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第18話 Schwankende Emotionen
珍しく、悪夢でない夢を見た。
節くれだった手が私の肌をなぞり、唇に触れる。
恐怖はない。不快感もない。
むしろ、私はその手に安らぎを感じている。
「神父様」
優しく、甘い囁きが私を呼ぶ。
罪深い誘惑が、疲弊した魂に沁みる。
温かい手が、刻まれた傷痕を撫ぜ、癒していく。
「愛してます」
熱い昂りが、私を貫く。
与えられる快楽と糧が、ひび割れた私の魂を満たし、慰める。
嗚呼……その愛に応えられたなら、どれほど幸福なことだろう。
忘れさせてくれ。すべて。
どうか、私を……
私を、おまえの手で堕としてくれないか。
***
「ん……」
目を開けると、眩い光が眼球を突き刺す。
「あ、大丈夫すか? 寝てていいんすよ」
……ヴィルに声を掛けられ、肩が跳ねそうになったが堪 えた。
何という夢を見ているのだ。私は。
今は、そんな場合ではないというのに……。
「……降りる駅が過ぎてしまっては困る」
眠い目を擦り、赤くなった顔を誤魔化そうと外を眺める。
……と、腿 の方に妙な感触を感じた。
くすぐったいというのか……生暖かいというのか……
這うような感触は次第に内腿の方に移動し、思わず口を押さえる。
寝ぼけていた意識がようやく覚醒し、触られているのだと気付いた。
「……おい」
「ん? 何すか」
「なんだ、この手は」
「……あっ」
何が「あっ」なのだ。何が。
まさか、無意識に触っていたのか……?
「こ、この前弾を取ったじゃないすか。大丈夫かなって……」
「……」
ヴィルはだらだらと冷や汗をかき、視線を逸らしている。
なるほど、妙な夢を見たのはそのせいか……
「あまりベタベタ触るな。どうしても撫で回したければ、一言声をかけろ」
「す、すんません。じゃあ、今聞きます。腰とかケツ触っていいすか」
「窓から投げ捨てられたいか」
「すんません……」
ああ、まったく、くだらない。
とはいえ、少々気が紛れたのは事実だ。
……反省はしてもらいたいものだがな。
***
「で、ここが目的地っすか?」
「いや、今はプファルツとバーデンの間だ。ヘッセンの方角に向かうには乗り換えがいる。ここから東……シュトゥットガルト方面に向かい、更に北へ……」
「……了解っす!」
ヴィルは、しばし目を左右に泳がせていたが、最終的には元気よく返事を返した。
……後で地図を見せておくか。
「……汽車の時間によっては、この辺りで宿に泊まる必要があるな」
空模様を見ると、少し日が傾いていた。
私としては日が落ちた方が動きやすいが、夜は人目に付きにくくなる。
……つまりは、戦闘になる可能性が高くなってしまう。
「てか、結構金持ってるんすね」
「今までの生活では滅多に使わなかったからな」
ほぼ人と関わることを断っていたため、当然ながら金銭のやり取りは少なかった。
だが、それだけではない。
「……それと、刺客が持っていた分もある」
……罪深いことだとは、私とて理解している。
「あー……でも、仕方ねぇっすよ。使えるもんは使わなきゃ」
ヴィルはそう言ってくれる。
彼も、そうやって生き長らえてきたのだろう。……いいや、そうやってしか、生きる術がなかったのか。
「……神よ、お赦しを……」
小さく独りごちる。
罪を重ねて歩む先に、果たして救いがあるのだろうか。
奪わずとも生きられる道を、見つけることができるだろうか……。
「……あ?」
物思いにふけっていると、ヴィルが怪訝そうな声を上げる。
かと思えば、次の瞬間には誰かの手を掴み上げていた。
「あっ!?」
人混みの中から、痩せぎすの少年が引っ張り出される。まだ小さな手には、ナイフが握られていた。
「……それで隠れたつもりか? 見え見えだぜクソガキ」
大衆は途端に騒 めき、私達の周りに空間が広がる。……実に、居心地が悪い。
要は、この少年が盗みか何かを働こうとしたのだろう。
そして、「同業者 」の目はそれを見逃さなかった、と。
「神父様ぁ、どうします?」
ヴィルは険しい顔をしつつ、尋ねてくる。盗みどうこうではなく、「私を傷つけようとしたこと」が、彼の中では大きいのだろう。
周りの視線が痛い。
私としては、何かを盗まれたわけでもなければ、ナイフで切りつけられたわけでもない。
わざわざ大事 にするまでもなかろう。第一、この状況はいささか気まずい。
「逃がしてやれ」……と、言おうとした瞬間、
「盗賊が出やがったのか!!」
誰かの怒号に、思わず息が止まった。
背筋に悪寒が走る。……嗚呼……厭 な空気だ。
「とっととつまみだせ! ぶっ殺してやる!」
男の怒声を合図にし、群衆の視線が一斉に少年を見る。
少年は怯えきった表情で、私を見上げた。
救いを求めるような瞳が、胸に突き刺さる。
「……っ」
「見捨てましょ。いちいち憐れんでちゃキリがないです」
ヴィルが耳元で囁く。
……そうやって。
そうやって、おまえも見捨てられてきたのか?
悲しむでもなく、憤るでもなく、当たり前に思うほど……
「そのガキを渡せ! 腕を切り落として川に投げ込むぞ!」
人混みをかき分けてきた男が、ヴィルの腕から少年を奪う。男はそれなりに値が張りそうなコートを着ており、黒い髪は綺麗に撫でつけられている。
身なりのしっかりした紳士だ。おそらく、普段はこのような口調で話してはいないだろう。
「うわぁっ!?」
少年は必死にもがくが、男の腕からは抜け出せない。
「た、助けてよ! 兄ちゃん、カミサマに仕えてるんだろ!?」
まだ、声変わりすらしていない声が救いを求める。
……やめろ。そのような目で見るな。
私は……私は、もう……
「……神のご慈悲は、富める者にも、貧しき者にも平等に注がれます。どうか、穏便に済ませることはできませんか?」
「あァ? 俺のオヤジはな、盗賊に店を荒らされて大損こいてんだ! 許せるもんかよ!」
「……そこを、どうにか……」
それでもどうにか作り笑いを見せ、説得を試みる。
……平等だと?
本気で言っているのか、私は。
生きてきた中で、理不尽ばかりを感じてきたというのに?
邪 な感情がぐるぐると渦巻く。
「……聖職者気取りが偉そうに」
その通りだ。
私はもう、聖職者を「気取る」ことしかできはしない。
「そこまで言うならついて来い。……話し合うにしても、こんな場所じゃやりにくいだろ」
少年の腕をわし掴んだまま、男は言う。
ためらったものの、言われた通りその後に続いた。ヴィルも、仕方がないといった様子でついてくる。
凄まじい敵意と悪意が、男からは感じ取れる。
私も商家の出である以上、「盗賊」の脅威は理解できる。男が先程語ったことが真実であるならば、恨みに思うのも無理はない。
嗚呼、だが……私は知っている。
やり口が、盗賊連中とさほど変わらない「商人」など、山ほどいる。
男の主張をそのまま信じるつもりはない。
とはいえ少年の人となりが分からない以上、無意味にそちらに肩入れするつもりもない。彼がかつてのヴィルのように、罪を悔いる心を持っているとは限らないのだから。
……ただ、縋りつかれた手を振り払えるわけもなかった。
***
人気のない路地裏に辿り着いたかと思えば、男は少年を地面に引き倒す。
コートの中から長剣を取り出し、見せ付けるように鞘から抜いた。
「何をするつもりですか」
突然物騒なものを取り出したのにも驚いたが、それが時代錯誤な武器なのは驚きを通り越して不気味だ。
男がくっくっと笑う。
「……俺はなァ、『秩序を乱す輩』が大嫌いなんだ。当たり前に罪を犯す賊なんざ、嫌いな人種の筆頭さ」
澱 んだ鳶色 の瞳が、ぎらりと輝いてこちらを睨みつける。
剣の切っ先を少年の喉元に向け、男は舌なめずりをする。そして……そのままゆっくりと、私の方へ剣先を向けた。
「だが……そんなゴミムシでも役に立つことはあるらしいな。……あんがとよ小僧、おかげで『吸血鬼』を誘い出せたぜ……!」
「はぁ……!?」
ヴィルが隣で素っ頓狂な声を上げる。
なるほど、悪魔祓い か。人前で戦いにくいのならば、人目につかないところに誘い出せばいいと……。
「……やはり、人前では戦いにくいようですね」
「ハッ、冷静じゃねぇか。血を啜る有害生物 のくせして、人のフリをするのが上手くて結構だ。……ああ……虫唾が走るぜ……ッ!」
虫唾が走る……か。
嗚呼、それはこちらの台詞だ。
「少年を利用する外道が、何を言いますか」
「何言ってやがる。こいつもクズだよ。盗みが生業 の、生きてる価値なんざ欠片もねぇゴミクズだ」
男は嘲笑を浮かべ、少年の頭を踏みつける。
反吐が出るとはこのことだ。
貴様に、化け物と謗 られる謂 れなどない。
「当たり前にルールを守って秩序正しく生きてる一般市民が、どうして危険に晒されなきゃならない? あまりに理不尽だ。許されることじゃねぇ……」
「や、やめてよオットーさん……! おれ、頑張っただろ!? い、いつ殺されるかわかんなくて、ほんとに怖かったよ。なぁ、許してくれよぉ……!」
震えながら許しを乞う少年を、男は容赦なく踏みつける。
「うるせぇ! 生かしてもらえるだけありがたく思うんだなゴミムシが!」
少年が罪人だとして、望んでそのような生き方をしているとは限らない。
正しい生き方がわからないまま、奪うことを選択するしかなかった者もいる。
……少なくとも、かつてのヴィルはそうだった。
「この……ッ」
身体が勝手に動く。
もう、放ってはおけなかった。
「かかって来いよ吸血鬼ィ! このオットー・シュナイダーが八つ裂きにしてやる……!」
爪での斬撃を剣で受け止め、オットーと名乗った男は愉 しげに笑う。
ヴィルは黙って様子を見ていたが、私が動いたところで彼も武器を取り出した。
男の主義主張も、少年の罪の重さも、今はどうでもいい。
私はこの男を止めねばならない。……それだけは、間違いのない事実だ。
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