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第3章 10

 壱星に誕生日を祝ってもらった翌々日の木曜日、演習の課題を早めに終えた俺は机の上に転がるシャーペンを見ながらぼんやりとしていた。壱星がペンを動かす音や、紙の擦れる音、少し離れた席の奴らのヒソヒソ話が聞こえてくる。  こういうときに考えてしまうのは、壱星が見たという蒼空の彼女のこと。あれから1週間以上経つけど、蒼空本人には何も聞けていない。というか、会えてすらいない。  明日は蒼空の誕生日。あいつはやっぱりその人と過ごすんだろうか。金曜日だし、また泊まりなのかな。  その時、太ももの辺りに振動を感じると同時に、ブブッと低い音が響いた。授業中だけど、どうせ暇だし……そう思いながらポケットからスマホを取り出す。机の下に隠すようにしながら確認したロック画面には、新着メッセージが2件という通知が表示されている。  開いてみると送り主は蒼空で、「明日ひま?」「飯いこ」と短すぎる文章が立て続けに届いている。  ……え、いいのかよ。  思わずニヤけそうになる口元を手のひらで擦るように押さえて、俺はしばらくその画面を眺めていた。  ……もしかして、蒼空も覚えてくれてたのかな。蒼空の20歳の誕生日に一緒に居酒屋へ行こうと話したことを。  了承の返事を打ち込もうとしたその時、急に肩を叩かれて俺の体はビクッと跳ね上がった。振り返ると、壱星の瞳が真っすぐ俺を見つめている。 「智暁君、これの答え見せてもらってもいい?」  声を潜めてそう言いながら、身を乗り出すように手を伸ばし、壱星は俺の解答用紙を自分の方へと引き寄せた。必要以上に体を近づけてくるその行為に、なぜかバツの悪い気持ちになり、蒼空には後で返信しようとスマホをポケットをしまった。 ◇◇◇  最終コマを終えた俺と壱星は、校舎から分かれ道までの5分ほどの道のりを歩いていた。ふと会話が途切れた時に、壱星が俺を見上げて嬉しそうな表情を見せる。 「ねぇ、智暁君。明日っていつも通りうち来るよね?」 「……えっ?」  毎週金曜日はバイトもないしほとんどいつも壱星の家で過ごしている。  でも、明日は蒼空と居酒屋に行きたい。何と言い訳をしようか迷っていると、先に壱星が話し始めた。 「明日はね、俺の家の近くのパン屋さんで蒸しパンが安いんだって。買って帰って朝食べよ」 「蒸しパン……?」 「うん。6月4日だからかなぁ」  唐突過ぎる蒸しパンの話に、胸の奥がざわざわとするような違和感を覚えた。だって、俺も壱星も別にパン好きというわけではないから。クリームの入ったメロンパンが好きだと言ったせいで誤解されているんだろうか。 「いや、何で急に?別に俺、蒸しパンはそこまで……」 「今日たまたまお店の看板見たんだ。前から行ってみたくて、あのパン屋さん。だから明日行こう?ねぇ、智暁君、ダメかな?」  壱星は不安そうに口角を少し下げたが、アーモンド形の目はぱっちりと見開かれ、まるで俺の心の内を見透かしているようだった。  壱星よりも蒼空を優先しようとしていることを責められている、そんな気分だった。 「ダメじゃないけど……明日は……」 「あれ、智暁君、もしかして明日ってバイトだっけ?」  俺のバイトが曜日固定で、特別な事情がない限り金曜日は休みであることを壱星は知っているはずだ。  わざとらしく尋ねてくる姿に束縛されているような息苦しさを感じ、俺は顔を背けて言い放つ。 「バイトじゃないけど、明日は無理。友達と飯行くから」  一瞬だけ訪れた沈黙と共に2歩前へ進む。 「あ、そうなんだ。ごめんね、智暁君。俺、勝手に話進めちゃって。パン屋は別の時に行こう」  意外にもあっさりと引き下がり、壱星はそれ以上何も尋ねてこなかった。何となく、反応を見て遊ばれているような気がしてしまう。壱星に限ってそんなことをするとは思えないけど、最近の壱星は妙だ。重森真宙のことがあったから……?もう気にしないようにしなければと思っても、重森に関する壱星の嘘が頭から離れない。  でも、壱星に嘘をつかせたのは俺だ。それに、俺だって重森に会うなと言って壱星を束縛している。  むしろ、かつて恋をしていた相手にこっそり会っているのは俺の方だ。壱星が知れば怒るだろうか。  ……いや、でも。壱星と重森の関係と、俺と蒼空の関係は違う。違うはずだ。だって、俺は蒼空に彼女がいるって話しているし、友達として接しているし……俺は蒼空のこと、ちゃんと諦めたはずだから。

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