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第3話 引き金と撃鉄

 今でこそマフィア御用達の殺し屋となったユーシーだが、その幼少期は酷いものだった。  歳はおそらく二十歳過ぎだが、正確な年齢はユーシー本人にもわからない。  ユーシーの生まれは内陸の寒い地域だった。物心ついてすぐに両親と死別したユーシーが、引き取られた親戚の家から人身売買のブローカーに売られたのは八歳の誕生日を迎えた後だった。  子供のいない家だったが、それほど裕福な家ではなかったのかもしれない。別れ際、血のつながりのない両親は泣いていた。本当は手放したくなかったのだろうか。まだ幼いユーシーには、何もわからなかった。ただ、よくしてくれた血のつながらない父と母が泣いているのが悲しかった。  それから、目隠しをして車に乗せられ、どこか遠くに連れて行かれた。  新しい家族に会えると言われ、連れて行かれた先は少年性愛者の金持ちの家だった。広くて綺麗な家だったが、主人はユーシーに服を着させなかった。何をするにも裸で過ごさせれ、何かと身体を触られた。気持ち悪くて怖くて三日で逃げ出したが、捕まって折檻され、その日のうちにまた逃げた。  周りの大人は誰も助けてはくれなかった。  大人なんて全員くたばればいいと思った。  数日隠れて追手をやり過ごしたが、そこをまた人身売買のブローカーに捕まった。  ユーシーは整った顔立ちをしていたので欲しがる客は絶えなかった。  その後もブローカーや売られた家から逃げては捕まってを繰り返した。  誰も、ユーシーのことを人として扱ってはくれなかった。美しい少年は高く売れる商品として、食事も身なりも管理された。  一晩だけ、金持ちの家に連れて行かれることもあった。そこでは自分と同じような子どもが裸で男の膝の上に乗せられていて、ユーシーもそれに混ぜられた。裸の身体を舌が這う感触に寒気がした。  どいつもこいつもイカれている。  ブローカーも変態どもも全員くたばれ。  そう思った。  その後も物好きな大人の元に連れて行かれることはしばしばあった。  どれくらいそんなことを繰り返したか、もう思い出せない。思い出したくもなかった。  もう帰りたい家がどこかもわからなかったが、とにかくそこにはいたくなかった。  ブローカーから逃れても行くあてなどなく、ユーシーはストリートチルドレンになった。どこかもわからない街でゴミを漁り、市場で盗みをして命を繋いだ。  雨風の凌げる場所を探し、たどり着いたのはバラックの並んだスラムだった。  そこでどれくらい暮らしたかもわからない。生まれた土地とは違って、冬になっても雪が降ることはほとんどなかったのは救いだった。  マフィアの幹部であるジェンイーに拾われたのはそんな折だった。  屋台街でいつものように盗みをしたところを店主に見つかり、警察に突き出されそうになったのを助けてくれたのが彼だった。 「代金はこれでいいか。釣りはいらない。ついでにそいつも引き取ろう」  彼が店主に代金を渡すと、店主はそれ以上何も言わなかった。品物と共にユーシーを引き取った彼は、ユーシーを連れて自宅らしきマンションの一室へとやってきた。  過去の経験から、何かされるのではないかと警戒していたユーシーに、彼は笑いかけた。 「何もしない。腹減ってるんだろう、こっちで食え」  ダイニングテーブルには中華粥と、盗もうとしていた肉団子が並んでいた。  出された肉団子を齧り、中華粥を必死に啜った。  湯気の立つ食事もいつぶりかわからない。  質素な家具が揃った部屋は殺風景だったが、雨風がやっと凌げるスラム街のバラックに比べれば楽園のようだった。  食事の後は風呂に入れられ、丁寧に全身を洗われた。触られるのは嫌だったが、髪も体も、ずっとまともに洗えていなかった。温かいお湯を浴びるのも久しぶりだった。こんなに気持ちいいということも忘れていた。  柔らかいタオルで拭きあげられ、ジェンイーの服を着せられた。 「お前、名前は」 「ユーシー」  ユーシーが持っているのは、命と、その名前だけだった。 「俺はジェンイーだ。ユーシー、行くところがなければ、うちに来い。飯を食わせてやるくらいしかできないが、あそこにいるよりはマシだろう」  ユーシーに、断る理由はなかった。  それから、床屋で髪を切られ、病院に連れて行かれ、新しい服を与えられた。  ユーシーを拾った男はリュウ・ジェンイーといった。マフィアの幹部で、暗殺をメインに行う殺し屋だと、隠さず教えてくれた。  ジェンイーはユーシーに食事と寝床を用意し、それから読み書きと計算、少しの英語も教えてくれた。  銃の使い方とナイフの使い方、人の体の仕組み、身の守り方を教えてくれたのもジェンイーだった。 「こんなもん、使わなくて済む家に引き取られりゃ良かったんだがな」  銃の使い方を教えた後、ジェンイーはそう言いながら大きな手のひらでユーシーの頭を撫でてくれた。  ようやく信頼できる大人に出会えたと思った。  もう飢えも寒さも暴力もユーシーを脅かすことはなかった。  少しずつ、ユーシーは笑えるようになっていた。  我儘を言ってジェンイーを困らせることもあったが、ジェンイーは笑って許してくれた。  叱られることもあったが、ジェンイーは自由にさせてくれた。  忘れていた穏やかな暮らしが、ようやく戻ってきた。  家族も家も失ったが、ジェンイーがいれば怖くないと、そう思えた。  そんな穏やかな暮らしの終わりは突然訪れた。 「隠れろ。音がしなくなるまで、出てくるなよ」  部屋に帰ってくるなり、ジェンイーはそう言ってユーシーを寝室のクローゼットの中に押し込んだ。  夜。時刻は十時前だった。  ジェンイーの硬い声に、何か悪いことが起きているのはわかった。  薄暗いクローゼットの中、隅に膝を抱えて蹲る。  その後、しばらくして男の罵声が聞こえた。  そのあとは立て続けに足音と男の声と、破裂音がした。  すぐに銃声だとわかった。  足音、怒鳴り声、銃声が入り乱れる。  ユーシーは震えながら待った。  そのうち知らない男がクローゼットを開けるのではないかと、心配だった。  少しして、足音も、男の声も、銃声も聞こえなくなった。  部屋は静かになっても、初めて聞く銃声や硝煙の匂い、血の匂いに震えが止まらなかった。  ジェンイーはどうしているだろう。  そう思っているとクローゼットが開いて、そこにはジェンイーの姿があった。  安堵して、涙が出た。 「ジェンイー」 「いい子にしてたか」  ユーシーは頷く。ジェンイーの大きな手がくしゃくしゃと髪を撫でた。 「ユーシー、逃げろ。ここにはもう帰ってくるな」  真っ直ぐにユーシーの目を見て、ジェンイーは言った。 「でも」 「ここはもう危ない。早く行け」 「ジェンイーは」 「お前だけ、行け」 「やだ」  自分だけ行くなんて、嫌だった。 「俺も後から行くから。いいな?」  そう言われたら頷くしかなかった。  ジェンイーはいつだって嘘をつかなかった。だから、ジェンイーのことは信じられた。 「……わかった」 「いい子だ」  大きな手が頬を撫でる。温かい手のひらには、べったりと血がついていた。  ジェンイーは首にかけていたドッグタグをユーシーの首にかけた。 「これはお前が持っていけ」 「ジェンイー」 「シン婆さんの店に行って、ジンとレイに会え。いいな?」  ジェンイーが笑うので、ユーシーは頷いた。  言い終えるなり、ジェンイーが倒れ込んだ。  その背には、大振りなナイフが深々と突き刺さっていた。  ジェンイーが崩れ落ちたその向こうに、人影が見えた。 「これはこれは、随分と上玉を隠していたもんだ」  見知らぬ男がいた。冷たい切長の目に、白髪混じりの黒い髪。背の高い男だった。  ユーシーを見下ろす冷たい目が、愉しげに細められた。  ユーシーは本能的に察した。  ジェンイーは死んだ。そして、殺したのは目の前のこの男だと。 「おいで」  声の穏やかさとは反対に、ユーシーは腕を強く引かれ、傍のベッドに放られた。ジェンイーのベッドだった。  死体が転がるその側で、抵抗する間も無くベッドの上に組み敷かれる。 「さて、あいつにそんな趣味があるとは知らなかったが、お前はあいつに抱かれたのか?」 「はなせ」 「おや、随分と反抗的だな。初めてか?」  抵抗をするユーシーを押さえつけた男の手を、今でも覚えている。何度も殴られ、乱暴に脱がされ、服を破られた。  肌が夜の空気に晒され、粟立つ。 「綺麗な肌。だがもう少し食べた方が良いな。痩せすぎだ」  男の視線が肌を舐めるように這っていく。  嫌悪と憎悪が溢れ、ぐちゃぐちゃになった頭で、それでも抵抗を続けた。  声を上げた口を、痩せた手のひらが塞ぐ。  なんとか振り解き、ユーシーはその手に思い切り噛みついた。  血の味がした。  男が怯んで身を引いた時だった。 『ここが、頸動脈。ここを狙え』  ジェンイーの声が聞こえた気がした。  男の下から抜け出し、枕の下に隠してあった小ぶりなナイフを抜いた。ジェンイーが隠していたいざという時のための護身用のナイフは、小さなユーシーの手にも馴染んだ。  ユーシーに再びのしかかる男の首にナイフを突き立て、力を込めて横に引いた。  男の首から鮮血が噴き出し、口からは赤い血が垂れ落ち、ユーシーの頬を、白い胸を汚した。  直後、慌ただしい足音とともに部屋に若い男が飛び込んできた。 「ジェンイー!」  男が呼んだのはジェンイーの名前だった。  知り合いだろうか。  男は倒れたジェンイーを見つけた。  すぐに何かを察して、ユーシーの上から男を剥がすと、若い男はユーシーと傍らに崩れ落ちた男を交互に見た。 「お前がやったのか?」  ユーシーは呆然と若い男を見た。自分より年上の、髪の短い男だった。男は焦りと困惑の混じった表情でユーシーを見ていた。 「大丈夫か? 怪我は?」 「ん、へいき」  それが、ジンとの出会いだった。  ジンは半裸で血塗れのユーシーにジャケットを被せ、抱き上げると、その場を後にした。  外は雨だった。  ジンは傘も差さず、暗くなった街を走った。  頭上に煌めく無数のネオンが、ひどく綺麗に見えた。  この街が香港ということを、この時初めて知った。  それをきっかけに、ユーシーはジンの世話になることになった。  ジンはジェンイーの部下だった。それもあり、ジンはユーシーを引き取った。  まともな社会の生活などわからなかったユーシーにまともな生活を教え、衣食住を与えたのがジンだった。  昼間はジンの馴染みの食堂で手伝いをし、夜にはジンの家で一緒に眠った。学校こそろくに行けなかったが、ジンはユーシーに読み書き、計算、社会の仕組みに簡単な英語など、生きるのに困らないくらいの教養を身につけさせた。勉強に関しては、ジェンイーよりも厳しかった。  その恩は、いつだって忘れることはない。  お陰で、今やジンの仕事を手伝えるくらいにはなった。  残念ながら、ジンはそうなることは望んでいなかったようだが。  ジンはユーシーをマフィアには関わらせたくなかったらしいが、幼少期からの過酷な経験はユーシーをおかしくするのには充分だった。  呼吸をするように感情を殺して、ジェンイーに教えられた技術を、惜しげもなく発揮した。  その瞬間だけ、全ての感情を殺して、全てを奪う。  ジンも舌を巻く殺すための技術は、ジンの兄貴分であるレイからもお墨付きをもらうほどだった。  飢え、暑さ、寒さ、暴力。それらから逃れるため、ただ生きるため。ユーシーが殺し屋をする理由だった。  それ以外の感情は、不思議と湧かなかった。  引き金を引くのも、皮膚を刃で裂くのも、ユーシーには作業に過ぎなかった。 「引き金を引くのは、感情ではなく指だ」  いつだったか、ジェンイーが教えた言葉は、未だユーシーの胸に宿っていた。

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