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「っ咲良、後ろ・・!」  朝日に名前を呼ばれたのもつかの間、振り返ろうとすると、後ろから伸びてきた那智の手にパシッと手首を取られるのだ。  恐る恐る顔を後ろに向けると、俺の手を取った那智がこちらに向かって微笑んでいるのだ。 「ほら、咲良、あいつに見せ付けてやろう。大丈夫、優しくしてあげるからね」  そう言っている那智の掴む手には、力が入っていた。これは、嘘だ。優しくなんて言っているが、徹底的に、朝日の前で犯すつもりだ。  すると、那智は後ろから俺を抱き締めるのだ。 「っ、やめろっ・・・!」 「朝日に毒されて、可哀想に・・。俺が、上書きしてあげる。俺達が愛し合うところ、彼に見せてやろう、咲良」  目の前には、大好きな朝日。  今から俺はそんな朝日の前で、犯されるというのか。  するっと伸びた手が、下腹部に触れる。  ぴくっと肩が揺れると、目の前にいる朝日は咲良、とこちらに手を伸ばそうとしてくるのだ。  すると背後にいる那智は朝日、と冷たく名前を呼ぶと、俺に伸ばしかけた手はピタッと止まった。  ーー絶対そうだ。朝日は那智に、弱味を握られている。だから、逆らえないんだ。  俺がいる限り、朝日は傷付くことになる。俺がいることで今、こんな状況になっている。  大好きな人の悲しむ顔を見たいなんて奴は、いるはずがない。  そして、それは俺も同じだ。  ーー俺が、いなければ、  考えるより先にポケットにお守り代わりに入れていた物を取り出し、カチカチっと刃を引き出すと、自らのどくどくと脈打つ首に冷たい刃を当てるのだ。  すると、目の前の朝日の顔がより一層青白くなり、俺を抱き締め下腹部をまさぐっていた那智の手が、ピタッと止まる。 「さ、くら・・・・・・?」  那智は、俺の暴走を止めようとしているのだろう。カッターを握る俺の手を震える手で掴むのだ。 「ーー那智先輩、離してもらえませんか」  背にいる那智を見上げると、表情が硬直していた。カッターを首に当てている俺の手首を掴む那智の手には、じんわりと汗がにじんでいる。  カッターを持っている手をぐっと内側に入れようとすると、反発するかのように、那智の手に力が入るのだ。 「・・離してくださいって、言ってますよね」 「咲良、一旦、それを置いてくれないか、傷が付いてしまう・・、」  すると那智は震える声で俺に声を落とすのだ。離せと、何回言えば分かるのだろうか。  俺だって、こんなことしたくないに決まっている。  ・・でも、朝日が傷付くくらいなら、俺の命なんてこれっぽっちも惜しくない。それだけ朝日のことが、どうしようもなく好きなんだ。 「なあ、咲良・・・」 「っ・・、離せって、言ってんだろ・・・ッッ!!」 「咲良・・・っ!」  目の前の大好きな朝日が、俺の名前を呼び、こちらに手を伸ばす。  ごめん、朝日。俺は、その手を取ることはできないんだ。お前が苦しむところは、見たくない。  もっと一緒にいたかったし、もっと一緒に笑い合いたかった。でも、こんな俺といたら、お前は不幸になるだけだろう。  なら、少し寂しいけど、お前は他の、普通の奴と、幸せに・・・  ーーああ、それもちょっと、嫌だな。  俺が、朝日を幸せにしたかった。  視界が涙でにじむ。やめてくれ、朝日の顔が見えない。最後くらい、愛おしい顔を目に焼き付けておきたいんだ。  那智に掴まれている手にぐぐっと力を入れると、冷たい刃が首に埋まる。柔らかい皮膚に、どんどん埋まっていく。薄い皮膚を突き抜けるピリッとした感覚が走ると、まもなく死ぬ、という実感が湧いてくるのだ。 「ーーーごめん、朝日」  目の前の朝日に向かって震える声で、今までありがとう、と呟いた。  ちゃんと、聞こえただろうか。口の形で分かったかな。もっと大きい声で、言いたかったのに。  すると俺よりも強い力で、那智は俺の手を引くのだ。 「っ、この・・・っ!」  俺も掴まれている手に、思い切り力を入れた、その時だった。  那智に手首を掴まれていたことによりカッターの焦点がずれ、ピリッとした痛みが頬に走った。  カシャンッと、カッターが音を立てて床に落ちる。  掴み合いになった俺と那智はバランスを崩し、互いに転倒してしまった。  頬が、ビリビリする。指先で触れると、指には血が付いていた。  恐る恐るカッターを当てていた首を撫でると、こちらも少し血がにじんでいただけだった。 「咲良・・!!」  尻もちを付いたままの手を、ぐいっと引かれる。見上げると、大好きな朝日の顔があった。  目の前では、俺の頬が切れたからだろうか、那智が動揺しているようだった。  朝日は俺の手を引き、立たせると、 「咲良、走るぞ!」 と、俺の手を引くのだ。  朝日に手を引かれるがまま、廊下を走る。朝日の手の感触を確かめるように、繋がれている朝日の手をぎゅっと握ると、こちらにゆっくりと顔を向けた朝日は、ごめん、とぽつりと呟くのだ。 「朝日・・・」  朝日のその小さな声は、震えていた。 「謝って済むことじゃないのは分かってる・・・。俺は、お前に最低なことをした。許してもらえるとは思ってない。どうか、償わせて欲しい」  俺は、朝日に捨てられ、嫌われたと思っていた。もう、朝日に名前を呼んでもらえることはないと、思っていた。  朝日に生徒会に売られたと知った時はショックだったし、悲しかった。  でも朝日は今、ここにいて、俺の手を握ってくれている。那智から俺を助けに来てくれた。それだけで、十分だ。 「・・・じゃあさ、」  朝日の目をじっと見つめると、朝日もこちらと目を合わせ、俺からの言葉を待つのだ。 「ーーもう、離さないで。約束してくれるなら、許してやる」  俺からの言葉が意外だったのか、朝日は目を見開いた。そして、もちろんだ、と俺の目をしかと捉えるのだ。 「もう、離さない。ずっと一緒だ、咲良」  ずっと欲しかったその言葉に、込み上げてくる涙が頬を濡らすと、朝日は指の腹で優しくその涙を拭うのだ。  すると、朝日の視線が少し下に向く。今も尚、血がにじむ頬を指でなぞってみると、やっぱり少し痛かった。  この傷の入った顔と共に、俺の体も、随分と汚れてしまった。 「・・・俺、もう、朝日に綺麗だって言ってもらえないかな」  ぼそっと呟くと、俺の手を掴む朝日の手に力が入る。 「バカだな」  ぱっと朝日を見ると、俺の目を捉えた朝日の目が、こちらに向かって優しく微笑むのだ。 「お前は綺麗だよ、咲良」  ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、また目頭が熱くなった。  それを悟られないよう顔をふいっと背け、頬を拭うと、朝日はもう片方の手で俺の頭をくしゃっと撫でるのだ。  これから、どうなるのだろうか。  この学校の絶対的な権力者、生徒会長である那智に逆らった俺達は、おそらくもう、この学校にはいられない。  ーーでも、もういい。  朝日がいるなら、一緒なら、何だっていい。  二人なら、きっと、大丈夫。

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