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第5話
「ううっ、ひぐっ」
「うざってぇなオイ。いい加減泣き止めよ」
「お前なんかに靴紐の結び方教えなきゃよかった。踏ん付けて転んじまえ」
「頼んでねーのにテメエが勝手に教えたんだろうが、兄貴風吹かしてよ」
「兄貴が兄貴風吹かして何が悪いっひぐ」
「泣くかキレるかどっちかにしろよ!」
「キレてるのはそっちじゃないか……」
ピジョンが哀しそうに手首をさすっている。
靴紐を解いてやったのに礼も言わず、女々しくしゃくりあげながら鬱血した索条痕が取り巻く手首をなで、おぞましい体験の記憶と痛みの余韻を消そうと努める。どうでもいいが、オナホールは既に洗浄済みだ。
「いいだろ別に。オナホなんてオナニーと一緒、経験値にノーカンだ。泣くほどのことかよ」
「どこの世界に弟にオナニーを手伝わせる兄貴がいるんだよ……」
「オナホの持ち腐れはもったいねーじゃん。で、ご感想は?」
「いいわけない……」
「気分出してよがってたくせに。実は大人のオモチャ好きだろお前」
スワローがからかうもピジョンはムッツリ黙りこくって膝を抱えるのみ。
シカトかよと鼻白む。
まあ無理もない、それだけの仕打ちをしたのだ。
スワローは頭の後ろで手を組んで寝床に仰臥、天井の中央で緩慢に空気を攪拌する三枚羽の扇風機を漫然と眺める。
弟に犯されて傷心の兄にかける言葉もない。
『ジェラシーですかぁ?』
「……ちげーよ」
サシャの間延びした声が鼓膜に甦り舌打ち、忌々しげに反駁する。
最初は見るだけで済ますつもりだった。殴り込みをかけたのは想定外だった。
オナホを持参したのはピジョンをいじめるためだが、実際使うまでもない。ちょっとちらつかせるだけで面白い位びびりまくる、その様子を意地悪く観察して嘲笑う腹づもりだったのだ。
それが何故ガマンできなかったのか。
理由はわかってる。わかってるが認めたくない。
覗き穴に競うよう貼り付いて目撃した光景……ほぼ半裸のスイートに甲斐甲斐しくモッズコートを掛けてやるピジョン、オツムがめでたい同士お似合いの二人。傍目には仲睦まじいカップルに見えなくもない。
『大丈夫かスワロー!』
あの時と同じだ。
二年前、レイヴンに監禁された自分を最初に発見したのはピジョンだ。
あの時ピジョンは自分のコートを脱いで弟に掛けてやった、そしてもう大丈夫だと涙と洟水とその他の体液で悲惨なことになってるスワローの顔と体を丁寧に拭き清めたのだ。
それと同じ事を穴の向こうで、見知らぬ女にしてやっていた。
違うヤツの涙を拭いてやっていた。
ピジョンが女を抱くのは一向に構わない、そう高をくくっていた。
一生童貞じゃ可哀想だ、たまにゃアイツにも華を持たせてやれ。
それなのに二年前のおぞましい記憶が隣室の情景にだぶって、薄い肩を震わせてしゃくりあげるスイートと過去の己の残像がすりかわった。
なんであそこにいるのが俺じゃないんだ?
一体全体アイツはなにさらしてやがんだ?
まるで兄を横取りされたような……嫉妬?
認めたくない。
独占欲?
それはそうだ。
「……くそったれ」
自分の見てないところで勝手に女を拾ってくる位なら、世話してやるほうがマシだと開き直った。
アイツが女を抱くのを見てみたい出来心と、他のヤツを抱くのなんて許せない激情とが秤を揺らして、だったら最初から仕切ってやろうと極端に走ったのだ。
童貞を捨てたい?
ならイイ女を紹介してやる。
男になりてえ?
だったらイイ店に連れてってやる。
そうして何から何まで支配して思い通りにしなければ気が済まない、裏を返せばそれで初めて妥協できる、コイツが他の誰かとヤるのを渋々容認できる。
百歩譲って、女を抱くのはいい。お友達ごっこ?勝手にしやがれ。
だけどもあんな風に優しく触れるのは許せない、あんな風に優しくされるのは絶対譲れない俺の特権だったはずだ。
スタジャンの懐から取り出した煙草を咥え、ライターで火を点ける。
弟の喫煙をうるさく注意するピジョンが今は何も言わない、オナホを使われたのが相当ショックだったのだろう。
「……めんどくせぇな」
罪悪感じみてモヤモヤした霧が胸中に広がる。
スワローは億劫げに腰を上げ、足早に部屋を出ていく。
バタンとドアが閉じる。
牛柄が犇めく部屋に一人取り残されたピジョンは、生乾きのボクサーパンツを伸ばして乾かし弱音をこぼす。
「もうやだ……アイツと一緒に賞金稼ぎになるなんて無理だ……」
アイツは俺のこと血の繋がったオナホとしか見てない、さっきのでハッキリわかった。俺がどんなにアイツと張り合ったって意味がない、アイツは俺のこと兄貴なんて認めちゃいないのだ。
だったらなんで頑張るんだよ?
俺のしてること全部無駄だ、靴磨きや車の修理でちまちま金を貯めてるのもスリングショットを毎日練習してるのも全部アイツとの約束を守るため、将来の夢を叶えるためなのに、肝心のスワロー本人がこれっぽっちも相棒と認めていないじゃないか。
恥ずかしい。寂しい。虚しい。死にた……くはない。死ぬのは怖い。母さんを遺して逝けない。母に生活能力が欠落してるのはわかりきってる、一人じゃブラのホックだって留められない。
「なんでいつもこんな目に……俺、そんなおかしいこと言ったか……」
何度考えてもわからない、納得できない。
俺のしたことは間違っていたのか、アイツを怒らせるほど理不尽だったのか……どうしてもそうは思えない。
優しくしたら同じだけ優しさを返してもらえるなんて真っ赤な嘘、根も葉もないデタラメだ。
だけどもう酷くされたくない、痛くされるのはごめんだ。いやなんだ、怖いんだ、辛いんだ。こんなカラダじゃわかってもらえないけれど……
「……なんでアイツは、優しくしてくれないんだ」
真新しい手首の痣が疼くも、胸の痛みのほうがなお辛い。
悪いことばかりじゃない、スイートを守りきれただけよかったじゃないか。本気だったとは思わないけど、そこまで腐りきってるとは思いたくないけど、アイツなら本当にやりかねないし……
起こり得なかった最悪の事態を想起、自分を慰める。
唐突にドアが蹴り開けられ、スワローが戻ってくる。
「ほらよ」
「うわ!?」
シャカシャカと上下動で高速攪拌、腕を振り抜いて何かを投げる。放物線を描いて飛び込んできた容器を反射的にキャッチ、人肌のぬくもりに目を瞬く。セラミックの哺乳瓶だ。先端に乳首を模したおしゃぶりが装着されている。
「やる」
「……なにこれ」
「この店のウリ。哺乳瓶でミルクを飲ませるサービスしてんだとさ、聞いてなかったの?」
「……吸うの?」
確かに喉は渇いてるけど……。
「イヤなら飲まなくていい」
扱いに困って哺乳瓶を持て余す兄に鼻を鳴らし、ピンボール台に尻をのっける。気まずい沈黙が落ちる。
スワローは唇に吸いさしの煙草をひっかけたまま、退屈げに宙に足を蹴りだす。目をそれとなく背けているのはピジョンへの配慮だろうか。悩んだ末、哺乳瓶を抱え込んで試しに一回吸ってみる。
「……甘い」
口の中に滲み広がる甘く濃厚なミルクに、自然と顔が緩む。
15歳にもなる男が哺乳瓶からミルクを吸うのはどうなんだと、ご丁寧に突っこんでくれる人間はここにいない。普段その役目を果たすスワローは何故かそっぽをむいている。ピジョンはちゅーちゅーともう夢中で哺乳瓶からミルクを吸い腹を満たしていく。母の胸に抱かれおっぱいを吸っていた赤ん坊の頃を思い出す……覚えていないけどもう戻れないあの頃が懐かしい。
あらかた飲み干して腹がくちくなった頃合いにぷはと哺乳瓶から口を離し、手の甲で拭って訊く。
「……お前さ、俺のことどう思ってるの?」
また血の繋がったオナホと言われたらどうしようと不安がって凝視すれば、フリッパーで銀玉を弾きながらスワローがぶっきらぼうに呟く。
「穴」
「やっぱり……」
「穴は穴でも特別な穴」
「穴に普通も特別もないし意味がわからない」
「そこはわかれよ」
「わかるわけがない」
独りよがりがすぎるお前の気持ちなんて、わかるわけがない。
哺乳瓶を咥えてプイとそっぽをむくピジョンに、ピンボールで連続高得点を叩き出したスワローが惰性でフリッパーを操作しながらローテンションに訊く。
「ピンボールやる?」
「さっきした」
「俺とはしてねえ」
「友達とした。もうじゅうぶん」
「~っ、だからさあ!!」
激情に駆られて盤面のガラスを平手で叩けば、部屋中に震動が走る。拳だったらぶち割っていた。
ピンボール台に両手を突いて興奮に弾む息を整え、ピジョンから視線を切って壁を向く。
「……もういい」
「なんでお前が怒るの?怒りたいのは俺だよ?オナホで犯したの忘れてないよね??」
「わかんねーお前が鈍い」
理不尽だ。理不尽すぎる。ギリギリと哺乳瓶のゴム乳首を噛み締め、やり場のない怒りを耐え忍ぶピジョンをよそに、相変わらずピンボールで遊びながら、誰にともなくスワローがひとりごちる。
「……世の中に汚くねー穴はねえ」
その声があまりに虚無的で自暴自棄だったもので、おもわず振り向いてしまう。
「……大体さあ。ビッチかどうかって話なら、俺が一番そうだろ?」
「え?」
何を言い出したか理解できない。
銀玉の行方を虚ろな目で追い、ガラス面に映った己の顔を見、スワローがオレンジに光る煙草の先端を上下させる。
「なんでお前のほうが汚いって言い返さなかったんだよ?」
お前もそうじゃないかと。
他人の事をとやかく言えるのかよと。
その追認を引き出したくて挑発したのに、まんまと裏目にでた。
「…………」
わかってしまった。
なんでコイツが売女と吐き捨てたのか、あんな酷い憎まれ口を叩いたのか。
コイツはきっと、この店のどの子より自分自身が一番汚れてると思ってる。自分こそがとことん汚れきってると、そう思い込んでるのだ。二年前の事件から?それ以前から?とにかくずっと前から……
レイヴン・ノーネームを思い出せ。
自分がされたことを仕返し続けて身を滅ぼしたあの男を。
スワローはそうと気付かず自分の価値を軽んじている、自分を安売りして過去のトラウマを上書きしている、そんな自分が一番汚いと嘲っている。
からっぽの哺乳瓶を手に預け、ピジョンは途切れ途切れに言葉を返す。
「スイートは汚れてなんかない」
「はっ、お優しいこって」
ピジョンは大きく深呼吸し、冷静さを取り戻し、しっかりと芯を据えた声音で告げる。
「お前も。汚れてるなんて思ったこと、一度もない」
ボールがてんで当てが外れた方角に弾かれる。
盤面の外縁に埋め込まれた豆電球が疎らに点滅、すぐに停止。台と向かい合ったスワローがすぅと深呼吸―
「あたりまえだばーか!!俺はなァ、気持ちいいからヤッてヤッてヤリまくってんだよ変な深読みしてんじゃねーよ!!」
「はあ!?ばかって……お前のほうがばか、きわめつけのばか!!せっかく心配してやってんのにさ」
「相ッ変わらず目が節穴だな、そんなんでちゃんとしたオンナ選べんのかよ、先が思いやられるぜ」
「お前に心配されなくても誰を抱くかは自分で決める、弟に風俗おごらせるなんて兄として最低だろ!あっそこもうちょっと右だって、今だ」
「るっせえ口出しすんな、テメェがいちいち指図しなくたって好スコア出せんだよ、ピンボールマスターとかおだてられていい気になりやがって!!」
「それも聞いてたの……っていうかどこから聞いてのさ!?あっほらいわんこっちゃない、あ~あよそ見するから」
「うるせえうるせえうるせえ、あーっちきしょうしくったアレもコレも全部テメェのせいだ、テメェがうじうじぐだぐだぬかすから気が散るんだ!」
「キレたいのはこっちだよ、大体風俗店にオナホなんかもってくるなよそれ俺への誕生日プレゼントだろ勝手に持ちだすなよ貸し出し料とるぞ!?」
「気持ちよくしてやったんだからチャラだろが、哺乳瓶ちゅーちゅーやってたヤツが調子にのんな!」
「そこに哺乳瓶があったら飲むじゃないか、ほかに人がいたらやめるけどお前だし!!」
ピジョンのアドバイスにスワローが激高、ピンボール台を力任せに蹴りつけ殴りつけ暴れ狂う。結果的に二人で口論しながらピンボールをプレイするはめになったので当座の目的は果たしたといえる。
「ええっと……修羅場は一過しましたぁ?お取込み中なら出直しますが」
慎み深いノックと共に遠慮がちにドアが開き、ひょこっとサシャが顔を覗かせる。その下にスイートが顔を出す。
「ピジョンちゃんだいじょぶ?いじめられてない?」
「平気だよ、大丈夫」
「あ、それスイートのスイートミルク!おいしい?ねえおいしい?」
「ぶっ!?」
衝撃の事実が発覚、弟とスコアを競っていたピジョンが哺乳瓶を取り落とし盛大にむせる。
ドアを開け放って入ってきたサシャが、足元に転がってきた空の哺乳瓶を拾い上げ、自身の豊満な谷間にすぽっと収納する。
「不肖わたくしめもお手伝いしました、当店自慢の風俗嬢の生搾り母乳はいかがでしたでしょうか!?母乳はタンパク質と抗体が多く含まれ栄養満点、クリーミーでほのかに甘く喉越しさわやか、リピーターも大勢いるんですよ!」
「ピジョンちゃんが元気ないって聞いてスイートたーくさん搾ったんだよ、残さず飲んでくれて嬉しいなっ!スイートのおっぱいのんで早く元気になって一緒に遊ぼうね!あ、これ返すね~ありがとう」
なんてもの飲ませるんだよスワロー牛乳じゃないのアレ!声には出さず目で抗議すれば、スワローが悪びれずに言いきる。
「だって巨乳好きだろお前。栄養満点だし」
激しく咳き込むピジョンの背中をよしよしとなでさすり、モッズコートをふぁさっと羽織らせる。
今だ咳がやまぬピジョンの背中によりかかり、スイートが頬をツンツン突付く。
「ね、ね、おかわりいる?今度は直接吸う?」
「吸わないからもう間に合ってるからっ!ホントもういいごちそうさまお腹いっぱいおいしかった、スイートのミルクはソウスイートだったよ!」
「ピジョン様わたくしのミルクは」
「もうこれ以上ややこしくしないで!」
遂に堪忍袋の緒が切れて悲鳴を上げるピジョンの背中におんぶにだっこし、スイートが面映ゆげに笑み崩れる。
「ピジョンちゃんはやさしいね。さっきもスイートのこと心配してくれたんでしょ?」
「う……ん」
おもいきっり乳が背中に当たってる、乳首も当たってる!取り乱すピジョンの背中にへばり付き、モッズコートに頬ずりしながらトロンと蕩けきった少女が呟く。
「……でもいいの。スイート、これがお仕事だから。ピジョンちゃんが心配してくれたのは嬉しいけど……ピジョンちゃんみたいな人とときどき出会えるから、このお仕事きらいじゃないの」
「スイート……」
スイートがぴょんことジャンプしてツインテールをはねさせ、ハイテンションに踊り狂う。
「いたいのだってがまんする、お仕事ならへっちゃらだもん!それにねっピジョンちゃんがいっぱいおっぱい呑んでくれたからねっ、スイートのおっぱいはすごいって証明されたんだ!ピジョンちゃんもスイートのおっぱい飲んであっというまに立ち直ったんでしょ、それってすっごいことだよね、スイートはいっぱいおっぱいで人助けできるんだ!!スイートのおっぱいはスーパースイートでミラクルなんだよ、ひとを幸せにするおっぱいなんだよ、ここにいるピジョンちゃんが生き証人だよ!!」
ラズベリーの瞳を無邪気にきらきらさせ、両方の肘に挟んだ乳房をぎゅっぎゅっと圧迫して過激にアピールするスイート。一見あざといが、この行動に他意はない。喜び余っての奇行だ。
有頂天のスイートの隣、哺乳瓶を胸に挟んだサシャが優しく苦笑する。
「……まあ、うちは搾乳と授乳専門の女の子もいますからね。当面スイートちゃんはそっちでどうかなってオーナーに掛け合ってみます」
「本番しなくていいのかよ。だったら最初から言えよ」
「またまた~残念なくせにぃ?あ、それとも安心してるんでしょうか」
「あァ?」
サシャがススとスワローの隣に移動、呆然とするピジョンに意味深な流し目をくれる。
「可愛さ余って憎さ百倍と言いますが……お兄さんのこと、あんまりいじめちゃだめですよ?」
「いじめてねぇ。かわいがってンだろ」
「スワロー様の可愛がり方は少々過激だから愛情が伝わりにくいんじゃないでしょうか」
サシャの視線の先、すっかりピジョンに懐いたスイートが彼のコートにくるまって遊んでいる。その姿はまるで小動物、元気に跳ねるツインテールはしっぽのようでますます愛くるしさを印象付ける。
ピジョンの懐にちんまりおさまり、その両腕にぶらさがりながらにっこり微笑む。
「ねーピジョンちゃん」
「何?」
「スイートね、ピジョンちゃんのためにはじめてとっとくからまたきてね」
「えっ……」
「絶対だよ!約束だよ!」
ピジョンと仲良くじゃれあうスイートに舌打ち、不機嫌なスワローにますます密着して親指を立てる。
「……搾乳のお手並み、素晴らしかったです。今すぐここで働けます」
「……待て。マジで隣の部屋に……?」
ピジョンを脅かすデマが現実化するとは……いや待て、搾乳じゃねーだろ。搾ったのは別のトコの別のモンだろ。どこから突っ込んだものか、思いがけぬ展開に煙草をポロリと零すスワローに思わせぶりに微笑みかけ、その手並みを絶賛したサシャがスイートと頷き合い、互いの手を組んで合言葉を宣する。
「「おいしく召しませホルスタイン、巨乳専門店ミルクタンクヘヴンは絶賛営業中でーす!!」」
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