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第8話(最終話) 俺の最高の恋人
「必要ない……?」
「良い思い出でした、マル、って感じ。苦しくて、忘れたい記憶じゃなくなったから、無理に忘れることもないかなって。……そんな風に思えるのは颯希のおかげだと思ってる」
「そう……なの?」
「うん、そう」
「恋人昇格に、一歩前進?」
「え」賢人は目を丸くする。「とっくに恋人だと思ってたんだけど」
「だめだよ。過去のオトコを忘れてないんだから」
「だから、それはきれいな思い出として」
「分かるけど、やっぱやだ」
「やだって……」
困り顔の賢人を、俺はもっと見ていたいと思った。恋人になりたいのは俺のほうだったのに、いつの間にか賢人のほうが俺に「恋人として認めろ」なんて言うようになっている。でも、もう少し。もう少し焦らしてもいいんじゃないかなあ、なんて思ってる。だって俺は、彼が俺を望むよりずっと前から、ずっと長いこと、彼を見ていた。だから知ってる。とっくに彼が俺に夢中だってこと。でも、もう少しだけ。賢人の頭の中が俺のことでいっぱいになって、柾との思い出も奥底に沈んで見えなくなるくらいになるまで。
◇ ◇ ◇
季節はめぐり、二人で迎える何度目かの春が来た。
「マジで大学まで追いかけてくるとは」
賢人は笑った。この春、俺は賢人と同じ大学に入ったのだ。それをきっかけにして、俺たちはそれぞれの家を出て、二人暮らしを始めることにしたのだが、ほかにもきっかけはあった。
柾はあの彼女と入籍して、実家に同居することになった。賢人のお母さんは仕事で知り合った人と再婚して海外へ。そんなこんなでとんとん拍子に二人暮らしが決まったのだ。
「柾の彼女――ああ、もう、義姉 さんか。彼女に聞かれたよ。昔からよく会話に出て来るけど、賢人くんってどういう関係?って。ただの幼なじみにしては親し過ぎるでしょ、なんて言われてさ」
「で、なんて答えたんだ?」
「普通に幼なじみだよ、って。あと、俺より二コ年上で、柾の同級生」
「それって一番大事な紹介文が抜けてない?」
賢人が言う。
「ああ、高校の部活の先輩ってのもあるか」
「いつの話だよ」
「兄貴の元カレってバラしてみる?」
「またそういうこと言う。あれはただの思い出。箱にでもしまっておけばいいの。今はおまえが恋人なんだから」
賢人は笑いながら仰向けからうつ伏せの姿勢になった。新居には、そのぐらいじゃビクもしない頑丈で大きなベッドを買った。
「そしたらさ、彼女、本当はもう知ってたんだ。柾から聞いてるって。恋人なんでしょ、だって」
「柾がバラすのもどうかと……ま、あいつらしいっちゃあいつらしいか。奥さんに秘密なんか持てなさそうだもんな」
「でも、さすがに柾が元カレってのは言ってないみたい」
「それは言えないだろ。言わないのが優しさなんじゃないの、あいつなりの」
これでもまだ柾の「優しさ」を信じて庇う賢人こそ「賢人らしい」と思い、それから少し柾に嫉妬して、最後にそんな賢人が好きだな、と思う。
その少し前。賢人と付き合ってる、柾にそう告げたのは俺だった。
彼女との結婚と同居話が具体化しはじめ、夫婦の部屋をどうしようかと悩む柾に、俺は自分の部屋――かつての兄弟部屋を空けるから使えば、と言った。
「俺、賢人と暮らすし」
「同棲するのか」
「うん」と頷いてから気づく。柾は「同居」でなく、「同棲」と言った。もしかして柾はとっくに勘づいていたのだろうか。そう思いながら俺は遂に柾に明かす覚悟を決めた。「実は、俺たち」
でも、言い終わらないうちに柾は言ったのだった。
「付き合ってるんだろ?」
「……うん」
柾は心からホッとしたように微笑んだ。たぶん、俺も同じように、肩の荷が下りた表情を浮かべていたことだろう。
「あいつは昔から颯希贔屓だったもんな。俺といてもおまえのことばっかりで」
「え?」
「本人も自覚なかったみたいだけど……。あいつはおまえといるほうが楽しそうにしてたし、でも、俺がさ」
「兄貴が?」
「俺が賢人を取られたくなくて、必死に邪魔してた。おまえのほうを向かないように、甘やかして、逃げられないようにして」
「逃げるなんて。賢人はちゃんと柾のこと好きだったよ」
「そうだな。……でも、本当は俺は二番目だった。ずっと見てれば分かるよ。あいつは頑張って俺を一番好きになろうとしてくれてたけど」柾は苦笑いする。「俺は賢人とおまえが好き合ってるの知ってて、邪魔してたんだ。俺が弾き出されるのがイヤで。ごめんな」
「彼女と出会ったから、気が変わったわけ?」
「それは違……いや、違わないか。彼女に出会って、好きになって、好きになってもらえて、それで分かった。本当に好き合ってる人と一緒にいられるのってすげえ幸せなんだなって。他人に邪魔されても好きな気持ちは止められないってことも」
「そんなの今更、なんか、ずるいよ。賢人がどれだけ」
「うん。そうだな。俺は結局、自分が一番でいたかっただけなんだ。兄貴なのに身長も勉強も颯希に追い越されて焦って、だから、賢人だけは俺の一番近くにいてもらいたかった。甘やかしてたんじゃなくて俺が甘えてたんだ。そのせいで二人を傷つけた。悪かった。ごめん」
柾は俺に頭を下げた。
それで賢人の傷を「なかったこと」にはできないけれど、でも、柾の俺へのコンプレックスを知ると強く責める気にもなれなかった。そんな気持ちを抱えながらも「世界一優しい兄貴」でい続けてくれたのも、きっと賢人にとっての「世界一優しい恋人」だったのも事実で……柾は俺のことも賢人のことも傷つけたかったわけじゃない。
それに、柾の言うことが本当なら。――本当は最初から「賢人の一番」が俺だったのなら、どんなにかいいだろうとも思った。
柾から聞いた話の大半は、でも、賢人には教えなかった。一番手だろうが二番手だろうが彼が柾を好きだった気持ちだって嘘じゃなかったはずだし、柾との日々に折り合いをつけさせるのは俺の役目だと思ったから。
「ああ。自分らが結婚式挙げてないもんだから、やるときは合同でやろうよ、なんて言いやがって」
俺は極力「なんでもないこと」のように賢人に言った。
「はは、俺、どういう顔すればいいの。元カレと今カレの兄弟に挟まれて」
「そこは、俺の最高の恋人ですって顔してればいいだろ」
「……」
ふと押し黙る賢人の顔を覗き込むと、真っ赤だ。
「え、なにその反応。可愛いんですけど」
「か、可愛いとか、そういうのいいから。颯希、今、なんて」
「最高の恋人」
「おまえは本当にもう……言うタイミングがおかしいんだよ」
「じゃあ、いつ言えばいい?」
ぐ、と言葉に詰まった賢人は、口をもごもごさせたかと思うと、抱きかかえていた枕を放り投げ、枕の代わりに俺を抱き締めた。
「やっぱり今。今、もっかい言ってほしい」
「賢人は最高の恋人、だよ」
俺のほうからも抱き返すと、すっぽり腕の中に納まる賢人が嬉しそうにうんうんと頷きを繰り返した。こんなに喜んでくれるならもっと早く言ってやればよかったかな、なんて思わなくもないけど、俺の片想い期間を考えたらやっぱり今が絶好のタイミングだと思うんだ。そんな風に思っていたら、顔を上げた彼と目が合った。二人して笑いながらキスをした。なんだか全身がくすぐったい。好きだよ、とどちらからともなく言った。何度も言い合い、そのたびにキスを繰り返した。キスするたびにもっと好きになる気がした。
そう、今俺の腕の中にいるのは、俺の恋人。ずっと見てたから知ってる。ずっと俺が憧れていた人。ベッドでは最高に可愛い人。ほかの誰よりも大切な人。
そして、ほかの誰よりも俺を愛してくれてる――俺の最高の恋人。
(完)
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