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第1章 8

 壱星の家に泊まった翌日の授業終わり、正門と裏門へ向かう分かれ道で壱星は俺に手を振った。 「じゃあね、智暁君。バイト頑張って」 「おう。じゃーな」  俺のバイト先は、正門前からバスと電車を乗り継いで30分ほどの場所にある塾だ。高3のとき、俺や蒼空、それから他にも友達が数人通っていたその場所で今はチューターをやっている。  塾に着いた俺は、やけにすっきりとした廊下の様子に違和感を覚えたが、すぐにその理由に気が付いた。4月に入ったことで、廊下に貼り出されていた俺たちの合格体験記が外されてしまっている。もうすぐ今年の合格者のものが貼られるんだろう。あの時から丸1年経過したことを実感する。  辛かったけど楽しかった。夏休みも冬休みも毎日のようにここに来て、授業を受けたり自習をしたり、そして、休憩室のいつも同じテーブルで蒼空たちとくだらない話をしながらコンビニの飯を食って……。  何だかんだ、あの頃が一番輝いていた気がする。受験勉強なんてもう二度とやりたくないけど、これからの人生であれほど真剣に何かに取り組むこともないのかと考えると少し寂しい。  少なくとも、あんな風に切磋琢磨できる相手と出会うことはないだろう。蒼空は間違いなく俺の一番の親友で、最高のライバルで、それから……。  思い出に浸っていると、突然、受験生時代にお世話になった先生に肩を叩かれた。 「桜川(さくらかわ)、そういえば昨日、笹山が来てたぞ。合格の報告に」 「えっ……蒼空が、ですか?」  蒼空の名前を聞いて過剰に反応してしまう。 「なんだよ、まさか知らないわけじゃないよな?笹山も1浪できっちり決めたんだよ。お前と同じA大の――」 「もちろん知ってますよ。建築学科でしょ」 「はは、相変わらずだな」 「何がですか?」 「お前たちはいいライバルだなと思ってな。まぁ、でも先輩なのは桜川だから、笹山の面倒見てやれよ」  今年、蒼空が合格した工学部建築学科は俺の第一志望だった。別に建築士になりたいとかそういうわけじゃないけど、オープンキャンパスに行ったときの雰囲気もよかったし、目標にするに相応しい偏差値で、卒業後はゼネコンに就職するのもいいかなって。  だけど、共通テストの点数的にギリギリ合格できるかわからなくて、俺は最後の最後で志望先を農学部に変えたんだ。農学部でも地域環境工学科なら実習も少ないし、就職先の選択肢の幅も広いって聞いたから。それに、当時は蒼空もそこを志望していた。確か、12月の模試の結果を見て、現役時代の蒼空は工学部を諦めて農学部を目指すことに決めたんだ。  恐らく先生は、蒼空が建築学科に受かったことに対して、俺が少なからず悔しがっていると思ってそんなことを言ったんだろう。  でも、現役と浪人で、俺は前者をとっただけ。蒼空に負けたわけじゃない。大体、現役の時はあいつも俺と同じ学科を受けて落ちているんだから俺の勝ちには変わりない。 「蒼空はもう、ライバルなんかじゃありません。それに学部も違うから会うこともないんじゃないかと」 「そうかぁ?会うことくらいあるだろ。まぁ、チューターやらないかって言ったら断られたけどな」  明るく笑う先生の声とは裏腹に、俺は息苦しさを感じていた。  浪人して志望先のランクを上げるのは珍しいことじゃない。蒼空は元々建築学科を目指していたんだから、むしろそうするのが当然だ。だけど、もしも俺と同じ学部になるのが嫌だったんだとしたら……。  それに、チューターも断るなんて。妹や弟もいて面倒見のいい蒼空なら、きっと引き受けると思っていたのに。  何もかも、嫌な風に考えてしまう。蒼空は俺のことをどう思っているんだろう。いや、もしかしたら、どうも思っていないのかも知れない。俺のことなんて、もう忘れてしまったのかも知れない。  染谷さんと過ごす時間や、浪人生として過ごす時間が、俺の存在を消し去ってしまったのだとしたら……。

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