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第25話 九龍にて

 夜の帳が下りた街には賑やかなネオンが灯り、冷めやらぬ熱気とともにざわめきを濃くしていた。  煌びやかな飲食店の連なる通り、その中でも一際上品な店構えのレストランの前に黒塗りの車が続いて停まった。  後部座席のドアが開けられ、前の車からはスーツ姿のレイが、後ろの車からはスーツ姿のジンと、同じくスーツ姿のユーシーが降りてきた。どこかぎこちないユーシーは、前を歩くジンに続いて店に入っていく。  ジンが手配したのは、ジンたちの拠点にしている九龍エリアにある高級レストランだった。  一階には一般客用の席、二階には個室がいくつか用意されている。  ユーシーたちは個室のある二階への階段を昇っていく。  ジンが押さえたのは廊下の奥にある一番大きな円卓のある個室だった。  部屋の入り口には、既にスーツ姿の男が二人立っていた。白人の男。ルイの部下のようだった。  男の脇を通り部屋に入ると、そこは十人は入れそうな個室だった。  部屋の中央には回転テーブルのついた円卓が据えられ、入り口から見て右手に三脚、左手に一脚置かれていた。その左手の一脚には既にルイの姿があった。  ユーシーが知る中で、一番しっかりとスーツを着込んでいる。ユーシーが見ても高い生地だとわかる、深いネイビーのスリーピースのスーツ。張りのあるサックスブルーのシャツにシルバーのネクタイをしている。  ユーシーと目が合うと、ルイは微笑んで小さく手を振った。ユーシーも手を振って笑みを返した。  部屋は白壁に黒に近い深い赤の柱と、柱と同じ色の調度品が置かれていた。深い色合いの調度品はよく磨かれ、美しい艶を放っている。  ルイの向かい側にレイ、ジン、ユーシーが丸いテーブルを囲んで座る。部屋の入り口には、レイの連れてきた部下二人が増え、合わせて四人の男が控えている。  会食のためではないと店には伝えてあるのか、円卓には、水の入った人数分のグラスが置かれている他は水の入ったデキャンタが置いてあるだけだった。  静かな部屋に物々しい空気が漂う中、先んじて口を開いたのはレイだった。 「レイと申します。話は部下から聞いています。石油王ルー」  組んだ足の上で指を絡めたレイの涼しげな視線は、静かにルイに向けられた。 「ルイで構いませんよ、レイさん」  その視線を受け止めて、ルイは穏やかな笑みを返す。  静かに始まったやりとりは危うい緊張感を孕んでいるように見えて、ユーシーは静かにその様子を見守る。息苦しく感じるのは、慣れないスーツとネクタイのせいだけではなかった。  自分がきっかけで始まったこの会合がどうなるのか、ユーシーは緊張した面持ちでレイとルイのやりとりを見つめた。 「貴方から和議のお申し入れがあると」 「ええ、こちらです」  黒い革張りのファイルがルイから差し出される。 ルイの指先が音もなく回転テーブルを回して、レイの前にファイルが届いた。  レイの綺麗な指がテーブルからファイルを拾い上げる。表紙を開き、中の書類に一通り目を通すと、隣にいるジンにファイルを渡した。  ジンは受け取った書類を黙って読んでいる。ユーシーはその隣でぼんやりとその様子を眺めた。 「いいんですか、こんな条件で。おたくのメリットがあまりに少ないようですが」  レイは少しだけ身を乗り出し、テーブルの上で手を組んでルイを見た。 「構いません。私のわがままでご迷惑をお掛けしたので」  ルイの声色は穏やかで、ユーシーのよく知るルイの声だったが、自分のことを私、というルイを見るのは初めてだった。  ユーシーはその視線をルイに向ける。仕事をしているルイを見るのは初めてで、不思議な感じがした。ユーシーと話している時よりもずっとしっかりして見える。声にも覇気があるし、心なしか顔つきも凛としている。  まるで別人みたいだとユーシーは思う。石油王ルーの時のルイよりも好きだが、やはり自分といるときの甘く柔らかな空気を纏うルイが好きだった。 「レイさん」  ジンが黙ってレイにファイルを手渡す。それは異議なしという意味のようだった。  受け取ったレイはファイルを開いた。 「この内容で構いません、ルイさん」 「感謝します、レイさん」 「さて、型式的なものはここまでにしましょうか」  レイは懐から取り出したペンを走らせ、書類にサインをする。二枚の書類にサインをすると、レイはファイルから書類を一枚取り、ジンに渡した。  レイがファイルを置いた回転テーブルを回し、ファイルがルイの元に返っていく。 「ユーシー、退屈だな?」  ユーシーは弾かれたようにレイの顔を見た。レイの視線は温かかった。 「っ、レイさん」 「おいで」  ジンとルイの顔を交互に見てから、ユーシーは席を立つ。レイの傍らに行くと、優しく抱き寄せられた。ルイの前なので、少しだけ焦ったが、レイは特に気にする様子もない。寧ろルイを煽る意図すら感じられた。 「ユーシー、お前はどうしたい?」 「俺は……」  どうしたいか決まっているのに、レイを前にすると上手く言葉が出てこなかった。  喉奥が引き攣ったように痛んで思わず眉を寄せた。 「シャオユー、そんな顔するな」  レイはユーシーの頬を撫でる。 「この和議を成立させたのはお前だ。お前にはわがままを言う権利がある。もう、決めてるんだろう?」  この場で全権を握っているのはレイだ。そのレイがそう言ってくれている。背中を押すようなレイの言葉が胸に沁みた。  まだユーシーが躊躇っているのを察したのか、レイは言葉を継いだ。 「ボスから伝言だ。うちのシマで悪さしないなら好きにしていいそうだ」  レイが微笑んだ。こんなに穏やかな顔のレイを見るのは初めてだった。 「レイさん、ジン」  ユーシーはレイとジンの顔を交互に見た。 「おれ、ルイのところにいっていいの?」  ユーシーの声は掠れ震えていた。 「あぁ」  レイの答えに、頬を温かいものが伝い落ちた。折角我慢していたのに、一度零れ出したそれは止まらなかった。 「っ、ありがとう」  ユーシーは、レイに抱きついた。レイからは花のようないい匂いがした。よそ行きのときのレイの香りだった。 「嫌になったらいつでも戻ってきていいからな」 「ん」  優しく吹き込まれるレイの言葉に、ユーシーは溢れる涙を隠しもせず頷いてみせた。 「さて、ルイさん」  宥めるようにユーシーの頭を撫でながら、レイが口を開く。その声は先ほどまでの穏やかなものよりも幾らか鋭い。 「ここからはまたビジネスの話だ」  レイがその視線をルイに向けた。  部屋の空気が変わったのがユーシーにもわかった。 「ユーシーには、こっちも相当投資してる。それを、惚れました、はいどうぞというわけにはいかない。わかるな?」  ルイの方が年上のようだが、レイは物怖じする様子はない。その物言いはマフィアの幹部のそれだった。レイが組織の中で黒蛇と呼ばれるその理由がわかるような気がした。狡猾で、大胆で、恐れを知らない。相手を容易く飲み込むような威圧感。  ユーシーは改めてレイに畏怖の念を抱いた。  この場の空気は、レイが掌握しているといっても過言ではないだろう。 「ええ」  ルイはそれに怯えるでもなく、静かに頷いた。 そのアイスブルーの目は真っ直ぐレイに向いていた。 「誠意を見せてくれ。この子が、あれくらいの額でどうにかなると思ってもらっちゃ困る」  そうは言っても、ユーシーが手にした金額は決して安いとはいえない額だ。そんなにいいのだろうかとユーシーは思う。石油王ルーにしてみれば痛くも痒くも無い額なのかもしれないが。  レイはユーシーの背を優しく撫でながら、ルイに向けて鋭く言い放った。 「それから。この子に何かあれば、地獄の底まででもあんたを潰しに行くからな」  空気が震えた気がして、ユーシーは息を呑んだ。怒気を含んだような、強いレイの声がまだ耳に残っていた。 「肝に銘じます」  ルイは変わらず穏やかな声で答えた。  ルイに限ってそんなことはないだろうと思うが、レイがそう言ってくれるのは心強かった。 「という訳だ。ユーシー、幸せにな」  ユーシーに向き直ったレイがユーシーの髪を撫でる。 「レイさん、たくさん愛してくれてありがとう」  頬を撫でたレイが、ユーシーを引き寄せ、そっと唇を重ねた。  触れるだけで静かに離れ、ユーシーの目の前に穏やかなレイの笑みがあった。  いつも食い合うようなキスばかりしてきたせいで、ルイの前だというのに物足りなさを感じてしまう。 「疲れただろう。あとはこちらで話をつけるから、もうジンと帰っていいぞ」  ユーシーはちらりとルイを見遣る。 「ルイ」  ユーシーと目が合うと、ルイは眉を下げて笑ってみせた。そうしろ、ということのようだった。 「おやすみ、ユーシー」 「おやすみ」  ルイと短い言葉を交わして、ユーシーはジンに連れられて部屋を出た。  一階に降りて店を出ると、ジンが口を開いた。 「寂しいか?」 「大丈夫」 「嘘つけ、そんな顔してる」  言われて、ユーシーはジンを見上げた。やはりジンには敵わない。何もかも見通されているようで、ユーシーは苦笑した。 「今日は我慢しろ」  ジンにくしゃくしゃと頭を撫でられる。 「忙しくなるぞ。引越しの準備、しておけよ」  ジンは手を挙げて通りを走るタクシーを捕まえた。ジンとユーシーの前に滑り込んできたタクシーが停まる。 「一人で帰れるか?」  今日は一人で過ごさないといけないらしい。嫌だったが、また揶揄われるのが嫌でユーシーは渋々頷いた。 「ん」  そんなユーシーの内心にも気づいているのか、ジンは薄く笑った。 「また連絡する。おやすみ、ユーシー」 「おやすみ」  ジンに手を振ってユーシーが乗り込むと、タクシーは静かに走り出した。  運転手に行き先を告げ、ユーシーは窓の外に視線を投げた。  流れていく車窓には、所狭しと並ぶ眩いネオンが映る。  いつもと変わらず煌めく極彩色の光を、あと何度見上げるだろうとぼんやり思った。  途端に名残惜しくなって、ユーシーは家の前に着くまでずっと、流れていく煌めきを眺めていた。

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