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第22話 石油王ルー
ユーシーの部屋の呼び鈴が鳴ったのは、ジンの部屋から帰ってきた翌日の、夜の帳が下りるころだった。
いつも通りトレーニングを始めたユーシーに、備え付けの呼び鈴が来客を告げた。
普段、ユーシーの部屋の呼び鈴が鳴ることは殆どない。あるとすれば仕事の呼び出しか、ジンが訪れる時くらいだ。
玄関に向かったユーシーが覗き込んだドアスコープのむこうには、見覚えのあるスーツ姿の男がいた。ジンの部下だった。
ユーシーは鍵を開け、ドアを開けた。ドアの前にいた男は、ユーシーの姿を見るなり静かに用件を告げた。
「ユーシー、呼び出しだ」
「ん、わかった」
男を玄関先で待たせ、着替えるとユーシーは部屋を出た。
ジンの部下に連れられマンションを出ると、通りには車が用意されていた。ジンからの依頼は数多くこなしてきたが、迎えの車がつくのは初めてだった。
前例のないことにどうしたのか迎えの男に聞いても、何も教えてくれなかった。
街の景色を眺める間も無く、車はジンのマンションの前に着いた。
珍しい。タクシーなら前に止めたりしないのに。馴染みの運転手なのか、余程急いでいるのか、それとも何か特別なことでもあるのか。それは訝しむユーシーの胸にざわつきの種を落とした。
車を降りると、ユーシーはジンの部下に連れられ、そのままマンションに入った。エレベーターで上層階に登り、ジンの部屋に案内される。
ジンの部屋のリビングに着くと、ユーシーを待たせ、部下は部屋を出て行った。
ユーシーはその後ろ姿を見送る。一人残されたリビング。いつも誰かしらいるのを見慣れているせいか、誰もいないリビングは静かで不思議な感じがした。
ユーシーがぼんやりと部屋を眺めているうちに、部下と入れ替わりでジンとレイが入ってきた。
「元気そうだな」
涼やかな声とともに現れたレイは、ユーシーを見るなり表情を和らげた。頭を撫で、レイは部屋の奥のソファに座った。
「わかったぞ、ルイのこと」
ジンが続けた。
レイの後ろにいたジンはレイの隣のソファに座った。残されたユーシーは手前のソファに座った。
レイとジンと顔を合わせるのは久しぶりだった。
「石油王ルーの話したの、覚えてるか」
先に切り出したのはジンだった。
「うん」
よく覚えている。
裏社会との繋がりも噂される、石油王ルー。表向きは実業家だが、オイルマネーで各地のマフィアと手を組んでいるとジンに聞かされていた。顔こそ知らないが、無知なユーシーにもその名前くらいはわかる。
「ルイが、石油王ルーだ」
「は、何だよそれ」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。それしか言えなかった。
ルーがルイのことだと聞かされても、ユーシーにはいまいちピンときていなかった。ルイもユーシーに対して軽率に一千万を渡すような金持ちではあるが、ユーシーの中ではどうしても二人が繋がらない。
「ルイが、石油王ルー?」
ユーシーはジンを見た。ジンに限ってガセネタを持ってくるような人間ではないことはユーシーもよくわかっている。
「あいつ、うちにも連絡を寄越したんだよ。うちのこと散々嗅ぎ回ってな」
ジンが淡々と告げる。ジンの目は、いつもと変わらず涼しげだった。いつもならいくらか見える感情が、今日は何一つ見えない。
ジンからも、レイからも、何の感情も見えなかった。
頭が、考えることを拒んでいた。だから何も見えないのか、それともジンもレイも努めて感情を抑え込んでいるのか、ユーシーには判断できなかった。
「ユーシー、依頼だ」
レイの声がひどく冷たく響いた。
その続きは容易く想像できて、それ以上聞きたくなかった。
「こいつをやれ」
テーブルに、手入れの行き届いたレイの美しい指先が何かを差し出した。ユーシーの目が自然とそちらに向く。
レイが直々に差し出した写真には、スーツに身を包んだ、見慣れたルイの姿があった。
何かの間違いであってほしくて、ユーシーは唇を噛んだ。
心臓が、すり潰されるようだ。
そんなユーシーの内心を知ってか、レイが静かに続けた。
「ボスの決定だ。こいつらは敵になると判断した。だから消す」
レイは冷めた声で手短に言い、ユーシーにその涼しげな目を向けた。
ユーシーの視線は写真に落ちたまま動かなかった。何度見ても、そこにあるのはユーシーのよく知ったルイの姿だった。
指先で、写真で撫でる。
仕事中だろうか。スーツ姿のルイ写真は、香港で撮られたもののようだった。
「ユーシー、お前ができないなら、ジンがやる」
レイの声は静かだった。突き放すような言葉に、顔を上げてレイを見る。レイの目は凪いでいて、やはりなんの感情も見えなかった。
レイと、ジンの手にかかって、逃げられたものはいないと聞いたことがある。ジェンイーの部下だった二人だ。そんなの当たり前だと思った記憶があるが、今となってはそれは脅威でしかない。
自分がやらなければ、ジンがやる。それなら、自分がやった方がいくらかましだと思えた。頭の隅では、なんとかして殺さずに済む方法を必死に探した。
眩暈がする。座っているのに、足元が不確かで視界が揺らいだ。目の前の二人が、ずっと遠くにいるみたいだった。
「わかりました」
喉から絞り出した声は、思ったより落ち着いたものだった。
そう答えるしかなかった。どうしてこうなったのか、自分に何かできなかったのか、考えても仕方のないことだとわかったいたが、考えずにはいられなかった。
「いい子だ」
涼やかな声とともにレイが目を細めた。少しだけ、その鳶色の瞳に悲しげな色が見えた気がした。
涙は出ない。
ただ、胸が痛かった。
「必要な武器はあるか?」
レイの声に、ユーシーは喉から答えを絞り出した。
「銃。いつものやつ」
「ジン、用意しろ」
「はい」
ジンは流れるような所作でキャビネットから銃を取り出す。
ひどく重い音を立てて、見慣れた銃がテーブルに置かれた。サイレンサー付きの、自動小銃。いつも仕事でユーシーが使うものだった。
暗く冷たく光る金属製のそれを、ユーシーは複雑な思いで見つめる。
何の感慨も持たずに握ってきたそれの、何度となく引いてきたその引き金が、憎く、ひどく恐ろしいものに思えた。
ユーシーは震える手で使い慣れた自動小銃を手に取った。銃を握って、手が震えるのはいつぶりか、もう思い出せなかった。
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