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第4話 路地裏にて
繁華街の片隅にある小さな食堂、藍真粥店。
ジンの馴染みの食堂で、ジンに拾われて間もないユーシーが手伝いをしていた店だった。店主はシン婆と呼ばれる老女で、店のメインメニューには中華粥が並ぶ。ガイドブックにこそ載らないが、観光客や地元の人間で客足が絶えることはない。
食事時にもなると、席はほぼ埋まってしまう。夜も、この辺りの住人が入れ替わり立ち替わりやって来て、店は賑やかだった。
ユーシーは入り口寄りの隅の席で唐揚げを齧りながら、お気に入りのサングラスをずらして店内を眺めていた。
ルーズなシルエットのチャイナシャツに、ハーフパンツ、スニーカー、黒いキャップにサングラス。
今日のユーシーの仕事着だった。多少血がついてもいいように、仕事の時は暗い色の服が多い。夜の街で活動するにはその方が都合が良かった。
壁に掛かった年季の入った時計は十時を回ったところだった。
店内に、写真の男が姿を現した。
服装こそ違うが、顔は写真と同じだった。背を丸めて入ってきた男はカウンター席に案内され、脇目も振らずにカウンター席に着く。
ユーシーはまた一つ唐揚げを齧り、席に座った男の後ろ姿を視界の端で観察した。ひょろりとした痩せ型の体躯に黒髪、背丈はユーシーと同じくらいだろうか。
男の入店から三十分後、食事を終えた男が席を立つ素振りを見せたので会計をすませ、店を出る。
ユーシーは店の前からずれた場所で男が出てくるのを待った。
男はすぐに出てきた。ユーシーは静かに男の後を追う。気付かれないよう一定の距離を空けて、通りを歩く。やがて男は脇道に入っていった。
隠れ家か、宿だろうか。
ユーシーも男に続いて脇道に入る。
ネオンも街灯も少ない通りは人も少ない。街の喧騒は遠くなるばかりだ。
男はまた、道を曲がる。通りは先ほどより狭くなった。
ユーシーは歩調を早めた。足音を殺して、男に近づく。
あと数歩の距離まで近づいたところで、声を掛けた。
「なあ、あんたがウー・シンファ?」
男が振り返る。
ユーシーの目を見た途端、男は短い悲鳴を上げた。琥珀色の双眸に、恐怖に引き攣った顔が映る。
男は後退り、走り出した。
ユーシーはその背中を追う。
逃げ出した、ということは当たりだろう。
通りを進むにつれ、青黒い夜の闇が深くなる。
ネオンの光の届かない裏路地に、男の荒い息が反響する。
人がやっと通れるくらいの狭い路地を、男は足をもつれさせながら走る。配管やらゴミやらが邪魔をして、全力疾走できる箇所は少ない。
それでも文字通り懸命に走る男は、いよいよ躓いてバランスを崩し、地面に転がる。
起きあがろうとついた手をスニーカーに踏みつけられ、男はうめきを漏らし、視線を持ち上げる。
色濃い闇に浮かぶ、琥珀色の目が見えた。その目には、なんの感情も見えない。
瞬間、顎に鈍い衝撃が走る。
蹴られたのだと認識すると同時に、脳が揺れ、男は再び崩れ落ちた。
裏路地に迷い込んだら最後、この街の裏路地を知り尽くしたユーシーから逃れられるものは少ない。
脱力した男の頭を抱え、力を込めると、鈍い音がした。
首を折られた男の体が地面に倒れ込む。その身体は再び動くことはなかった。
息が無いのを確認して、ユーシーは踵を返し、音もなく路地の奥の闇に姿を消した。
入り組んだ裏通りを抜けて、安宿の並ぶ路地に出る。
頭の中は冷静だというのに、心臓がうるさく鳴って、腹の底がじわりと熱を帯びる。
仕事の後はいつもこうだった。
ジンが言うには、命のやりとりをしたからだという。初めは人を殺して興奮する変態になってしまったのかと思ってジンに相談したこともあったが、命懸けの仕事の後は大体こうなる、そういうふうにできてるんだとジンは言った。
吐き出すまで落ち着かないこの熱をなんとかしたくて、気持ちばかり逸る。
深く呼吸をして、ポケットにしまっていたサングラスをかける。早く報告をしてジンにしてもらうか、自分でするかしなければ頭が変になりそうだった。
じわりじわりと、正気が蝕まれていく。熱を帯びた高揚感が、衝動めいたものが、腹の底から這い上がってくる。
メインストリートへ続く通りへの角を曲がったところで人にぶつかった。
ユーシーが反動で尻餅をつきそうになったのをしっかりと抱き止められた。
「あぁ、すまない。大丈夫かい?」
どこか辿々しい広東語が降ってきた。見上げると白人らしい、三十代くらいの男だった。灰色がかった暗い茶色の髪に整った顔立ちで、背はずいぶん高い。スーツを崩して着ているところを見るとオフのビジネスマンのようだった。
身なりは良いから、海外の大企業の会社員か、役員だろうか。
繁華街も近い。そちらの客が流れてきたのだろう。ここはジンのいる組織の縄張り。他の組織のものが大っぴらに入ってくるとは考えにくい。
「ケガはない?」
「あぁ、大丈夫。ありがとう」
見上げた視線の先、ぶつかった相手は、澄んだブルーの目を煌めかせていた。探し物でもり見つけたような、そんな顔だ。
綺麗な顔だった。彫りの深い顔立ちに通った鼻筋、はっきりとした二重の瞼にブルーアイを縁取る焦茶色のまつ毛。
甘い低音を紡ぐ唇は厚みがあって柔らかそうだった。
思わず見入ってしまう。
「アンバーみたい。綺麗な目だね」
ユーシーの琥珀色の目を覗き込んだ男の長い指が、ずれたサングラスを直した。
裏街では恐れる者の方が多いその目を、この男は綺麗だと言う。黒い琥珀の話を知らないのなら、この辺りのマフィアではなさそうだ。
「お詫びにいまから食事でもどうかな」
思わぬ誘いに、ユーシーは思わず笑った。
悪くない。端正な顔に、甘い低音。髭も綺麗に剃られているし、清潔感がある。
ジンには知らない奴にホイホイついていくなと言われているが、何度もハズレを引いてきた経験則から、こいつは当たりだとユーシーの本能が告げている。
「いいよ」
ユーシーよりも頭ひとつ分は背が高い。手首に見える腕時計は有名な高級ブランドの限定モデル。金も持っていそうだ。
「けど、俺、セックスの方がいいな」
ユーシーの頭は、どうやってホテルにしけこむかの算段を立てはじめていた。
気持ちいいなら、それに越したことはない。多少変な趣味のやつでも構わなかった。
「構わないよ」
願ったり叶ったりの返事に、ユーシーは思わず唇を舐めていた。
「あと、英語でいいよ。わかるし、喋れるから」
ユーシーが英語で言うと、男はキョトンとした後、嬉しそうに笑った。これもジンの厳しい指導のお陰だ。
「そっか。助かるよ」
「あんたのこと、なんて呼べばいい?」
「ルイって呼んで。君は?」
「シャオユー」
この名前を自ら名乗ることは滅多にない。時々ふざけてジンがこの名前で呼ぶ以外は、古い馴染みが使う、ユーシーの愛称だった。
「かわいい名前だね」
ルイはそう言って微笑んだ。
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