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第4話 馴らす

 どう考えてもおかしなことが起きている。夏生はもちろん、彼自身もそうだ。のしかかられてろくに抵抗できないとはなんだ。いったい大洋の息子は何を考えているのか。死んだ父親に含むことでもあるのか。  よく眠れないまま朝を迎えると、夏生からメッセージが来ていた。 『ごめんなさい』  画面に浮かんだ言葉を彼はスワイプして消した。今後どんなメッセージが来ても無視することにしよう。彼は無防備になりすぎていたし、夏生の相手をしすぎていた。スマホをできるだけ気にしないようにしながら、彼は出勤した。 『俺は本気なんです』  昼休みにスマホをみると、今度はそう表示されている。  彼はついアプリを起動してしまい、相手に既読通知が行くことを思い出して、しまったと思った。ブロックすればいい。一度そう考えたものの、これまでのメッセージを眺めていると、指が動かなくなる。これまで夏生がよこしたメッセージにはたいした内容はなかった。それなのに、夏生が送ってきたどうということのない日常の話題が自分をどれだけ慰めていたのかに気づいて惜しくなる。  彼はそのままスマホをポケットに戻し、仕事に戻った。一日を終えるといつもどおりまっすぐ家に帰り、ひとりの夕食を準備する。食べおわるといつものように風呂に入り、その後はいつものようにモニターの前に座った。  株や商品相場の値動きをチェックし、ニュースやブログを読むのが彼の夜の日課だ。暗号通貨やNFTといった最近流行りの投資対象も調べていたが、ギャンブル性が強すぎる気がして、彼の好みにはあわなかった。一段落するとキッチンへ行き、ココアをいれてリビングのソファに座った。  肉親が亡くなる前はひとり暮らしをしていたから、家事や炊事は慣れたものだった。親が入院しているあいだに借りていたマンションを出て実家に戻り、そのまま暮らしている。  家は広いが住みやすいわけではない。実家だから馴染んでいるというだけで、古くてあちこちガタが来ているが、場所がいいので土地には価値がある。  家を売って新築マンションを買おうと考えたこともあった。何についてもまず勉強から入る彼は、この時も不動産について何冊か本を買った。が、売買や評価に関する豆知識が増えるのと反比例してやる気が目減りし、今もまだこの家に住んでいる。  両親が使っていた家具のうち不要なものは処分したし、住みやすいように模様替えもした。だが彼が座る革張りのソファは昔からあるものだし、二階の寝室も、家具こそ変えたとはいえ、彼が十代のころから使っていた部屋だ。  榎本大洋は両親が留守のとき、何度かこの家に来たことがあった。  彼はぞくっと体を震わせた。大洋は死んだのだ。彼はもう大洋を忘れていいはずだ。だいたい、大洋は死んでいなくてもとっくに彼を忘れていただろう。十年は連絡がなかったのがその証拠だ。それなのに同じ声をした息子が、ここで――  ポケットでスマホが振動した。  彼は操られたようにメッセージアプリをひらいた。今回の夏生のメッセージは挑発的だった。 『おやじは何をしたんです?』  彼は無言で画面をみつめていた。 『俺、いま左手でスマホ弄ってます。右手で何してると思います?』  彼は思わず画面をタップした。 『からかうのもいいかげんにしろ』 『からかってません』  テーブルで半分残ったココアが冷めている。彼はスマホの画面を睨みつけていた。 『俺いま、マキさん想像して抜いてます』 『ふざけるな。やめてくれ』 『やめてほしいんですか? 俺の手でイっちゃったのに』  ただの文字なのに、声がきこえたような気がした。  落ちつかない動物のように彼は立ち上がった。スマホをテーブルに置いたままリビングの電気を消し、歯を磨いてベッドに入ったが、昨日と同じように――いや、昨日とはちがう意味で眠れそうにない。彼は横になったまま背中を丸め、右手を動かしはじめた。 (マキはされるのが好きだもんな)  大洋の声がきこえるような気がして、背中にのしかかる重みを錯覚する。だがそれはすぐに夏生に、ソファで彼を押さえつけた男の体に変わり、彼の昂ぶりをさらに追い上げた。  翌日も夏生のメッセージは届いた。  今度こそ彼は無視しようと努力した――が、長くは続かなかった。 『マキさん、話があるんです』  置きっぱなしのスマホの上に文字が並ぶ。 『おやじ、写真とってましたよね』  すっと背筋が寒くなるような気がした。同時に、やっぱり、という思いも浮かんだ。  そもそも夏生が最初に連絡してきたとき、彼の頭に最初に浮かんだのはこのことではなかったか。 『家には来るな』と彼は返信した。『外で会おう』

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