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第3章 7
「おはよう、智暁君」
「おはよ……」
俺を見上げる壱星の嬉しそうな顔に、背中を冷たい水が這うような嫌な感じがした。
こいつはいつもこんな顔して、俺を騙すようなことを……。
「眠そうだね。昨日寝るの遅かった?智暁君、またゲームしてたんでしょ」
智暁君、智暁君と、こいつは事ある毎に俺の名前を呼ぶ。今まであまり気にしていなかったけど、それにも何か意味があるんじゃないだろうか。
例えば、俺のことをうっかり別人の名で呼んでしまわないように……とか。
「智暁君?どうかした?」
怪訝そうな表情にハッとする。そうだ、俺は壱星のことを信じるって昨日決めたばかりじゃないか。
「あ、あのさ……今日お前の家行っていい?」
「うん、もちろん。来てくれて嬉しいよ、智暁君」
そっと唇を撫でる指先は、先週のことを思い起こさせる。父親と食事に行くと言いながら、嬉しそうにしていたこいつの姿。あの時、会いに行った相手が父親ではなく重森真宙だったとしたら――。
「皆さん、おはようございます。えー、今日の内容は……」
教室に入るなり授業を始める先生の声に思考が中断される。その時、机の下で壱星の手がそっと俺の太ももに触れた。こいつも何かを感じ取っているのだろうか。
俺はその手を握り返すことも振り解くこともせず、ただ先生の言葉に意識を集中させた。
◇◇◇
「お邪魔します」
緊張を隠すように、いつもは言わない挨拶を口にしながら壱星の部屋へとあがる。
「ふふ、どうぞ。智暁君」
壱星はそう言うと俺の手を引いて部屋の奥へと歩き出す。
「智暁君、何か変だね。最近ずっと」
向かい合った壱星の細い指が俺の下腹部をなぞり、ゆっくり胸元へと上がってくる。艶めかしく誘うような仕草に、俺は唾を飲み込んだ。
「……壱星、あのさ。重森真宙のことなんだけど」
こうなってしまっては取り繕っても意味がない。単刀直入に切り出す俺に対し、壱星は一切動揺することなくこちらを見上げた。
「重森先輩?」
「その人、この大学にいるだろ。建築学科に」
壱星は少し悲しそうに目を伏せると、「ふぅ」とわざとらしく息を吐いてからゆっくり口を開いた。
「うん。……バレちゃったんだね」
余りにもあっさりと、こいつはそれを認めた。そのことで俺の頭には血が登り、華奢な肩を掴むと揺さぶるように問い質した。
「バレたって……で、でもお前、あの時はどこにいるか知らないって言ってたよな?何でそんな嘘つくんだよ?!」
「言えるわけないでしょ」
「何で?!」
「だって智暁君が…………いなくなっちゃうと思ったから」
黒い髪がサラリと揺れ、持ち上がった睫毛の下で瞳が輝く。その途端、薄く肉のついた滑らかな頬を涙が伝った。
その儚く物哀しい姿に、先程まで口をついて出ていた言葉は全て消え去ってしまう。
「言えないよ。俺は智暁君のことが大好きなのに……あの人のことはもう忘れたのに。それを証明してみせたでしょ?あの時、俺はっ……」
弱々しい力でトンと胸を押され、その手がぎゅっと俺の服を握り締めた。
「壱星……」
「ごめんね、智暁君。嘘ついてごめん。俺、怖かったんだ……」
ポロポロと溢れる涙と震える声に胸が苦しくなる。あの日、壱星が重森真宙に恋していたことを知った日、俺はこいつに酷いことをしてしまった。俺のことを重森だと思ってセックスしよう、なんて、過去を抉るようなことを。
確かにあの状況なら俺に嘘をつくのも仕方なかったのか。あれ以上、俺に傷付けられないために、壱星は……。
「ほ、ほんとに、今は何もないんだよな?」
「……ないよ。当たり前でしょ」
「会ったり、連絡取ったりとか……」
「だからないって!じゃあ俺のスマホ見てみる?!」
グイッと俺のTシャツを引き下げながら、壱星は震える声を張り上げた。その剣幕に驚きながらも、俺はようやく追求するのをやめた。
「……ごめん、そうだよな。スマホはいいよ。俺、壱星のこと信じるから……」
俺がそう言うと、壱星は顔を俯け声を上げて泣き始める。
「嘘ついてごめんなさい……。智暁君……俺、智暁君にっ……」
「ごめん。ごめんな?俺が……俺も悪かった。壱星、もう泣かないで」
涙で濡れた壱星の顔を胸に抱き寄せて、俺は壱星にバレないように静かに鼻を啜り上げた。必死に否定する壱星を見ていると、なぜか胸が苦しくなって涙が込み上げてくる。
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