21 / 42

第18話 Schwankende Emotionen

 珍しく、悪夢でない夢を見た。  節くれだった手が私の肌をなぞり、唇に触れる。  恐怖はない。不快感もない。  むしろ、私はその手に安らぎを感じている。 「神父様」  優しく、甘い囁きが私を呼ぶ。  罪深い誘惑が、疲弊した魂に沁みる。  温かい手が、刻まれた傷痕を撫ぜ、癒していく。 「愛してます」  熱い昂りが、私を貫く。  与えられる快楽と糧が、ひび割れた私の魂を満たし、慰める。  嗚呼……その愛に応えられたなら、どれほど幸福なことだろう。  忘れさせてくれ。すべて。  どうか、私を……  私を、おまえの手で堕としてくれないか。  *** 「ん……」  目を開けると、眩い光が眼球を突き刺す。 「あ、大丈夫すか? 寝てていいんすよ」  ……ヴィルに声を掛けられ、肩が跳ねそうになったが(こら)えた。  何という夢を見ているのだ。私は。  今は、そんな場合ではないというのに……。 「……降りる駅が過ぎてしまっては困る」  眠い目を擦り、赤くなった顔を誤魔化そうと外を眺める。  ……と、(もも)の方に妙な感触を感じた。  くすぐったいというのか……生暖かいというのか……  這うような感触は次第に内腿の方に移動し、思わず口を押さえる。  寝ぼけていた意識がようやく覚醒し、触られているのだと気付いた。 「……おい」 「ん? 何すか」 「なんだ、この手は」 「……あっ」  何が「あっ」なのだ。何が。  まさか、無意識に触っていたのか……? 「こ、この前弾を取ったじゃないすか。大丈夫かなって……」 「……」  ヴィルはだらだらと冷や汗をかき、視線を逸らしている。  なるほど、妙な夢を見たのはそのせいか…… 「あまりベタベタ触るな。どうしても撫で回したければ、一言声をかけろ」 「す、すんません。じゃあ、今聞きます。腰とかケツ触っていいすか」 「窓から投げ捨てられたいか」 「すんません……」  ああ、まったく、くだらない。  とはいえ、少々気が紛れたのは事実だ。  ……反省はしてもらいたいものだがな。  *** 「で、ここが目的地っすか?」 「いや、今はプファルツとバーデンの間だ。ヘッセンの方角に向かうには乗り換えがいる。ここから東……シュトゥットガルト方面に向かい、更に北へ……」 「……了解っす!」  ヴィルは、しばし目を左右に泳がせていたが、最終的には元気よく返事を返した。  ……後で地図を見せておくか。 「……汽車の時間によっては、この辺りで宿に泊まる必要があるな」  空模様を見ると、少し日が傾いていた。  私としては日が落ちた方が動きやすいが、夜は人目に付きにくくなる。  ……つまりは、戦闘になる可能性が高くなってしまう。 「てか、結構金持ってるんすね」 「今までの生活では滅多に使わなかったからな」  ほぼ人と関わることを断っていたため、当然ながら金銭のやり取りは少なかった。  だが、それだけではない。 「……それと、刺客が持っていた分もある」  ……罪深いことだとは、私とて理解している。 「あー……でも、仕方ねぇっすよ。使えるもんは使わなきゃ」  ヴィルはそう言ってくれる。  彼も、そうやって生き長らえてきたのだろう。……いいや、そうやってしか、生きる術がなかったのか。 「……神よ、お赦しを……」  小さく独りごちる。  罪を重ねて歩む先に、果たして救いがあるのだろうか。  奪わずとも生きられる道を、見つけることができるだろうか……。 「……あ?」  物思いにふけっていると、ヴィルが怪訝そうな声を上げる。  かと思えば、次の瞬間には誰かの手を掴み上げていた。 「あっ!?」  人混みの中から、痩せぎすの少年が引っ張り出される。まだ小さな手には、ナイフが握られていた。 「……それで隠れたつもりか? 見え見えだぜクソガキ」  大衆は途端に(ざわ)めき、私達の周りに空間が広がる。……実に、居心地が悪い。  要は、この少年が盗みか何かを働こうとしたのだろう。  そして、「同業者(とうぞく)」の目はそれを見逃さなかった、と。 「神父様ぁ、どうします?」  ヴィルは険しい顔をしつつ、尋ねてくる。盗みどうこうではなく、「私を傷つけようとしたこと」が、彼の中では大きいのだろう。  周りの視線が痛い。  私としては、何かを盗まれたわけでもなければ、ナイフで切りつけられたわけでもない。  わざわざ大事(おおごと)にするまでもなかろう。第一、この状況はいささか気まずい。 「逃がしてやれ」……と、言おうとした瞬間、 「盗賊が出やがったのか!!」  誰かの怒号に、思わず息が止まった。  背筋に悪寒が走る。……嗚呼……(いや)な空気だ。 「とっととつまみだせ! ぶっ殺してやる!」  男の怒声を合図にし、群衆の視線が一斉に少年を見る。  少年は怯えきった表情で、私を見上げた。  救いを求めるような瞳が、胸に突き刺さる。 「……っ」 「見捨てましょ。いちいち憐れんでちゃキリがないです」  ヴィルが耳元で囁く。  ……そうやって。  そうやって、おまえも見捨てられてきたのか?  悲しむでもなく、憤るでもなく、当たり前に思うほど…… 「そのガキを渡せ! 腕を切り落として川に投げ込むぞ!」  人混みをかき分けてきた男が、ヴィルの腕から少年を奪う。男はそれなりに値が張りそうなコートを着ており、黒い髪は綺麗に撫でつけられている。  身なりのしっかりした紳士だ。おそらく、普段はこのような口調で話してはいないだろう。 「うわぁっ!?」  少年は必死にもがくが、男の腕からは抜け出せない。 「た、助けてよ! 兄ちゃん、カミサマに仕えてるんだろ!?」  まだ、声変わりすらしていない声が救いを求める。  ……やめろ。そのような目で見るな。  私は……私は、もう…… 「……神のご慈悲は、富める者にも、貧しき者にも平等に注がれます。どうか、穏便に済ませることはできませんか?」 「あァ? 俺のオヤジはな、盗賊に店を荒らされて大損こいてんだ! 許せるもんかよ!」 「……そこを、どうにか……」  それでもどうにか作り笑いを見せ、説得を試みる。  ……平等だと?  本気で言っているのか、私は。  生きてきた中で、理不尽ばかりを感じてきたというのに?  (よこしま)な感情がぐるぐると渦巻く。 「……聖職者気取りが偉そうに」  その通りだ。  私はもう、聖職者を「気取る」ことしかできはしない。 「そこまで言うならついて来い。……話し合うにしても、こんな場所じゃやりにくいだろ」  少年の腕をわし掴んだまま、男は言う。  ためらったものの、言われた通りその後に続いた。ヴィルも、仕方がないといった様子でついてくる。  凄まじい敵意と悪意が、男からは感じ取れる。  私も商家の出である以上、「盗賊」の脅威は理解できる。男が先程語ったことが真実であるならば、恨みに思うのも無理はない。  嗚呼、だが……私は知っている。  やり口が、盗賊連中とさほど変わらない「商人」など、山ほどいる。  男の主張をそのまま信じるつもりはない。  とはいえ少年の人となりが分からない以上、無意味にそちらに肩入れするつもりもない。彼がかつてのヴィルのように、罪を悔いる心を持っているとは限らないのだから。  ……ただ、縋りつかれた手を振り払えるわけもなかった。  ***  人気のない路地裏に辿り着いたかと思えば、男は少年を地面に引き倒す。  コートの中から長剣を取り出し、見せ付けるように鞘から抜いた。 「何をするつもりですか」  突然物騒なものを取り出したのにも驚いたが、それが時代錯誤な武器なのは驚きを通り越して不気味だ。  男がくっくっと笑う。 「……俺はなァ、『秩序を乱す輩』が大嫌いなんだ。当たり前に罪を犯す賊なんざ、嫌いな人種の筆頭さ」  (よど)んだ鳶色(とびいろ)の瞳が、ぎらりと輝いてこちらを睨みつける。  剣の切っ先を少年の喉元に向け、男は舌なめずりをする。そして……そのままゆっくりと、私の方へ剣先を向けた。 「だが……そんなゴミムシでも役に立つことはあるらしいな。……あんがとよ小僧、おかげで『吸血鬼』を誘い出せたぜ……!」 「はぁ……!?」  ヴィルが隣で素っ頓狂な声を上げる。  なるほど、悪魔祓い(エクソシスト)か。人前で戦いにくいのならば、と……。 「……やはり、人前では戦いにくいようですね」 「ハッ、冷静じゃねぇか。血を啜る有害生物(バケモノ)のくせして、人のフリをするのが上手くて結構だ。……ああ……虫唾が走るぜ……ッ!」  虫唾が走る……か。  嗚呼、それはこちらの台詞だ。 「少年を利用する外道が、何を言いますか」 「何言ってやがる。こいつもクズだよ。盗みが生業(なりわい)の、生きてる価値なんざ欠片もねぇゴミクズだ」  男は嘲笑を浮かべ、少年の頭を踏みつける。  反吐が出るとはこのことだ。  貴様に、化け物と(そし)られる(いわ)れなどない。 「当たり前にルールを守って秩序正しく生きてる一般市民が、どうして危険に晒されなきゃならない? あまりに理不尽だ。許されることじゃねぇ……」 「や、やめてよオットーさん……! おれ、頑張っただろ!? い、いつ殺されるかわかんなくて、ほんとに怖かったよ。なぁ、許してくれよぉ……!」  震えながら許しを乞う少年を、男は容赦なく踏みつける。 「うるせぇ! 生かしてもらえるだけありがたく思うんだなゴミムシが!」  少年が罪人だとして、望んでそのような生き方をしているとは限らない。  正しい生き方がわからないまま、奪うことを選択するしかなかった者もいる。  ……少なくとも、かつてのヴィルはそうだった。 「この……ッ」  身体が勝手に動く。  もう、放ってはおけなかった。 「かかって来いよ吸血鬼ィ! このオットー・シュナイダーが八つ裂きにしてやる……!」  爪での斬撃を剣で受け止め、オットーと名乗った男は(たの)しげに笑う。  ヴィルは黙って様子を見ていたが、私が動いたところで彼も武器を取り出した。  男の主義主張も、少年の罪の重さも、今はどうでもいい。  私はこの男を止めねばならない。……それだけは、間違いのない事実だ。

ともだちにシェアしよう!