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第16話 逃避行の夜

 レイに抱き潰されたユーシーは、結局ジンの部屋でもう一晩休む羽目になった。ろくに動けないユーシーを、ジンは小言も言わずに泊めてくれた。  何か言われるかと思ったが、キングサイズのベッドを占拠しても、ジンは何も言わなかった。レイの絶倫ぶりを知っているせいかもしれない。  ユーシーが起きられるようになって部屋に帰ったのは、一夜明けて、昇った日が暮れてからだった。  濃密なレイとのセックスはまだ尾を引いていて、部屋に帰っても充足感と疲労感で何かしようという気にはならなかった。ベッドに横たわりタオルケットに包まるとすぐに睡魔が意識を攫った。  翌日の昼まで寝た後、ユーシーは起き上がる気になれず、日没までベッドの上でぼんやりと過ごした。  まだ怠さは残っていたが、ストレッチをした後、シャワーを浴びて外行きの服に着替えて、足は自然と地下闘技場へと向いていた。  ジンに紹介されてから、試合に出る日も出ない日も暇さえあれば通っていた。  きっかけは、ジンに拾われてしばらくしてから。街に出ては喧嘩ばかりしていたユーシーを、ジンは地下闘技場へと連れていった。 「暴れたきゃここでやれ。ただし殺すなよ」  地下闘技場に放り込まれたユーシーは、シン婆の店を手伝った後、来る日も来る日も通った。跳ね返され、やり返して、場数を踏んだ。  ユーシーが飽きずに通うくらいに馴染めたのは、似た境遇の人間が多かったからかもしれない。  家族がない者、ギリギリで生きている者、娯楽として楽しむ者。喧嘩をして殴り合って、友情が芽生えることもあった。  支配人のウェンとはこの頃からの馴染みだった。  あの空間の、ぎらついた空気が好きだった。  殴り合いをしなくても、あの空気を吸うだけで、元気になれる気がした。  あの場所には、生命が満ちている。そんな気がした。  殺しを生業にしているユーシーが、唯一人の命を意識するのがあの場所だった。  ユーシーにとって、殺しは仕事、喧嘩は趣味、セックスは娯楽だった。  薄暗い通りを抜け、重い扉を開けて階段を降りる。ざわつきの残る街から熱気の濃い地下闘技場へ、空気が少しずつ変わっていく。エントランスを顔パスしてホールに出ると、アリーナに響く割れんばかりの歓声がユーシーを出迎えた。  客席はいつもと変わらず賑わっていた。  顔見知りを探して店内を見回すと、バーカウンターにウェンリーがいた。 「よお。今日は?」  ユーシーの姿を見つけたウェンリーが構えを真似たポーズをする。ユーシーは笑った。 「見学だけ」 「なんだ、ごゆっくりどうぞ」  ウェンリーはつまらなそうな顔で肩をすくめてみせると、いつもそうするようにビールの小瓶を開けて差し出した。ユーシーがオフの日のお決まりのメニューだった。  ウェンリーに代金を渡して少し話をしてから、ユーシーは客席をうろつく。  観客は皆ケージに釘付けで、時折歓声が上がる。ユーシーの存在には気付いていない。  壁沿いのベンチに座り、ユーシーもそれとなくケージに目を向けた。見慣れない二人がケージに入ってくる。新入りだろうか。  ゴングの甲高い音が響く。  始まった試合をぼんやりと眺めながら、ビールをあおる。 「ヘイティエ」  すっかり耳に馴染んだ声に振り返る。  ホールの奥から、甘い声の色男が、笑って手を振って見せた。  その姿を認めた途端に心臓が甘く痛んだ。  ユーシーは弾かれたように席を立ち、入り口の方へと駆け出した。飲みかけのビールを置いてきたが、仕方ない。今は会いたくなかった。  いつもならもっと早く走れるのに、空気が粘度を増して絡み付いてくるように、身体が前に進まない。足が、身体が重い。  後ろから、足音が迫っていた。もう、すぐ後ろにルイの気配を感じる。捕まったらどうなるか、なんとなく予想ははできていた。  セキュリティの横を突っ切って、階段を駆け上がり、路地に出たところで大きな手に捕まった。 「待って、シャオユー」  切羽詰まった声とともにしっかりと腕の中に閉じ込められる。正面から抱き寄せられ、頬にルイのシャツが触れる。  心臓が痛いくらいに脈打って、血液を全身に巡らせている。肺から吐き出される息は熱く乱れて、首筋にはもう汗が滲んでいた。  逃げ出そうと身体をよじっても悪あがきにしかならない。自分より体躯の大きなルイには、力ではどうにも敵わなかった。甘く抱きしめてくるその腕が、今は堪らなく憎らしい。  人の往来がある中でも、ルイは抱きしめる腕を緩めてはくれなかった。 「シャオユー、どうして逃げるの」  悲痛さの滲むルイの声に胸が痛んだ。ルイに理由は言っていない。だからこうなるのは仕方ないのだが、もう、何から話したらいいのかわからなかった。  だめだ。逃げろ。泣くな。  頭の中で何度も繰り返すが、もう体は動かなくて、ルイに埋め尽くされた視界が温かく滲んだ。 「……だって、おれ」  頬が温かく濡れた。喉は引き攣って痛み、言葉を紡ぐ唇は震えて、上手く言葉が継げない。 「人殺しだから」  掠れた声でぽつりと零したユーシーの真横を、見知らぬ人が通り過ぎていく。  とうとう言ってしまった。  後悔が半分、諦めが半分だった。言わなくても、いつかばれたら同じ結果が待っている。 「俺、殺し屋なんだ」  ユーシーの頼りない声が、無数の足音、話し声が響く薄暗い通りに飲み込まれていった。 「いっぱい、ころした」  俯いたユーシーの唇から零れるか細い懺悔の声に、ルイは静かに耳を傾けた。 「だから、おれ、ルイのところには、いけない」  言い終えて、ユーシーは手の震えに気付いた。まだ降ってこないルイの言葉が怖い。断頭台への階段を昇る死刑囚のような気持ちだった。  心臓が、やけに大きく鳴っている。  はやく、とどめを刺してほしい。そう思いながら、ルイの声を待った。 「シャオユー、顔を上げて」  子どもに言い聞かせるような優しい声が聞こえた。泣いている顔を見られたくなくて、ユーシーはルイのシャツに頬を押し付けた。 「僕だって、君を咎められるような人間じゃない」  ルイは自嘲の色を滲ませながら穏やかな声で続けた。 「そのままの君でいいんだ。だから、僕から逃げないで」  ルイの大きな手が、優しく後頭部を撫でていく。その温かさに、また涙が溢れた。 「お願い、シャオユー」 「るい」  やっと絞り出した声は、強張り掠れていた。 「僕は、君の過去がどんな形でも構わないよ。そのかわり、これから先は、僕と一緒に作らせて」  甘やかに吹き込まれた言葉は優しく、ユーシーの胸に落ちた。  ルイに受け入れてもらえた。そのことが堪らなく嬉しい。 「っふ、う、るい」  嬉しいのに、涙が止めどなく溢れ、頬を濡らしていく。ルイにしがみついたまま、ユーシーはその涙でルイのシャツを濡らした。ルイはずっと頭を撫でてくれた。 「好きだよ、シャオユー」 「るい、おれも、すき。るい」  止まらなかった。涙も、声も。胸に絶えず湧いてくる言葉を、一生懸命口にする。声に出して言葉にすると、じわりと胸に沁みた。  この男のものになりたいと、心の底から思った。  まだ幼い頃、散々売られていたときとは違う感覚だった。あの頃はただ何もかもが嫌だったのに、ルイに対して抱くのは全く異なる感情だった。  もっと愛してほしい。奪ってほしい。  身体の奥まで暴いて、一番深いところまで愛してほしい。  温もりも言葉も、ルイに与えられる全てのものが愛おしかった。  ユーシーは抱きつく腕に力を込めた。その胸に溢れるのは温かな感情と、じりじりと理性を灼くような劣情だった。  抱かれたい。最奥まで暴かれ、溶かされたい。  心臓が、うるさく鳴り響く。  夜の街のざわめきが遠くに聞こえる。煌めくネオンも、どこか遠くのもののように思えた。  見上げたユーシーの視界はルイが埋め尽くしていた。夜の街の光を反射して煌めく美しいアイスブルーが見える。 「シャオユー、君を攫ってもいい?」  ルイが微笑む。許しを乞うように濡れた琥珀色の瞳を覗き込むアイスブルーは、火傷しそうな熱を湛えて揺らめいた。 「いいよ」  応えるユーシーの声に、もう迷いの色はなかった。

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