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第3話 馴らされる
それきり、近藤夏生からは連絡などないものと思っていた。
若者を帰してから、彼はいつものようにデスクに座り、モニターで株や為替のチャートを眺めていた。グローバル市場は休むことをしらないから、日本が休日でも世界のマーケットは動いている。
画面に映し出された数字とグラフを追いながら、夏生は父親の債務について説明するという名目で来たのに、結局金を渡してしまった、と彼は思った。かつて大洋にも、彼は何度か似たようなことをしたような気がする。だが彼はもう二十代の若者ではないから、あの頃とは渡す金の意味もちがう。夏生は彼からみればただの子供だった。自意識過剰と自信のなさと、それに多少の狡さが透けてみえる、あの年頃特有の雰囲気――彼はそれをすこしうとましく、すこし羨ましく思った。
夏生は父親に似て外見がよく、人あたりもいい。ひょっとしたら、大洋とかかわった知人を訪ねては同情を買い、香典がわりに小金を集めているのかもしれない。
まあそれでもかまわない、と彼は思った。彼が封筒に入れた金額は香典にしてはすこし多かったかもしれないが、これで大洋が残した書類を忘れてくれる方が、彼としてはよかった。
彼は自分のことを善人とも悪人とも思っていなかった。しかし自分のなかに冷たい核のようなものがあって、意外な場面で他人を怖がらせてしまうのは知っていた。成海さんって親切ですけど、時々怖いです、と部下にいわれたこともある。人を冷静に判定しすぎる、というのだ。
それに、彼は職場では基本的に温厚な人間だと思われていたが、自分が所属する部局が理不尽な攻撃を受けたと感じると、相手が上だろうが下だろうが徹底的に対抗する癖があった。それも、自分ではそんな風にふるまっていると思わずにやってしまうのだ。そこまでしなくてもいいんじゃないか、と上司にいわれたこともある。
この冷たい核はいつ、彼の中に生まれたのだろう。思い起こすと、大洋と出会った時の自分はこんな人間ではなかったような気がするのだ。
モニターをぼんやりみつめていると、デスクに置いたままのスマホが震えた。
彼はびくっとして小さな画面に視線をうつした。「ナツ」からのメッセージだ。
『今日はどうもありがとうございました。いろいろ気にしていただいてすみません』
彼はすこし考えて返信した。
『こちらこそ会えてよかったです。大変だろうけど、元気でがんばってください』
すぐに「ありがとうございます」の言葉を添えたスタンプが返ってくる。犬がお辞儀している絵柄だった。彼はスマホを置き、それきりメッセージのことは忘れた。
ところが夏生からのメッセージはそのあとも定期的に届いた。挨拶と、お元気ですか? のひとことと、自分についての他愛ない近況――最近はコンビニスイーツにハマっているとか、ネットでこんな面白い話をみたとか――が付け加えられた、ひとつひとつは短いものである。彼は途惑ったが、年下の若者から届くメッセージに何も返さないのも居心地が悪く、よかったねとか、それはおもしろいねとか、適当に返事をした。
最初の何通かは不審に思っていた。最近の二十代はこんな風に年長者へ気軽にメッセージを送ってくるものなのか? しばらく考えたあげく、彼はひとつの答えを見出した。夏生は自分を父親代わりにしているのかもしれない。
そう思いついたころになると、彼はすっかり夏生のメッセージに慣れてしまい、逆に楽しみにするようになっていた。この数年間というもの、彼のメッセージアプリに届くのは企業公式のクーポンくらいだったが、今は親しげな会話がある。
大洋から連絡が来なくなったあとの数年、彼は他人とつきあおうとしたことが何度かあったが、いつも長続きしなかった。夏生からのメッセージは短かったが、そのころよりはるかに頻繁に届いた。
彼は会社の昼休みにも株価のチャート以外のことを気にするようになった。夏生からメッセージが届くと、ほのかに明るい気持ちがぽっとわきあがる。彼のそんな変化は平日顔をあわせる同僚や部下にも感じられるらしく、成海さん最近、前より優しくないですか? といわれたこともあった。
十月もおわりに近づき、ハロウィンの黄色いかぼちゃが街を飾るころ、夏生はこんなメッセージをよこした。
『今度、家に行っていいですか?』
彼は深く考えることもせず『どうぞ』と返した。何の用事かと聞くこともしなかったが、きっと父親の後始末について近況を話したいのだろう、くらいに思った。
日曜の午後、夏生は薄いコートを羽織って彼の家にやってきた。髪は前に会った時より伸びていたが、洒落たかたちに整えられている。張りのある肌をみて、彼はふと心が揺れるのを感じた。
彼は二十代のころの自分が好きではなかったから、若さに対して嫉妬するなど思ったこともなかった。あの頃より今の自分の方がずっといい。だが、コートを脱ぐときの夏生の指の動きやソファに座って長い足を組む動作には彼の胸の奥をくすぐるようなところがあり、そればかりかずっと忘れていた親密さへの期待を呼び起こした。
リビングに夏生を通しながら、彼はそんな自分自身に焦った。なんて馬鹿なことを思っているのか、と。
「ロールケーキを買っておいた」
彼は駅前のパティスリーの箱を開けた。
「夏生君、栗は好き?」
近藤さんではなく、名前を呼んでいた。「ナツ」のメッセージに慣れすぎたせいだが、彼自身も気づかないうちに、自然に出てしまったのだ。
「はい、好きです」
はにかむような笑顔と共に白い歯がこぼれる。
「成海さんも甘いもの、好きなんですか?」
「嫌いじゃないけど、好きっていうほどでもないかな。ほら、コンビニスイーツのことを書いていただろう? 好きなのかと思って買っておいた」
「俺のためですか? すみません」
「たまには目先が変わっていいと思っただけさ」
彼は弁解がましくいったが、夏生がいそいそとフォークを持つのをみると嬉しかった。子供がいるとこんな気持ちになるのかもしれない。
「あれからどう?」
「ええ、最近は――」
彼がたずねたのは、前にここで聞いたトラブルのその後の展開についてだった。しかし夏生の口からはその話はほとんど出なかった。そのかわり、仕事(どうやらコールセンターで働いているらしかった)で遭遇した厄介なクレームや、アパートの隣人の話などが続いた。最初は肩すかしを食らったような気もしたが、彼はいつしか夏生の話を楽しんでいた。声のせいかもしれない。
「マキさん――」途中で夏生がそういいかけ、しまった、という顔をする。
「すみません。ほら、成海さんのアイコン、真樹って漢字が出てるでしょう?だからつい――」
「マキでいいよ。大洋もそう呼んでいたな」
夏生はこの前とおなじようにソファに座っていたが、真ん中ではなく、右端に寄っていた。足をくみかえたとき、斜向かいに座った彼の脛に一瞬、足先が触れた。
「マキさんって、父とはどんな関係だったんですか?」
夏生がたずねた。彼はあっさり答えた。
「友達だよ」
「でもふつう……友達同士でお金貸したりしないですよね?」
「まあ、ふつうはそうだね」
彼は特に表情を変えたりしなかったはずだ。
「でも大洋の場合は……何しろ長いつきあいだったから」
夏生はふいに背筋をのばし、体を前に乗り出した。右手がのびて、ソファの端をつかむ。端正な顔が彼のすぐ近くにくる。
「マキさんは父とすごく親しかった。そうですよね?」
「何がいいたい?」
「俺がいいたいのは……」
夏生の右手が彼の左膝をかぶせるようにつかんだ。
「単なる友達じゃなかったってことです」
「夏生君」
彼の声はこわばっていた。膝にかかる手を外したい。そう思うのに、なぜか体が動かない。
「僕と大洋がなんだろうと、今さらきみに――」
「ちがうんです」夏生は彼の膝をつかんだままだ。
「そうじゃなくて、俺は……くやしくて」
膝にかかった手が離れた。ところがすぐさま思いがけない強い力で腕をひっぱられ、彼は無様な姿勢で夏生のシャツに顔をくっつけている。
「夏生君、何を」
「父はマキさんを捨てたんですか?」
「そんなんじゃない」
顔をあげようともがいたが、背中にまわった夏生の腕が彼をがっちりホールドしている。シャツに隠れた腕が想像より太く、力強いことに彼は焦った。
「最初は女の人かと思ったんです。でもちがった。会ってわかりました。マキさんは……俺と一緒だ」
耳元でささやかれて、背筋にぞくっと震えが走った。
「夏生君! 離してくれ。君は大洋の子供なんだ。そんな――」
「おやじの子供だから、嫌?」
その声があまりにもそっくりで、彼の体から一瞬力が抜けた。夏生はソファの上で彼に覆いかぶさっている。布越しにつたわるぬくもりと重なった太腿にいつもは無視している欲望が疼き、彼の抵抗は弱くなった。
「前にここに来たあと、俺、困ったんです」
「夏生……くん、」
のしかかる男の体温と人肌の匂いでいやおうなく股間が昂ったが、布の上から触れる手を感じたとたん、体をよじって逃れようとした。しかし大洋とおなじ声が顔のすぐそばでささやくのだ。
「マキさんのことがすごく……すごく気になって……」
「やめ……そんな……」
彼の声は夏生の唇に飲みこまれて消えた。股間を探る手がファスナーをさげ、敏感な部分をそっとつかむ。何もかも熟知したような手が彼を覆い、しごきはじめると、感覚が一気にそこへ集中して、抵抗どころではなくなってしまう。
(ほら、マキのここもデカくなったぜ)
(大洋――もうっ、やめ……)
(気持ちいいだろ?)
(いいけど、あっ、あっ……出るっ)
「……あっ、夏生君っ」
「大丈夫だから」
舌がぬるりと彼の耳をなぞる。股間をまさぐる手は止まらず、彼を追い上げていく。
「んっ、あっ、あっ――」
気がつくと彼はソファに横たわって、手にうけとめた彼の精の匂いを嗅ぐ夏生を呆然とみていた。
「マキさん、トイレ借ります」
彼が立ち直るまえに若者はその場に立ち、リビングからすたすたと出て行く。
「夏生君……」
彼は体を起こし、みっともなくさらけだされた股間に赤くなって、ティッシュを探した。ごそごそと身支度を終えても、まだ立ち上がる気分になれなかった。
他人の手でいかされて――こんなの、高校生のときの……。
脳裏に桜の花がよみがえる。はじめて大洋とそんな関係になった頃だ。高校二年生だった。あのときの大洋は優しかった。
「マキさん」
リビングの入口から声が響き、彼は弾かれたように立ち上がった。
夏生はコートを腕にかけていた。
「今日は帰ります」
「夏生君、」
彼は何といえばいいかわからないまま夏生の背中を追った。もう靴を履いている。
「マキさん、また会いたいです」
もう来るな。連絡もするな。
彼はそう告げるべきだったのだ。
それなのに、いえなかった。
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