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第23話 銃口の先
それから、どうやって部屋まで帰ったのか覚えていない。明かりもつけず、泣き出したい気持ちを抑え込んで、部屋の隅に置いたボストンバッグの中に適当に突っ込んでいたルイの電話番号の書かれたメモを探す。
メモを見つけると札束から紙幣を数枚引っこ抜いてポケットにしまい、ボストンバッグをベッドの下に放った。
ベッドサイドのキャビネットの上に放られた小銭をポケットに突っ込み、ユーシーは部屋を出た。
時刻は深夜に差し掛かろうかという時間だった。
通りに出たユーシーは公衆電話からルイに電話をかけた。こんな時に、初めて電話をすることになるなんて思わなかった。電話は呼び出し音の後すぐに繋がった。
ルイはすぐにユーシーだとわかったらしい。
「シャオユー、どこにいるの?」
変わらないルイの声に、安堵と悲しみが同時に押し寄せる。
「家の近く。暇になったから、会いたい」
できるだけ、いつもの声になるように気をつけた。
ルイは二つ返事で了承した。
「ロビーで待ってるよ」
ユーシーは受話器を置いた。
タクシーを捕まえてホテルに着くと、入口近くにいたルイがユーシーを見つけた。
「シャオユー、会いたかったよ」
駆け寄ってきたルイは人目も憚らずユーシーを抱きしめた。ルイの匂いに包まれると、気持ちが揺らぐ。仕事前にあるまじきことだが、止められない。こんなこと、初めてだった。
「ルイ、仕事は?」
「今日はもう終わりだよ。おいで」
ルイの腕から解放され、そっと手を握られる。ルイの手は優しく、ユーシーの冷えた手を包み込んだ。
そのまま、部屋へとエスコートされる。
エレベーターの中、ルイの楽しげなお喋りをぼんやりと聞く。今日食べた食事の話だとか、昨日行った店の話だとか、他愛無い話をするルイに相槌を打ちながらも、頭の芯はすっかり冷え切っていた。
温かい手のひらが、ずっと手を握っている。
まだ頭のどこかで、間違いだと言ってほしいと思っている。
部屋に到着すると、ルイはいつもと変わらずユーシーを部屋に入れてくれた。
ユーシーが入り、続いてルイが入り、ドアが閉まる。ルイの手はユーシーの手を握ったままだった。
部屋に入ってすぐあるのはリビングで、高そうな調度品が並ぶ。手を引かれて、リビングの中ほどまで進む。
「ルイ、何の仕事してるの?」
「うーん、貿易関係、って言えばいいかな」
「ふうん」
ユーシーはそっとルイの手から抜け出し、距離をとった。三歩ほど後退ってユーシーの手はハーフパンツのウェストに隠していた銃を取り、流れるように安全装置を外した。
ざわつく気持ちを抑えつけ、サイレンサー付きの銃口を、真っ直ぐルイに向けた。
「石油王ルー、なんだろ」
声が震える。
いつもなら静かになる胸が、ずっと波立っている。
間違いだと、違うと、ルイの口から言ってほしい。その答えが返ってくるようユーシーは祈りながらルイを見た。
ルイに焦っている様子は見えず、静かに微笑んでいる。
「……うん。そうだよ」
ルイの声は変わらず優しく穏やかだった。
何の躊躇いもなく甘い声に告げられた真実に、落胆、絶望、そんな類いのものがユーシーの胸に重たく沈んでいく。
泣き出したいようなひどい気分なのに、涙は出なかった。
「黒い琥珀って知ってる?」
引き攣る喉から声を絞り出す。自分は今、さぞひどい顔をしているだろうと思う。自ら、その話を振ることになるとは思わなかった。
「うん。この辺りのマフィアに恐れられてる、正体不明の殺し屋だろう? この間僕の部下も四人やられたよ」
四人。その数を聞いてすぐに浮かんだのはあの廃ビルにいた四人の白人のことだった。偶然にしては、できすぎている。
ルイの部下を手にかけたのなら、きっと許してもらえない。ルイの慈愛に満ちた性格を、知らないわけではない。
「それ、俺だって知ってた?」
ユーシーの言葉に、ルイのアイスブルーの瞳が揺れた。
もう取り返しがつかないと、ユーシーは冷えた頭の隅で考える。
いっそのこと、怒りと憎悪に染まったルイが、その手で殺してくれたらどんなにいいだろうと思った。
死ぬのは苦しいだろうか。
今まで刻んできた因果が全部自分に返ってきて、もがき苦しみながら死ぬのなら、それでも構わなかった。それだけのことをしてきた自覚はある。
ユーシーは真っ直ぐにルイを見る。
見えたルイのアイスブルーの瞳は静かだった。
「それは、初耳だな」
その目に怒りや憎悪の色は見えず、ただ悲しい色が見えるばかりだった。
「シャオユー、嘘ついて、ごめん」
優しい声が聞こえる。
そんなこと、謝らなくていいのに。自分の方が、余程ひどいことをしている。ひどい言葉を浴びせられる覚悟をしていたユーシーは、肩透かしを食らった気分だった。
「でも、君に一目惚れしたのは本当だよ」
こんな時まで、ルイはユーシーを優しく、温かい眼差しで見つめる。もう、自分にそんな資格はないのに。
「黒い琥珀だったのは想定外だけど」
ルイは怒らなかった。その声は変わらず穏やかで、悲しげな笑みを浮かべ、ただ静かにユーシーを見ていた。
こうして銃口を向けて、もう後戻りできないところまで来ても、ユーシーは未だ決心がつかないでいた。
「シャオユー、君に殺しをさせているのは誰?」
そう言ったルイの声は尋問というよりは、諭すような穏やかな響きだった。
銃を構えているのはユーシーだが、空気を握っているのは、目の前にいるルイーー石油王ルーだった。
ユーシーは唇を固く結んだ。
噛み締めた奥歯が小さく軋む。
ここで自分が喋るわけにはいかない。ジンとレイを守るには、喋ってはいけないと理解していた。
「もう一度訊くよ。君に、殺しをさせているのは誰?」
口を噤んだままのユーシーに、石油王ルーは変わらぬ穏やかな声色でもう一度訊いた。
ユーシーがその震える指を引き金にかけると、ルイの細められた目の温度が下がった。
「僕を撃てば、君の家族は全員死ぬよ」
ルイは声色を変えず、言い聞かせるように穏やかな口調で続けた。
ユーシーは静かに息を飲んだ。
「明日、僕からの連絡がなければ僕の部下が君の家族を家ごと潰す。この意味がわかるね?」
ルイが言っていることが何のことか、わからないユーシーではない。ルイが死ねば、ジンもレイも組織ごと潰される。決して小さい規模の組織ではないジンとレイのいる組織。それを潰すということは、それなりの人数も武力もあるということだ。
胸に、冷たいものが落ちる。
背筋が冷える。
引き金は、未だ引けない。
「君がおとなしく僕のところに来るなら、君の家族には手は出さないよ」
今、ユーシーの目の前にいるのはあの穏やかで紳士的なルイではなく、石油王ルーだった。
青い瞳は、冬の空のように冷たく、遠い。
これは取引だ。
もはや、ルイとユーシーだけの問題ではなくなっていた。
ルーは、ジンとレイをこの取引の場に引き摺り出したのだ。ユーシーの、家族。家族に一番近い存在。
ジェンイーが目の前で奪われたあの日を思い出して胸が硬く絞られるようだった。
「あんたを、どうやって信じたらいい」
殺すことしか知らないユーシーには、交渉のやり方などわからない。
ただ、言われたことを鵜呑みにできないくらいには、目の前にいる石油王ルーに不信感を抱いていた。
もはや目の前にいるのはユーシーのよく知るルイではない。見ず知らずの、石油王ルーが、ジンとレイを人質に立ちはだかっていた。
「僕の本当の名前を教えようか。ルーも通り名みたいなものだからね」
自分に銃口が向いていることなどお構いなしに、石油王ルーは恭しくお辞儀をして見せる。
「はじめまして、シャオユー。僕はルートヴィヒ・フォン・ルーデンドルフ。フランス生まれ、フランス育ち、ドイツ国籍のドイツ人だ」
こんな形でルイの出自を聞くことになるとは思わなかった。
ユーシーはじっと視線を向けたまま動けなかった。
「証拠を見せようか」
ユーシーの元に投げて寄越されたのはパスポートだった。受け取って開くと、同じ名前が書かれていた。
「他には?」
パスポートも偽造かもしれない。
そうだとしたら、もう何を信じたらいいのかわからなかった。
とめどなく湧き出す疑念は、止まるところを知らず、ユーシーを飲み込んでいく。
「知りたいことは全部教えるよ」
全部と言われても、もう何を聞けばいいのか、わからない。
愛してくれたのも、全部このためだったのだろうか。あの笑みも、甘い言葉も、優しい手も。
言葉に出せないまま、一際強く胸が痛んだ。
「なにしに、きたんだよ」
震え、掠れた声が零れた。
「情報探し。ヤバい薬の出所を探してるんだ。ここなら、何かわかるんじゃないかと思って」
声に感情の揺れがありありと見えるユーシーとは対照的に、石油王ルーの声色は変わらない。
「そんなの、ジンかレイさんに聞いたらすぐわかる」
「よそ者の僕に教えてくれるかな」
それで、レイのボスの逆鱗に触れたのだろうかと、ユーシーはぼんやり思う。
マフィアが余所者に厳しいのはどこも同じなのではないか。ジンやレイだけが厳しい訳ではない。皆、自分たちを守るための行動をしているだけだ。
「そんなの、俺が聞いてやる」
半ば自棄だった。ジンかレイなら、教えてくれるかもしれないが、確証があるわけではなかった。
「シャオユーは優しいね」
そんな言葉が聞きたいのではなかった。
「俺は、ルイを殺さない。死なせない。はやく、ルイを返せ」
喉から漏れたのは、絞り出すような、低い声。憤りを滲ませた、獣のの唸りのような声だった。
石油王ルーは、そこに何か見出したのか、少しだけ目を見開いた。
「ルイに愛されるのは、気持ちよくて好きだ。でも、それ以外はわかんねー」
その後に続くのは、掠れた声だった。
「ルイのものになりたい。でも、ルーは嫌いだ。石油王ルーのものにはなりなくない」
子供のようなわがままを言っている自覚はあった。石油王ルー相手に、そんなもの、通用しないであろうこともわかっていた。
それでも、ルイに、愛されたい。甘い声に溶かされて、満たされたい。
情緒の荒れたユーシーの胸に溢れるのは、そんな思いばかりだった。
「俺は、ルイと、一緒にいたい」
胸から溢れて喉に詰まりかける言葉を、ユーシーは少しずつ順番に吐き出す。
「ルイ、俺があんたのものになれば、ジンもレイさんも、殺さないでいてくれんの?」
ルイには届かないかもしれない。それでも構わなかった。
苦しいくらい胸に詰まった自分勝手な想いを、ユーシーは吐き出した。
「……シャオユーには勝てないな」
石油王ルーが笑った。ユーシーの琥珀色の瞳に映ったその笑みは、間違いなくルイのそれだった。
「約束するよ。君の家族にも、街にも、手は出さない」
ユーシーの目をまっすぐに見て、ルイが微笑んだ。
目の前にいるのは、ルイだった。
優しく蕩けたアイスブルーを見て、ルイだと、心の底から信じられた。
凍りついていた胸の奥が、暖かく溶け出す。
「るい」
「部下に連絡するから、少し待ってね」
ルイの微笑みから、目が離せない。
ルイはスラックスのポケットからスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけた。
「僕だ。例の件、全て引き上げて。……うん、そう。すぐやって。……よろしくね。また連絡する」
ユーシーはルイの声をぼんやりと聴いた。
短い通話が終わり、ルイはスマートフォンをしまってユーシーに向き直った。
「シャオユー、もう君の家族を脅かす人間はいないよ」
ずっと構えていた銃を下げる。固まった指を外して、安全装置をかけて、ハーフパンツのウェスト部分にしまう。
「あ……ルー……」
張り詰めていたものが切れて、身体から力が抜けてへたり込みそうになる。
ぽろぽろと涙が零れ、頬が温かく濡れていく。視界はぼやけて、鼻もぐずりと鳴って、しばらく止まってくれそうになかった。
もう、引き金を引かなくてもいい。
ルイも、ジンもレイも死なない。
安堵で、膝が震えた。
「ルイでいいよ。祖父の名前だけどね。気に入ってるんだ」
「ルイ」
「ごめんね、シャオユー。泣かないで」
歩み寄ってきたルイが、その腕でユーシーを抱きしめた。
その腕に抱かれて、ひどく安心した自分に気付く。
「るい」
「酷いことをしたね。君にこんな顔をさせてしまった」
ルイが眉を寄せて、苦しげに表情を歪めた。
そんな顔、しなくていいのに。ルイを見上げると、ルイの温かな手が、涙に濡れた頬を拭ってくれる。
「るい」
「まだ、僕を呼んでくれるの」
ルイの手が、黒い絹のような髪を撫でていく。
何回でも呼ぶ。何度だって。ユーシーには、ルイが必要だった。
「ルイ、すき。ルイじゃなきゃ、だめだ」
「ありがとう、シャオユー」
ルイが一際強く、ユーシーの身体を掻き抱いた。より濃く感じるルイの体温に、ユーシーの口からため息が漏れる。
「この街にも、君の家族にも手は出さない。だからシャオユー、僕のところに来て」
抱きしめた腕を解いて、ルイはユーシーの前に跪き、ユーシーの手を握った。その手は温かく優しく愛を教えてくれた、いつか自分に触れたあの手だった。
「ルイ」
「じきにここも引き払うから、君を攫ってもいい?」
「うん」
ユーシーは静かに答えた。
まだ、ルイに伝えていないことがあったのを思い出す。
「ユーシーだよ」
ルイが目を見開き、アイスブルーの瞳が揺れた。
「俺の、本当の名前」
ユーシーがルイに教えたのは、幼い頃からずっと待っている、たった一つの宝物だった。
「ユーシー、ふふ、綺麗な名前だね」
ユーシーの手に両手を添えて、ルイは手の甲にそっと口づけた。
「ありがとう」
ユーシーがとろりと微笑む。その甘やかな表情に、ルイも笑い、ユーシーを抱き寄せた。
温かい。ルイの体温がユーシーのそれと混ざって、ユーシーの心を甘く溶かしていく。
ため息をついたユーシーはルイを見上げる。
「あ……ジンに、報告しないと」
「ジン?」
そういえば、ちゃんと説明していなかったことを思い出す。
「俺の兄貴分だよ。俺を攫うのはそれからでもいい?」
「うん、いいよ」
ルイがぽつりと言葉を継ぐ。
「ご家族に挨拶か。緊張するな」
「え、来るの?」
ルイはどうやらユーシーと一緒に行くつもりらしかった。
「だめかな。できれば直接話したいんだけど」
ルイの言い分はわかるが、そうなると心配なのはジンの方だった。石油王ルーがジンの元に行くとなると、ユーシーは少しばかり心配だった。いきなり発砲するようなことはないだろうが、平穏無事にとはいかないだろう。
「……ジン、キレるかも」
部下に怒鳴りつけるジンを何度か見たことがある。あれより酷いのが見られるかもしれない。
発狂するジンが見られるかもしれないと思うと、ユーシーは少しだけそれが楽しみで、密かに頬を緩ませた。
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