ハンスの罵倒を甘んじて受けていました。
「なあそうだろ全部お前のせいだ、男に産婆なんかさせたからバチが当たったんだ!どうせ下心があったんだろ認めろよ畜生、教会の教えに逆らったから天罰が下ったんだ、隣のカミさんも証言したぜテメエが赤ん坊の額にキスしたって、ろくでもねえまじないを吹き込んだろ悪魔の使いめが!」
周囲にざわめきが広がります。
貴方は夢中で割って入り、師に掴みかかるハンスを引っぺがし、真っ赤な顔で怒鳴りました。
「言いがかりはよせよ、ダミアンは無能な旦那の代わりに最善を尽くしたんぞ!」
「この野郎!」
ハンスが拳を振り上げました。
次いで訪れる衝撃を予期し、キツく目を瞑った貴方の耳を、小娘の悲鳴が貫きました。
「師匠」
ダミアンが貴方を庇い、ハンスの拳をうけたのです。
「~~てっめえ」
「いいんだ」
ハンスを殴り倒そうと腰を撓めた間際、ダミアンが弱々しく制しました。
「……坊やが死んだのは僕の力不足です。お悔やみ申し上げます」
そんな言葉、聞きたくありませんでした。
謝ってなんかほしくなかった。
ダミアンは埃を払って立ち上がり、家の奥に一瞥を投げ、足早に帰途に就きました。
打ちひしがれた背中に村人たちが追い討ちをかけます。
「聞いたか?」
「自分のせいだって認めたな」
「やっぱりね。前から怪しいと思ってたんだ」
「男で薬師なんてねえ」
「ハンスの末っ子を取り上げたって本当か?」
「額にキスしたんだろ。恐ろしい」
「瘴気を吹き込んだんだ」
「最近は男の魔女も増えてるみたいじゃねえか。家畜や悪魔と乱交するんだと」
「赤ん坊は儀式の生贄に……」
「額に印を付けて……」
ざわざわ。ざわざわ。
息苦しい程の悪意が渦巻き、冷たい視線が突き刺さり、師匠の背中を見失いかけます。
ハンスの一言がきっかけでダミアンは異端の烙印を捺されました。
人心はかくも容易く裏返る。
貴方は呆然と立ち尽くすより他ありません。
昨日まで自分をちやほやしていた娘たちが顔を背け、差し入れをくれた女将さんがたが顔を歪め、旦那たちが罵りました。
「悪魔め」
「男魔女め」
師匠のせいじゃない。
あの人は悪魔の使いなんかじゃない。
声を限りに否定しようとして、無防備な背に飛来した石に面食らいます。
「危ない!」
貴方が叫んで知らせたというのに、ダミアンは避けませんでした。躱す素振りさえ見せません。
その一石に続けと村人たちが投石を行い、ダミアンの頭に肩に背中に腕に腰に足に石ころが当たりました。
もちろん、魔女の弟子と見なされた貴方も無事じゃすみません。
「ッ、」
悔し涙で霞む視界を瞬き、ダミアンの腕を掴んで走り、森の小屋に帰り着きました。
死んだ赤子を抱き、虚ろな目で宙を凝視するハンスの女房の姿が瞼に焼き付いています。
「師匠、血が……」
ダミアンは椅子に掛けたまま一言も発さず、切れた額から滴る血を見据えています。
「僕のせいだ。僕の」
「しっかりしろよ。ハンスや村の連中の言うことなんか真に受けんな」
「カトリック教会は産婆を異端視してる。男がお産を手伝うのは禁忌」
「あん時ゃそうするしかなかった、アンタがいなけりゃどっちも死んでたじゃねえか!」
「禁忌を破ったから、罪なき赤子が呪われたんだ」
「二年もたって?こじ付けだろ」
それ以上何も言わず、黙って傷を手当しました。
ダミアンの頭に包帯を巻き終えた後、椅子の上で膝を抱え、ポツリと呟きました。
「アンタが罪人だってんなら俺も共犯だよ。臍の緒切ったんだから」
どうしてこんな事になったかわかりません。
貴方とダミアンは苦境に立たされました。
坊やの葬儀には立ち合いが許されませんでした。ハンスが参列を拒んだせいです。
貴方とダミアンは小屋のテーブルに向き合い、静かに手を組んで坊やの冥福を祈りました。
一週間後、坊やの後を追うようにハンスの女房が亡くなりました。
村には謎の病が蔓延し、家畜や人間が次々倒れていきます。
貴方とダミアンが住む家には石や生卵が投げ込まれ、外出のたび心ない中傷にさらされました。
ともだちにシェアしよう!