朝がやってきた。 　部屋の青白い眩さに、ユーシーは眉を寄せながら自分を包む温もりに擦り寄った。 　昨日、随分と早い時間に意識を飛ばしてから、一度も目を覚まさなかった。疲れていたのかもしれない。 　自分を優しく包み込む温もりはルイのものだ。まだ重たい瞼を持ち上げれば、寝息を立てながらもユーシーをしっかり抱き締めているルイがいた。 　ルイがそこにいるのに少しだけ寂しい気分が胸にあるのは、香港を発つ日だからだ。 　今日、ユーシーはルイと香港を旅立つ。行き先は聞いていない。ルイと一緒にいられるならどこでもよかった。 「ん、ユーシー？」 　ルイの眠そうな声がして、重たい瞼の下に蕩けたアイスブルーが覗く。 「早起きだね」 「昨日、早く寝たから」 　温かな手のひらに頬を撫でられて、ユーシーは表情を緩めた。 「もう少しこうさせて」 　ルイは甘やかに囁くと、ユーシーを抱き寄せた。 　濃くなる温もりに、ユーシーはうっとりと目を細めた。ルイの温もりに包まれると安心する。瞼が自然と重くなる。 　睡魔はすぐに戻ってきて、容易くユーシーの意識を攫っていった。 　次にユーシーが目を覚ますと、部屋はもうすっかり明るかった。 「おはよう、ユーシー」 　降ってきたルイの声に誘われて重い瞼を持ち上げる。 「おはよう」 　挨拶を返し、ユーシーが声のした方を見る。 　ルイはスーツ姿ではなくＴシャツにデニムというラフな格好だった。スーツ姿ばかり見ていたユーシーには新鮮で、見慣れないせいか変な感じがした。 「まだ時間はあるから、ゆっくりでいいよ」 　ユーシーがのそのそと身体を起こすと、もう支度ができているらしいルイは微笑んだ。 　ルイと迎える朝にはもうすっかり慣れたが、ルイと一緒に旅立ちの支度をするのは不思議な感覚だった。 　ユーシーはルイの希望で、置き忘れたたままになっていた、買ってもらった服に着替えた。 　とろみと透け感のある生地でできたチャイナシャツは、寝起きの温かな肌に、さらりとした感触が心地好い。ボタンを止める。着るのはあの日以来だった。ハーフパンツを合わせ、ソックスを履き、スニーカーを履く。残りはルイがスーツケースにしまってくれた。 「よく似合ってるよ、ユーシー」 　そう言って微笑むルイは嬉しそうだった。 　ユーシーの持ってきた荷物はルイのスーツケースに収まってしまって、ユーシーは手ぶらになった。 　チェックアウトを済ませたユーシーとルイをホテル前で待っていたのはタクシーではなくリムジンだった。 「は、ルイ、なにこれ」 「リムジンだよ」 　映画の中でしか見たことのないそれに、ユーシーは目を輝かせた。 「おいで」 　ルイにエスコートされ、乗り込む。車内は白い革張りで、いつか映画で見たのと同じだった。 　窓から眺める昼前の街は眩しい。 　空は青く明るく、流れていく雲は少しだけ遠くなった気がした。 　いつの間にか、夏が終わろうとしていた。 　見慣れた街を後にして、ユーシーとルイを乗せたリムジンは空港に到着した。 　ユーシーは空港へ来るのも初めてだった。 　明るい光に溢れ多くの人が行き交うコンコースは、猥雑な街とは異なり、屋内なのに開放感すらある。 　時折聞こえる轟音は離着陸する飛行機のものだ。 　遠く聞こえる館内アナウンスは世界各地の地名が聞こえてくる。 「空港は初めて？」 　視線を忙しなく彷徨わせるユーシーをルイが楽しげに見つめる。 「ん」 「広いから、手を離さないでね」 　言われて手を見るが、離そうにも、ルイにしっかり握られて簡単に離れそうになかった。 「うん」 　それでも、ルイと手を繋いでいるのが嬉しくてユーシーは頬を緩めた。 　出国の手続きは何の問題もなく終わり、ユーシーとルイは空港の搭乗待ちのラウンジにいた。 　レイが用意してくれたユーシーの分の書類にはなんの問題もなく、ルイも舌を巻いていた。 　黒を基調とした落ち着いた雰囲気のラウンジで、ユーシーはルイと並んで柔らかなソファに身体を預ける。 　プライベートジェットじゃなくてごめんねとルイがすまなそうに言ったが、空港も飛行機も初めてで、ユーシーには何もかもが新鮮で特に何も気にならなかった。 「シャオ・ユーシー……」 　ユーシーはパスポートを眺めて、そこに刻まれた名前を読み上げる。レイが手配してくれたものだった。初めてまともに中身を見たユーシーは、そこに書いてある名前をじっと見つめる。 　自分の名は、ユーシー。その前に、見慣れない文字が見える。 　隣で一緒に眺めていたルイが静かに口を開いた。 「シャオのファミリーネームは、ジンがくれたんだって」 「ジンが？」 　ユーシーはパスポートに落としていた視線を持ち上げ、ルイを見た。 「俺が拾ったんだから、俺が親みたいなもんだろ、って。レイさんも手伝ってくれたんだけど、ファミリーネームは探しきれなかった。それで、ジンが」 「そっか」 　ジンがそう言ってくれたことが嬉しくて、ユーシーは思わず頬を緩めた。ジンと同じファミリーネーム。これじゃ本当に兄弟みたいだと思う。 「嬉しそうだね」 「うん」 　ジンがセックスだけが愛じゃないと言っていた意味が、少しだけ分かった気がした。 　ジンがくれたファミリーネームも愛だし、レイの作ってくれたパスポートも愛だし、ルイがくれる笑顔も愛だ。やっとそれがわかった。 「ジンは、家族だから。レイさんも」 「僕は？」 　ルイの手のひらが頬を包む。自分もそこに入れてほしいと言いたげなルイの声色に、ユーシーは目を細めた。 「ルイは、恋人だろ」 「僕もそのうち家族になれるかな」 「ふふ、ルイも家族になりてーの？」 「うん」 「俺をシャオユーって呼んだ奴はみんな家族だよ」 　ユーシーは甘く蕩ける笑みをルイに見せた。 　ユーシーの言う家族は、一般的な意味の家族ではない。それでも、その愛が注がれる対象であることに変わりはない。 　そして、愛を注いでくれるものもまた、ユーシーにとっては家族だった。 「ルイ、たくさん愛して」 　ユーシーがその琥珀色の瞳を細めてルイを見上げた。 「仰せのままに」 　ユーシーの真っ直ぐな言葉を受け止めたルイは恭しくユーシーの手を取り、手の甲に唇を押し当てた。 　ユーシーはくすぐったそうに笑う。その琥珀色の瞳に映るのは、美しく煌めくアイスブルーだった。 　夏の終わり、裏街に影を落としていた黒い琥珀の噂は不意に途絶えた。 　石油ルーに手を出して殺されたとか、腕を買われて海外に行ったとか、上海に行ったとか、引退して故郷に帰ったとか。そんなふうに囁かれたが、真相は何一つわからなかった。 　その後も裏街に死体が転がることはままあったが、黒い琥珀が戻ってきたと騒がれることはなかった。 　黒い琥珀の行方も真相も、誰も知らない。 　それでも、黒い琥珀への畏怖が裏街から消えることはなかった。