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第2話 繋がる

 満開の桜の下で大洋が笑っている。  たいよう、はいい名前だ。大洋でも太陽でもいい。壮大で明るい印象がある。  榎本大洋。高校一年生のクラス名簿にその名前をみたとき、彼はその響きを羨ましいと思ったものだ。字面だけでは男か女かもはっきりしない彼の名前とは正反対である。マサキをわざと「マキ」と呼んで、女みたいだとからかわれることもない。  名前だけでなく、外見もそうだった。彼より頭一つ高い身長や肩幅の広さ、しなやかな筋肉にも憧れた。  細面の優しい顔立ちをした彼は中学生のころ悪意をもつ一団に「マキちゃん」と呼ばれていた。相手は男女関係なく、大人しい彼に面倒な雑用を押しつけてくるのだ。高校に入学したばかりの彼はそんな風に扱われまいと決めていた。成績以外ぱっとしない、おどおどした優等生でいるのはもうたくさんだった。  だが、入学式の翌日から抜き打ちテストをやるような進学校では彼が恐れたようなことは起きなかったし、ときおり彼のことを「マキ」と呼んだのもひとりだけだ。  榎本大洋にそう呼ばれても、彼は嫌な気持ちにならなかった。むしろその呼び方を親しさのあらわれだと受け取った。大洋には彼のほかにも親しい友人が何人かいたが、彼だけは大洋と特別な時間を過ごしていた。少なくとも彼はそう信じていた。 「心筋梗塞?」 「はい、そう聞いています」 「それは大変だったね。亡くなるような年齢じゃないのに、残念です」  十月に入ったのにまだ汗ばむような天気だった。彼の家を訪れた近藤夏生は丸首の白いTシャツに濃いグレーの七分袖のジャケット、足首がみえる長さのパンツというスタイルだ。いかにもいまふうの若者で、玄関で顔をみたときの彼の最初の印象は「あまり父親には似ていない」だった。  ところが若者が「はじめまして。近藤夏生です」と名乗ったとたん印象は一変し、彼はめまいのような感覚に襲われた。はにかんだような目元や喋ったときの唇の動き、なによりも声が、二十代の榎本大洋そっくりだったからだ。  若者はトートバッグを下げ、彼の家を珍しいものでもみるようにきょろきょろと眺めていた。二階建てだが、彼は眠る以外の時間のほぼすべてを一階のリビングで過ごしている。週に一度ハウスキーパーを頼んでいるので、手を触れないようにいってある書斎の一角をのぞけばきれいなものだ。壁の半分は書棚が覆い、大きめのデスクにはパソコンとモニターがいくつか並んでいる。  彼は若者にソファをすすめ、コーヒーを出した。 「あの、ご家族は……」 「ひとり暮らしだよ」  相手の顔をみたせいか、自然にくだけた口調になってしまった。 「お仕事って何をされているんですか? 作家とか?」  まさか。彼は笑った。 「ただのサラリーマンですよ。近藤さん、このたびはご愁傷様です」 「あ、いえ。ありがとうございます」  若者は膝をそろえてソファに座ったが、足が長く痩せてみえたが、肩は張っていて、柔らかそうな素材のジャケットがよく似合っていた。猫背ぎみに体を傾けている姿勢も、どことなく雑誌のモデルのようだ。やはり父親に似てイケメンだ、と彼は思った。 「それで今日の用件だけど」 「はい。これなんですが……」  トートバッグから何が出てくるか。表情にこそ出さなかったが、彼の内心はざわついていた。若者は気づいた様子もなく、大判の封筒を取り出した。 「たしかに成海マキ――ごめんなさい、マサキさんのお名前ですよね」  七ケタの金額が打ち出された用紙に署名と印鑑が押されている。榎本大洋は成海真樹より金――を借用いたしました。素人が作ったままごとのような書面だが、署名の横の印章も割印もまだくっきりしていた。彼は日付をみた。 「出てきたのはこれだけ?」  若者は顔をあげた。あきらかに動揺している。 「あの、すみません。他にも……」 「ああ、何度か融通したんだ。これは最後の方だろう」  最初の時はここまでの大金ではなかった。あれも春だった、と彼は思い出した。大学三年になったばかりのころだ。  二年の後期試験が終わったあと、彼はずっと大洋に会っていなかった。連絡しても、いつも都合が悪いというのだ。四月になり、久しぶりにキャンパスで顔をあわせたあと、大洋は彼を誘った。そして彼がまだベッドにいるとき、いったのだ。 「みのりに子供ができてさ。もうおろせないっていうんだ」  彼は黙っていた。何をいえばいいかわからなかった。 「知ってるか? 子供産むって大変なんだぜ。むこうの親ともいろいろあるし、金もないし、ほんと大変」  本当におまえの子供かとたずねたくなったが、彼は何もいわなかった。大洋は悪びれた様子もなく、むしろ照れくさそうだった。  実のところ大洋がこんな男なのを彼はとっくに知っていたし、高校一年のころに抱いた憧れは自分が勝手につくった幻なのもわかっていた。あの瞬間わからなかったのは、自分が何を感じているのかということだ。感覚が麻痺したようになったまま、彼はやっと言葉をひねりだした。 「そうなんだ」 「おまえはこんな苦労、縁がないかもしれないけどさ、マキ」  最初の借用証はそのあとに作ったのだ。  彼の実家は裕福で、学費にも生活にも困ったことはなかったが、大洋の家がそうではないのはうすうす知っていた。だから高校生のころ、彼は小遣いを大洋のためによく使ったものだった。大学時代の彼は実家住まいで、割のいい家庭教師のアルバイトをしていたから、子供のころからの貯金もあわせ、学生にしては大きい金額を自由に使えた。大洋はひとり暮らしで、金がないは口癖だった。  それでも、あの時まで現金を貸したことはなかったはずだ。これで終わりか、とあの時彼は思ったのだが、そうはならなかった。 「すみません。たしかに他にもありました」  あの頃の大洋によく似た声がいった。 「ああ、二通作ったからね。この割印の片割れを押した方を僕が持っている。探せば出てくるだろうが」 「全部あわせると……かなりの金額になりますよね」若者はぼそぼそといった。 「そうだな」 「実は他にも借金があったんです」  彼の前で若者は思い切ったように話しはじめた。消費者金融やショッピングローンの請求がきたこと、相続放棄に期限があるのを知らなかったこと、あわてて一部払ったが、とても足りないこと。  さすが大洋だ、と彼は思った。 「電話でも話したが、これについては僕はもういいんだ。僕が貸したのは大洋であって、近藤さんじゃないからね」 「でもこんな大金、返さなくていいといわれると、逆に怖いんです」 「ああ、そういうことか。だったらそうだな……」彼はすこし考えた。 「全額とはいわない、気がすむまで少しずつ返してくれればいい。葬儀や相続は物入りだからね。マイナスの遺産があればなおさらだ。僕も何年か前にいろいろあったから、わかるよ。知らないうちに親が借金を作っていると動揺するだろう」  あとで考えるとこの言葉がトリガーになったのか、それともすべて計算ずくだったのか――若者は堰を切ったように身辺の事情を話しはじめた。 「そうなんです。よくわからない負債がいろいろ出てきて、死んだ祖父母の家も抵当に入っていて……」  どうやら大洋の両親も亡くなっているらしい。いま彼の前にいる夏生は、彼が最初に金を用立てた時の子供だ。夏生まれで夏生、だろうか。金を貸したのは春だった。そのあと彼は子供についてひとこともたずねなかったし、いつから相手の女性とつきあっていたのか、といったことも聞かなかった。  夏生は彼の内心にもちろん気づかず、父親の生前からのトラブルについてややこしい説明をしていた。そこには大洋や祖父母だけでなく幾人もの人物が登場し、彼はだんだん聞くのが面倒になった。  今日の訪問が想像していたこととかなりちがった、というのもある。夏生は借用証しか持ってこなかったからだ。父親とちがい善人のように思えたし、そう考えると子供に苦労だけ残して死んだ大洋に腹が立ってきた。 「大変そうだね」話の切れ目に彼はいった。 「そういえばお墓はどうしたの? 線香をあげに行きたいんだが」  そのとたん、夏生はひどく困った顔をした。 「まだ、ないんです。その、うちに来てもらうにも、部屋が荒れていて……」  こんな状況だから迷惑だということか。その気持ちも彼には察しがついた。自宅に骨と位牌、遺影を置いているとしても、故人の知人だというだけで人を――それも、債権者の可能性がある人間を迎えるのは気が重いだろう。  コーヒーは冷めてしまったが、夏生は口をつけていない。そのころには彼はこの若者をすっかり気の毒に思っていた。 「ちょっと待ってくれ」  彼は立ち上がり、デスクの向こう側へ行った。ただの白い封筒に札を重ねて入れる。 「ただの封筒で申し訳ないが」  コーヒーカップの横に置くと、夏生はぎょっとした表情になった。 「いえ、けっこうです。俺は返すべき方なのに」 「香典だよ。気にしないでくれ。その借用証も。僕は生活に困っていないからね」  夏生は神妙な顔つきになり、頭をさげて封筒をとり、トートバッグに入れた。冷めてしまったコーヒーを飲み、部屋をみまわしていう。 「本がいっぱいですね」 「ああ、趣味の本だよ」 「趣味?」 「投資をやってるんだ」  嘘ではなかった。書棚の本もパソコンもモニターもすべてそのためだ。彼の唯一の趣味といっていい。ギャンブルにはけっして踏みこまない健全なもので、株と投資信託を中心に中長期で安全な資産運用をしつつ、商品先物や為替といったリスクとレバレッジの高い短期取引もやって、それなりに利益をあげている。書棚に並ぶ本は経済学や不動産、農産物や原油関連そしてテクノロジーと、どれもこれも投資に関係するものばかりだ。  夏生は感心した表情で「すごいですね」といった。大洋とそっくりな声は思いのほか彼の自尊心をくすぐり、それから問われるままに株の面白さについて話した。 「どうもありがとうございました。あの、よかったらアプリで友達になってもらえませんか」  夏生がトートバッグからスマホを取り出すと、彼はうなずいて自分のスマホを出した。相手がパターンをたどってロックを解除するのを眺めながらアプリを起動する。大洋の息子は彼のスマホに「ナツ」と表示された。

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