1 / 27

第1話 黒い琥珀

 裏街で黒い琥珀に出会ったらおしまいだ。  香港の街に潜むマフィアたちの間で、そんな噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。  いつから、誰が言い出したのかわからない。  裏切り者が今際の際に放った言葉が元だとも、薬漬けになった者の妄言だとも言われているが、真偽の程は定かではない。  黒い琥珀を見たものは、翌朝死体で見つかるという。  それを裏付けるように、時折、裏街では死体が見つかった。  マフィアの末端の構成員、薬の売人、会社員に警察官。見つかる職業はバラバラ、殺され方もそれぞれ異なった。  ある者は頭を撃ち抜かれ、またある者は首を折られ、毒殺された者や首を真横に裂かれた者もいた。  しかし、黒い琥珀の姿は、まだ誰も見たことがなかった。  それがまた、会ったらおしまいということの信憑性を高めていた。  そうやって、何者かもわからないまま、黒い琥珀への畏怖はじわりじわりと裏街に広がっていった。  真夏の夜。香港、九龍エリア。  夜が更けても残る熱気と共に、温い湿気を孕んだ風が肌に絡みつく。  それはざわめきの溢れる大通りを抜けて裏通りに入っても変わらない。むしろ裏通りに入れば、湿度は濃くなったような気さえする。  建物の狭間に見える空は狭く、街の明かりに薄められて星の光も見えない。代わりに、表通りから漏れる眩いネオンがうっすらと闇を照らしていた。  裏通りに観光客の姿はほとんど無く、人通りは疎で、深夜ともなればこの辺りの住人といえどこの界隈を彷徨く者はごく僅か。出歩くのは余程の物好きか、急用がある者くらいだった。  街の浄化は進めど、未だ裏街には澱みのように裏社会が息づいていた。  非合法な薬の売買や売春の斡旋、人事売買など、マフィアによる違法な取引が後を絶たない。  そんな裏通りにある、古びた建物の安宿。長くこの通りに佇む建物は、界隈では売春宿で有名な宿だった。  その中の一室。蛍光灯のちらつく薄暗い部屋。内装はところどころ汚れたり剥がれたりして、湿気を帯びた空気はかび臭い。ヤニで黄色くなった空調がごうごうとうるさく鳴って冷たい風を吐き出している。  年季の入った薄いマットレスの上に、仰向けに横たわる肉付きのいい中年の男と、もう一人。中年男の胸の辺りに跨る若い男の姿があった。  中年男の両手は後ろ手に縛られているのか、体の下に隠れている。口にはタオルを雑に丸めたものを突っ込まれているせいで、先程からくぐもった音がわずかに漏れるばかりだった。  どう見ても、そこに甘い空気は見えない。  下の男はそう言ったものを期待していたのかもしれないが、上にいる若い男はそう言ったつもりは毛頭無かった。  歳は二十歳そこそこ。青年というには華奢な体躯に、少年の面影の残る横顔と薄い唇。髪は艶のある漆黒でちらりと覗く耳には無数のピアスが煌めく。  黒いキャップに、オーバーサイズの黒Tシャツ、黒のハーフパンツ。首、腕、脚には植物モチーフの刺青がびっしりと彫られている。足元は流行り物のハイカットの黒いスニーカー。  ラウンドのサングラスの向こう、気の強そうな琥珀色の双眸には、眼下に横たわる中年の男の恐怖に歪む顔が映っていた。  手の甲まで刺青の施されたその手にはサイレンサー付きの自動小銃が握られ、銃口は横たわる中年男の額に向けられていた。  青年は、自分の下で怯える彼が何をやったのかは知らない。ただ殺せと言われたから殺す。それだけだった。  男が自由の利かない身体で身動ぎする度、マットレスが重たく軋み、タオルに阻まれた声が漏れる。  冷たい銃口が額を小突くたび上がる籠った悲鳴は容易く掻き消え、部屋の外まで届くことはなかった。  男の額に冷たい銃口が押しつけられた。額の肉に押し付けられる冷たい金属の感触に、それが玩具でないことを知っている男の目には、涙が浮かぶ。  引き金に掛かった痩せた指に、力が込められる。  青年は躊躇いなく引き金を引き、破裂音が狭い部屋に響いて消えた。  訪れた静寂に、硝煙の香りに混じって生臭い血の匂いが舞う。  下にいる男の呼吸と脈がなくなったのを確かめて、青年はベッドを降りた。  青年の名はユーシー。この街で暗躍する殺し屋だった。  午前零時を過ぎても、街は静まる気配を見せない。  目を覚ました夜の街には色とりどりのネオンが煌めいている。ユーシーは人の往来の絶えない大通りを足早に抜け、歓楽街のはずれの古びたマンションに入っていった。  エレベーターで上層階へ向かい、フロアの一番奥のドアの前でユーシーは足を止めた。  備え付けの呼び鈴を押すと、ややあってドアが開く。 「早いな」  切長の冷たい目に短い黒髪の男が出迎えた。涼しげな顔立ちの、神経質そうな男だった。歳は三十前後といったところだった。男はユーシーを招き入れ、奥の部屋へ案内した。  通されたリビングは革張りのソファにローテーブル、他には申し訳程度に観葉植物が置かれた殺風景な部屋だった。  ユーシーは言われるでもなくソファに座りサングラスを外すと、ポケットから弾の減った自動小銃を取り出してテーブルに置く。 「終わった。三〇一号室」  仕事終わりの報告だった。  短髪の男は胸ポケットから取り出したスマートフォンを操作して、またすぐにポケットにしまうと、席を立って傍のキャビネットを開け、中から茶封筒を二つ取り出した。  仕事の依頼人は彼だった。 「今日の分と、次の分の前金だ」  テーブルの上に封筒が二つ差し出される。 「ありがと」  礼を言い、ユーシーは封筒の中身を確認してポケットにしまう。 「立て続けで悪いが、次の仕事だ」  続いて写真が一枚差し出される。写っているのは、三十代くらいの痩せた男だ。 「名前はウー・シンファ。体格はお前くらい。この辺りを住処にしてる薬の売人だ。行きつけはシン婆の店で、ここのところほぼ毎日顔出してる。時間は夜九時から十一時。期限は五日。できるか?」  ユーシーは差し出された写真を手に取った。臆病そうな顔の男が写っている。  殺す理由や何をやったかは教えてくれないが、必要な情報は大抵教えてくれる。たまに場所や殺し方まで指定されるが、ユーシーにしてみれば大した問題では無かった。 「うん、大丈夫」  ユーシーが頷く。  行動範囲がある程度決まっているなら、五日有れば遂行は可能だと判断した。 「獲物はいるか?」 「このあたりなら、無しでなんとかする」  受け取った写真をポケットにしまう。  狭い裏路地なら、銃はない方がやりやすかった。  銃器にナイフに体術。ごくたまに薬も使う。 「頼もしいな」  ふと表情を緩めた男は、何か言いたげなユーシーの視線に気づく。 「……なんだ?」 「なあ、ジン、いつものして」  ユーシーの琥珀色の瞳が熱に浮かされたように揺れる。ジンと呼ばれた男は眉をわずかに寄せた。 「お前なぁ、抜いてから来いっていつも言ってるだろうが。また新しいオモチャが必要か?」  受け取った銃の状態を確認して近くのキャビネットにしまうと、ジンはユーシーを一瞥する。  ユーシーは視線を外さない。 「ジンがしてよ」  目を逸らしたジンからはあからさまな舌打ちが聞こえた。 「来い」  立ち上がったジンに手を引かれ、釣られて立ち上がる。ユーシーはバスルームに連れ込まれた。  ジンは裸足になり、腕捲りをしてユーシーの服を一枚ずつ剥ぎ取っていく。  ユーシーの首から下には、白い肌に黒一色で植物と幾何学模様が描かれていた。  時間をかけて刻んだ刺青は、うねる蔦の図案とそれに絡む幾何学模様が描かれ、レースのように繊細に肌を彩っていた。臍に光る銀色のピアスがアクセントになっている。図案は両腕、腰の下まで続き、果ては手の甲、足の甲まで丁寧に描かれている。  柄の隙間に見える白い肌は、対比のせいもあり透けるような白さだった。  裸になったところでバスタブの中で頭から温かいシャワーを浴びせられ、ジンの手で丁寧に全身を洗われた。  硝煙と血の匂いに染まっていた嗅覚まで、石鹸の匂いで洗い流されていく。  ボディソープの泡が全て流れ落ちると、ユーシーは言われるでもなくバスタブの縁に両手をついた。  痩せた臀部をジンに突き出すような格好になる。  ジンは利き手の左中指に指用コンドームをつけた。 「使ってねーのか?」  ユーシーの双丘の間にある窄まりをジンの骨張った指がくるりとなぞった。 「ん、今日は使ってねーよ。準備はしたけど」  標的を誘い出すため、隙を作るため、場合によっては身体を使うこともある。年齢より若くみられがちなユーシーは、整った顔立ちも相俟って若い男子を好む相手には受けがいい。場合によっては女装もする。  気乗りしないが、その方が手っ取り早いこともある。幸い、今回はその必要はなかったが。 「そうか、それなら何よりだ」  ジンの返事は特に興味もなさそうな返事だった。  ひくつく窄まりへ、ジンの指がゆっくりと埋まっていく。 「ん」  ユーシーが思わず声を漏らす。骨張った長い指がゆっくりと根元まで入って、抜けていく。仕込まれたローションが、戦慄く窄まりをてらてらと光らせていた。中を確かめるだけの動き。それだけでユーシーの身体は歓喜してジンの指にしゃぶりついた。  ジンが指からコンドームを外す音がして、ユーシーは頭からバスタオルを被せられた。 「ユーシー、こことベッド、どっちがいい」  バスタオルでユーシーの髪を拭きながら、ジンが聞く。 「ん、ベッド」  タオルの隙間から見上げると、ジンは笑った。  ユーシーがご褒美にねだったのはセックスだった。  いつからか、仕事の後、ユーシーは熱を持て余すようになっていた。はじめのうちは自慰で治めていたものの、それは徐々にエスカレートして、今ではセックスでなければ満足できなくなっていた。  ジンに女をあてがわれたこともあったが、後孔で味わう快感を覚えてからは女相手では物足りず、ひとりで玩具で慰めるか、報告ついでにジンを付き合わせるのがお決まりの流れだった。  ユーシーに自慰を教えたのも、セックスを教えたのもジンだった。教えはしたものの、そのまま自分が相手を続けることになるとは思っていなかったようだが。  ジンは乗り気ではないが、原因となる殺しを依頼している責任からか、余程のことがない限りは相手をしてくれる。  神経質で、いつも気怠げで、文句を言いながらもユーシーに付き合ってくれるジンの、時折見せる嗜虐性が気に入っていた。

ともだちにシェアしよう!