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第17話 In den Tiefen der Verzweiflung
修道院を出る前に、情勢を知っておきたかった。
修道女マリアに頼み、新聞があるかどうかを尋ねる。
「少し前の日付ですが、大丈夫ですか?」
「問題ありません。近日中であれば……」
しばらくして、渡された紙の束に目を通す。
見知った名前が目に入った途端、顔から血の気が引いた。
「ギルベルト・ダールマン……死去……?」
……記事には、そう書かれていた。
「……ご家族っすか」
「……兄だ……」
ヴィルの問いに返した言葉は、自分でもはっきりとわかるほど震えていた。
「兄上が‥‥‥亡くなった……?」
なぜだ?
事故か? それとも、父のように過労で……?
もしくは……嗚呼、考えたくもないことだが……
私の、せいか?
ふらつく私の肩を支え、ヴィルは修道女マリアに問う。
「……マリアさん、なんて書かれてたんすか」
「……少し、お待ちくださいね。『ギルベルト・ダールマンという商人が死んだこと』についての記事です。『事業は学者である弟が引き継いだ』『警察は妹および弟の取り調べを行っており、長弟は先日死去済み』……だいたい、こういったことが書かれています」
長弟……は、間違いなく私のことだ。表向きは、死んだことにされているのだろう。
視界が歪み、吐き気がする。古傷がじくじくと疼く。
──もう腹が決まっているんなら、俺が反対しようが無駄か
──ただ、時々は帰って来いよ?
私が神に仕えたのは、家族のためだった。
祖父の汚名をそそぐためであり、両親の死を悼むためであり、弟と妹の未来のためであり、
兄上が、少しでも心安らかでいられるように……
「顔色が真っ青です。まだ休んでいかれた方が……」
「……いいえ。大丈夫です」
もし。
もし、兄上の死の原因が私にあるのならば。
余計に、長居をするわけにはいかない。
「世話になりました。……いくら感謝しても足りぬほどです」
ふらつく足にどうにか力を入れ、入口へと歩みを進める。
「え、ちょ……無理すんなって」
ヴィルに腕を掴まれたが、振り払って先に進む。
そもそも、逃げたこと自体が過ちだった。
私は沙汰を受け入れられず、逃げて人を殺めた。
悪夢の中で聞いた声が、脳裏に蘇る。
「お前は、罪を犯してまで生き延びたかったのか」──と。
嗚呼、だが。それでも、私は受け入れられなかったのだ。
嬲 られ、辱 められ、蔑 まれ、貶 められ、弄 ばれ、甚振 られ……
そんな「死」を……そんな「終焉」を、断じて受け入れることなどできなかった。
「神父様」
ヴィルの声で、意識が現実に呼び戻される。
「マリアさん、来てるっす」
振り返ると、修道女マリアが私たちを追いかけて来ていた。
老齢の身には堪えるだろうに、走ってくださったのだろう。見るからに、息が上がっている。
「駅に行くのでしょう」
対応に困っていると、続けて問われた。
「道のり、わかっていらっしゃるの?」
大方見当はつけているが、確実な場所を理解しているわけではない。
だが、見当をつけた場所を順番に探せば見つかるはずなのだ。無論、日が照り始めれば私の身に負担はかかる。だが、その程度は耐えればいい。
これ以上、彼女を危険に晒すわけには……
「追っ手の気配はないっす」
ヴィルの声で、緊張がわずかに和 らぐ。
耳をすませ、辺りを見回す。……やがて、私もヴィルと同じ結論に達することができた。
「……道を、聞いても構いませんか」
老齢の彼女が歩きやすいよう、手を差し出す。
シワだらけの手を伸ばし、修道女マリアは安堵したように案内を始めた。
案内のおかげで、程なくして駅に辿り着くことができた。
「どうか、ご無事で。……くれぐれも、命を大切になさってくださいね」
私の瞳を見つめ、修道女マリアは今にも泣き出しそうな瞳で語る。
「……ご厚意、本当に感謝します。どうか、息災でお過ごしください」
無理やりにでも笑顔を作ろうとするが、やはり、引きつってしまっているのがわかった。
「マジでありがとな、マリアさん。もらった本、読めるようになっとくから!」
ヴィルが明るく笑う。
朗らかな笑みを向けられ、修道女マリアは未練を振り切るように十字を切った。
背を向け、駅構内へと向かう。
「ラルフ」
鋭くなった聴覚は、離れた場所からの呟きを拾い上げた。
「あなたの死は美しかった。それでも……」
重ねられた面影。
彼女が私に手を差し伸べた理由。
遠い過去に、刻まれてしまった傷痕。
「ソフィさんは、あなたに生きていて欲しかったはず。……私も、アルマンさんも……オスカーだって……」
きっと、彼女は思い違いをしているのだろう。
人を救うために手を汚した「彼」と、私の間には、決定的な違いがある。
私には、誰かを救うことなどできはしない。
***
太陽が高く登り始め、視界が眩 む。どうにか耐えようと足を踏ん張っていると、ヴィルに手を掴まれた。
「こっち行きましょ」
「……ああ」
日陰の方を指さしていたので、雑踏 を横切り、大人しくついていく。
大勢のヒトの気配が、足音が、話し声が、体臭が、四方八方から五感を責め立てる。
視界が歪み、吐き気がする。地面に足をつけているはずなのに、立っている感覚がない。
「兄上……」
吐き出すように、言葉が零れた。
兄上は、若くして父の事業を引き継いだ。
要領も良く、優秀で、私には到底できないようなことを涼しい顔でやってのける人だった。
その反面、だらしない部分や奔放すぎる部分も目についたものの、誰も文句を言えないほどに「結果」を残せる人でもあった。
「なぜ……」
兄上は、間違いなく生きるべき人だったというのに。
物思いにふけっていると、肩に武骨な手が触れ、抱き寄せられる。
「オレ、そばにいますんで」
ヴィルの言葉は、どんな慰めよりも温かい。
「……ああ……」
それだけを返すのが、やっとだった。
意識が、思考の濁流に飲み込まれていく。
兄上は、手紙にて私を「見捨てる他ない」と語った。手紙の文面は、いつも私に語りかけるような「兄」の口調ではなく……取引で使うような、堅苦しいものだった。
当然のことだ。
家族を守るための、正しい選択だ。
だから、私も処刑を受け入れるつもりでいた。
きょうだい達の負担を減らすためには、私は予定通りに殺されるべきだったのだろう。
……だが……
──見たまえ。もう男を知っている顔だ
下卑た嘲笑が脳裏に蘇る。
雑踏の喧騒が鼓膜を揺さぶる。
自分が「どこ」にいるのかもわからないまま、目の前の地面が白い闇に溶けていく。
誰も襲ってくる者はいない。
いたとするなら、ヴィルが動かないはずはない。
それなのに……
いったい私は、何に脅えているのだろう。
ヴィルが何事か話しかけている気がするが、声が遠く、内容が頭に入らない。
心臓の音が頭蓋に反響する。ズキン、ズキンと、激しい痛みが脳髄を走り抜けていく。
目の前の大衆が一斉に立ち止まり、私を見る。
いいや、違う。これは、現実ではない。
嗚呼、間違いない。この顔は……
「あの日」、死した者たちの──
***
やがて、白昼夢 は蜃気楼 のように消え去った。
時間が経つにつれ、肉体の感覚も少しずつ正常に戻っていく。
寄り添ってくれるヴィルの体温が、心地よい。
「私は……死者、ということになっているらしい」
そう呟くと、ヴィルは励ますように、際立った明るい声で応えた。
「みたいっすねぇ。……だから、ほら、お兄さんも死んだとは限らないんじゃ?」
その言葉には、何も返せなかった。
いいや、分かっている。少しでも良い方向に考えた方が、気も楽になるはずだ。
「……あー……考えても仕方ないっすよ。えーと、これからご実家の方に行くんでしょ? そん時に確かめましょ」
気を遣わせてしまっているのを申し訳なく思いつつ、ぎこちなく頷いた。
顔見知りがいた方が、追っ手は襲撃しにくい……ヴィルが得た情報から、私はそう仮説を立てた。人が大勢行き交う鉄道を使い、故郷の方へと向かう方針を固めたのは、そのためだ。
無論、堂々と実家に帰る訳にはいかないし、兄上に助力を頼む訳にもいくまい。だが、せめて。もう一目、きょうだい達に会えるかもしれないとは思っていた。
そして、もし、兄上が私を見捨てたことを気に病んでいたのなら、伝えたかった。
その判断は何も間違っていなかったと。
むしろ、迷惑をかけてしまって済まない、と……
「……でも、神父様って弟なんすね。てっきりお兄さんかと思ってました」
「下にも……二人、いる」
「あっ、そうなんすか。お兄さんでもあるんすね」
「四人兄妹だ。兄が一人、妹が一人、弟が一人……」
「へぇー……会えたら挨拶しねぇとなぁ」
「……くれぐれも、余計なことは言うな」
「オレとセックスしてることとか?」
「こ、声を潜めろ愚か者……!」
ヴィルとの会話は取り留めのないものだったが、不思議と気が紛れた。
そうだ。私が考えるべきは、これから先どうするかだ。
苦難の道連れにしているヴィルのためにも、しっかりしなくてはならない。
兄上に詫びるのは、事態が落ち着いてからでいい。
「これからヘッセンの方角に向かう。目的地はヴァッサーシュピーゲルだ」
「了解っす」
……いい返事だが、果たして地名だけで伝わるのだろうか。
まあいい、どうせ、別の場所を経由する必要もある。後ほど、予定を話す機会を設けよう。
そうしているうちに、汽笛が蒸気機関車の訪れを告げる。
「へぇ……これが汽車っすか。なんかすごいっすね。思ったより広いし」
中に入り、ヴィルは興味深そうに顔を輝かせた。
「……目立つような所作 は慎め」
そう釘を刺したものの、初めての乗車であれば多少ははしゃぐのも致し方ない。
ただでさえ、顔の傷は目立つだろうが……少しぐらいは、堪能 させてやるべきだろう。
きょろきょろと車内を見渡すヴィルは、明らかに悪目立ちしている。……が、最初の忠告以降は特に指摘せず、席に着いた。
着席してすぐに、強い眠気に襲われる。
重くなったまぶたをどうにかこじ開けていると、ヴィルに声をかけられた。
「肩、貸しますよ」
「……ああ……」
言われるがままにもたれかかると、睡魔が更に強まっていく。
自責の念も、悪夢への恐怖も、未来への不安も、何もかもが安らかな温もりに溶かされていく。
嗚呼、やはり。
ヴィルの隣は、居心地がいい。
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