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第1話

東洋の骨董が飾られた閨房の奥、銀鱗を模した螺鈿細工の香炉が吐く煙の向こうに安楽椅子が鎮座する。 「|浩然《ハオラン》」 磨き込まれた肘掛けから長衫の袖をたらし、安楽椅子で寛ぐ|老大哥《ローダーコー》に呼ばれ、粛々と進み出たのは十代前半の少年。 鱗に似せた光沢ある灰緑の長衫を纏い、かすかに畏怖と警戒を含む表情で老大哥を見据えている。 短く刈り込んだ黒髪の下、切れ長の一重瞼の奥に覗く虹彩は琥珀色に輝き、縦長に窄まった瞳孔は爬虫類の特徴を宿す。何より少年を異形たらしめるのは右半身を覆った灰緑の鱗。 「きなさい」 「|是的《シィダ》」 老大哥の命令に応じぎこちなく踏み出す。一歩、二歩、三歩……。 「止まりなさい」 立ち止まる。 「脱ぎなさい」 「……」 「返事は?」 「|是的《シィダ》」 襟元に結んだ紐をほどき、蛇の脱皮に比類するなめらかさでお仕着せを脱いでいく。 泰然と安楽椅子に座すこの場の支配者は、闇の底をさざなみだてる衣擦れに耳を澄ませ、自ら躾け直した一挙手一投足を鑑賞する。 袖を抜く。 下穿きを落とす。 シルクの長衫を脱いだ体には、夥しい痣と傷痕が刻まれていた。 「可哀想に。酷くやられたな」 枯れ枝の如く痩せさらばえた指が、裸身に散らばる傷を丹念に辿っていく。 老大哥が隅々まで体をあらためる間、少年は微動だにせず突っ立っていた。 「ふっ、く」 内腿に忍ぶ乾いた手のこそばゆさを堪え、萎えた陰茎をゆるゆるもてあそぶ指の底意地悪さに耐え、必死に別の事を考える。 下の名前を呼ばれるのは久しぶりだ。実の父親にさえ片手で足りる程度しか呼ばれた記憶がない。 老大哥は少年の恩人だった。 否、後見人と言い換えるべきだろうか。 出会いは蟲中天主催の悪趣味な余興。 少年は蛇のミュータントと人間の混血だった。 飲んだくれの父は蟲中天に莫大な借金を作り、性奴隷として息子を売り飛ばした。 もとより厄介者だった。 母親の顔は知らない。死んだのか出ていったのかすら不明だ。 過酷な幼児期を辛うじて生き延びてこれたのは、父親にほったらかされた赤ん坊に近所の娼婦たちが同情し、交代で乳を与え世話してやったから。 スラムのあばら家で身を寄せ合い暮らす娼婦たちは、アンデッドエンドで最も迫害される爬虫類のミュータントだった。 少年の名前はそんなあばずれの一人が付けた。大河のように広く大らかで優しい人になってほしいと願いを込めたらしい。肝心の名付け親は性病を患った末、とち狂ってくたばった。 結局の所、彼の名前をまともに呼んでいたのは彼女だけだった。他の娼婦は昔飼っていたペットや捨てられた男、死んだり産み損ねた子供の名前で好き勝手に呼んだ。 アル中でろくでなしの父親は働かず家にいた。 部屋に常に空っぽの酒瓶が転がり、機嫌が悪い時には拳や酒瓶が飛んでくる。 『あの女と同じ目で見るんじゃねえ、二枚舌と鱗が気持ち悪ィ』 本当の地獄が始まったのは、父親が息子を使って稼ぎ始めてから。 きっかけは何だったのか。単なる思い付きか、飲み仲間にでも吹き込まれたのか。 ある時から素行の悪い男たちが家に出入りし始めた。 『来い』 珍しく父親に呼ばれ行ってみたら、ニヤニヤ笑いを浮かべた男たちが待ち構えていた。 息子の上腕を掴んで真っ直ぐ立たせ、酔っ払った父親が捲し立てる。 『俺の倅。ご覧の通り蛇のミュータントのまざりもん、右半身の鱗と瞳が証拠』 太い指で瞼をこじ開け、縦長の瞳孔と琥珀色の虹彩をひけらかす。男たちの一人が口笛を吹き、少年の顎を掴んで値踏みする。 『マジで好きにしていいのか』 『かまわねえ。ごく潰しをおいてやってるんだ、テメェの食い扶持位稼いでもらわなきゃ』 『当局の取り締まりが厳しくなって|鱗狩り《スケイル・ハント》できねえストレスたまってたんだ』 『女じゃなくてもこの際文句は言わねえよ』 顎に指が食い込む痛みに顔をしかめ、逃げようとしたそばから鳩尾を蹴られ蹲り、力ずくで浴室に引きずり込まれた。 そこが少年の仕事場になった。 鱗持ちは爬虫類系ミュータントをさす蔑称。人類の大半は蜘蛛か蛇のどちらか、あるいはどちらにも生理的嫌悪を抱くらしい。 父はミュータントの特徴を継いだ息子を嬲りものとして貸し与え、見返りを受け取るようになった。 何度も骨を折られた。 何枚も鱗を剥がれた。 『おら起きろ、気絶すんのは早いぜ』 『料金ぶん楽しませろ』 鳩尾に狙い定めて食い込む爪先。肩関節が外れる激痛にのたうち、失神したそばから冷水や熱湯を浴びせられ、あるいは風呂に浸けられ叩き起こされる繰り返し。 瞼が腫れて視界が半分塞がった。 唇が切れて鉄錆の味がした。 息子が暴行を受けている間、父親はリビングのソファーに座り、酒を飲みながらテレビを見ていた。 濡れタイルに突っ伏したまま虚ろな目を上げると、バスルームのスライドドアの隙間から、死んだように淀んだ目でテレビを眺める姿がよく見えた。 ナイフで肌を裂かれた。髪の毛を抜かれた。ベルトで鞭打たれた。爪を剥がれた。指を折られた。素っ裸に剝かれ吐いた物を食わされた。 来る日も来る日も知らない男たちにあらゆる手段で痛め付けられた。通いの客は貧乏人・金持ち問わず、共通点は弱者に対する加虐趣味。彼等の鬱憤の捌け口として身を捧げることが蛇の落とし子に唯一与えられた存在意義。 父親はスケイルキラーズ崩れだか予備軍だかに息子を貸し出し、手に入れた金で酒を仕入れ女を買い博打に興じる。 情婦の部屋にしけこんでるのか借金取りから逃げ回ってるのか、家を空ける日も増えた。 やがて常連の一人が出来心を起こす。 『もうおわりか?反応なきゃツマんねえぞ』 好きな客なんて一人もいやしないが、コイツはとりわけ最悪だった。何を隠そうお披露目の時に娘じゃないのを惜しんだヤツで、単純に殴る蹴るして憂さを晴らす連中と違い、いやにべたべた体の裏表をまさぐってくる。 その日はたまたまコイツ一人しかいなかった。暇な時間を見計らって来たのかもしれない。 フックに固定されたシャワーから降り注ぐ湯が、絶え間なくタイルを叩く。 『ぁ、っぐ』 興奮に息を荒げる男。肌を揉む手から伝わる火照り。気持ち悪い。吐きそうだ。何をされてるかわからなかった。 『悪く思うなよ。許しはもらってるんだ、テメェのガキを売った親父を恨め』 『ひッ』 『蛇はケツで孕むんだよ。スケベな体だよな、オスもメスも関係ねえ』 しきりにタイルを引っ搔き、生まれてこのかた排泄にしか使ってこなかった尻穴をほじくり返す激痛に耐える。 男が動き出す寸前にドアが開き、酒瓶をひっさげた父親が立ち塞がった。 『何やってんだ!!』 野太い怒号が響き渡った次の瞬間、粗末な下半身を露出した男が引き剥がされた。 『人んちの風呂場をクソまみれにする気か!』 『好きにしていいって言ったじゃねえか!』 『ガキにさかりやがって、気持ち悪ぃんだよ出てけ!』 未練がましい男を叩き出し、盛大なげっぷをしてソファーに沈む。 父親に庇われたのはあれが最初で最後だった。 何故普段は放置していたくせに、犯されそうになった時だけ止めに入ったのだろうか。 親子の情など最初から通ってなかった。 変態を追放した理由は年端もいかない子供に、それも同じ男に鶏姦を働こうとした事実を嫌悪したからに他ならない。 にもかかわらず、うっかり感謝してしまった。 片や父親はもっと稼げる、別の使い道を息子に見出した。 ある時から父は息子に客を寄せ付けなくなった。 さらには経済状況が許す範囲でまともな食事を与え、せっせと怪我の手当てをし、健康がある程度回復するのを待って哀れっぽく持ちかけたのだ。 『俺はもうだめだ|浩然《ハオラン》、酒の飲みすぎで手の震えが止まんねえ。お前は十……十一か、一人前に働ける年頃だろ。このままじゃどのみち食い詰めて共倒れだ、代わりに出稼ぎに行ってくれ』 息子の年齢さえ正確に覚えてないクソ親父でも、惨め極まる涙目で縋り付かれちゃ断りにくい。 『そうかそうか受けてくれるか有難てェ。引き取り先は蟲中天、詳細は向こうで教えてくれるって話だ。せいぜい頑張って出世しな、上の連中に気に入られたらいい暮らしができるぜ。大きくなったら迎えにきてくれ、待ってっから』 最後まで迎えにくるとは約束しないのがこの男らしいといえた。 詰まる所父は風呂場を汚されるのを嫌っただけで、自分の目の届かない場所で半分血を分けた息子がどんな仕打ちを受けようが関心はないのだと、悟った時には手遅れだった。 「ッ、は」 じっとり汗ばむ手を握り込み、頼りなくわななく膝を気力のみで支え、一方的に与えられる快楽の波をやり過ごす。 「わかるな。勃ってきたぞ」 「……はい」 「声を出してもいいぞ」 含み笑いを交えた許可に唇を噛む。老大哥は不能だ。どんなに奉仕しても勃たない。だからだろうか、自ら抱く代わりに脱がしてもてあそぶのを好む。 「もうそのへんで、うっ」 「媚びるのが上手になったな。飯は満足に食えているか」 「はい」 「背が伸びたな」 「老大哥の慈悲深いはからいのおかげです」 「少し太った、いや、育ってきた」 皺ばんだ手が尻をなで肉を揉む。 「喉仏も張ってきた。もうすぐ声変わりが終わる。子供と大人の過渡期の掠れた喘ぎが聞けなくなるのは残念じゃが」 裏返した手で首筋をさする。 落ち窪んだ眼窩の奥、老獪な眼光が熱を孕む。 「その目」 人さし指と親指で片方の瞼をこじ開け、金属質にきらめく瞳をさらす。 「その鱗」 右半身の鱗を人さし指で伝い、呟く。 「お前は儂のお気に入りじゃ、無茶な調教で潰すのはあまりに惜しい。例の調教師はキツく叱っておいたから安心なさい」 偶然ショーを見に来たマフィアの重鎮に気に入られたことで、少年の扱いは格段に良くなった。 老大哥は贔屓の少年がキズモノになるのを厭い、直属の調教師に待遇の改善を命じた。 まだ生かされているのは蟲中天の大幹部の口利きあってこそ。 先輩の蜘蛛女曰く、地下に送り込まれたガキの寿命はもって三年。老大哥の庇護がなければ連日に及ぶハードな調教で身も心も壊れ、今頃処分されていた。 この人には色々なことを教わった。 正しい箸の持ち方使い方、字の読み書きに服の着方に礼儀作法、世渡りに必要な最低限の知識と常識と教養。 あの親と調教師のもとでは絶対身に付かなった、どん底から這い上がるための知恵。 老大哥のお気に入りでいる限り将来は安泰だ、少なくともゴミみたいに始末される心配はしないですむ。 実の父と男たちと調教師の仕込みで自尊心はすり潰され、行動を縛る羞恥心は一枚一枚削り殺された。 寿命の足しになるなら何でもする、何でもできる。 生きることそのものが復讐になるのなら、とことん生き汚くなってやろうと覚悟した。 「老大哥」 全裸で這い蹲り、爪先に接吻する。 「謝謝……感謝してます。貴方は命の恩人です」 仰々しく手をとり、甘えるように頬ずりし、心臓の上で忠誠を証す誓いを立てる。 「俺は貴方のもんです。一生かけて尽くします」 「ならば……わかっておるな」 「|是的《シィダ》」 「|好《ハオ》。行ってきなさい」 老大哥が莞爾と微笑む。 素早く踵を返し、豪奢な天蓋が付いた寝台に下りた帳をかき分ける。 典雅な調度で統一された閨房には馥郁たる香が焚かれ、かすかに色付いた煙が揺蕩っていた。ひょっとしたら阿片か何か、媚薬の成分が含まれているのかもしれない。濃密な煙に巻かれ考える。 絹の褥には冷たい鱗で全身を覆われた、老大哥の愛娘が横臥していた。 性技を見世物にすることで少年は生きてきた。 これはその延長の戯れ。 長大な胴が艶めかしく蠢動し四肢に絡む。 抱擁、あるいは交尾の真似事。 老大哥に飼いならされた大蛇の性質は極めて温順だが、今は室内に焚かれた煙のせいで発情し、平素に増して動きが活発化している。 「よしよし、怖くねえ」 丁寧になめてさすり、しどけなく縺れ合い倒れ込み、脚の間や腋を好きにくぐらす。 育ちすぎた蛇が鋭い呼気と共に二股の舌を出し入れし、少年と同じ琥珀の瞳を光らす。 偏屈で有名な老大哥が少年を見初めたのは、彼の目がペットと同じ色をしてたから。 付け加えるなら鱗の色も同じときて番いには理想的。 人と蛇の交わりを眺めるのが、男性機能が衰えた老大哥の密やかな趣味だった。 太い尾が螺旋を描いて脚に巻き付き、なおずるずる滑りながら這い上がり、ひんやりした鱗が肌の火照りを吸い取っていく。 ドクンドクン響く鼓動がうるせえ。 ぬくい人肌がうざってえ。 拳。平手。鞭。煙草。熱い。痛い。脱皮してえ。蛇はいい、一緒にいても痛いことをしねえ。俺をぶったり蹴ったりしねえ。 人肌は嫌だ、嫌いだ、もううんざりだ。ひやっこい鱗に包まれて、全部うっちゃって眠りてえ。 本当に蛇だったらいいのに。 ああそっか、人にも蛇にもなれねえ半端もんだから見下されんのか。 だったらとことん滅茶苦茶やって、嫌われもんのガラガラ蛇を目指してやろうじゃねえの。 誰彼構わず噛み付いて毒で殺す、傍若無人なガラガラ蛇に生まれ変わってのさばりてえ。 二枚舌上等。 切り札の牙は研いでおけ。 お前らが吐いた唾のぶんだけ磨かれた鱗を箔にして、俺様はラトルスネイクになる。 くそったれたこの世に憚る、皆に憎まれて上等のガラガラ蛇に。 闇の中で鼓動が膨らむ。 うるせえ。 いらねえ。 どんどん大きくなる。 鼓膜を蹴っ飛ばす。 「|浩然《ハオラン》」 ぬくい人肌に包まれ薄っすら目を開く。マタニティドレスを纏った女がベッドに座し、膝枕に据えた呉の頭をなでている。 即座に腕を回し、後ろから頭を押さえ込んで唇を吸った。 深く鋭く牙を突き立て、魂の一部を齧り取るように。 「|夜鈴《イーリン》」 間一髪、息を吹き返す。 「やっと起きた。膝が痺れちゃった」 「悪ィ」 「今日は素直ね」 「謙虚な俺様ちゃんは白と黒の比率が逆転した|熊猫《パンダ》並にレアって噂」 「自分で言うかなあ」 苦笑いで茶化す夜鈴の頬に手をさしのべ、今度はより繊細に、味わうように唇を重ねる。 「惚れ直したって言え」 夜鈴はよくできた女だ。目覚めた男に向かい、いちいち「うなされてたよ」なんて言わない。 「頼みがある」 「何?」 「乳揉ませろ」 額をはたかれた。 「いってえ」 大袈裟に痛がる呉を冷ややかに睨み付け、高飛車な態度で説教する。 「ちょっとは妊婦を労わりなさい」 「母乳は」 「最低な冗談ね、産まなきゃ出ないわよ」 夜鈴の腹はほんの少し膨らんでいた。現在五か月、安定期に突入して間もない。 「男か女か早く知りたい?」 「別に……」 両手に交互に銃を投げ渡し言葉を濁す。 正直な所、父親になる実感なんてこれっぽっちも湧かない。 夜鈴が孕んだのは偶然の結果。 軽薄な見た目故誤解されがちだが、呉は避妊に気を付けている。常に不特定多数の愛人を囲い一人に深入りしないようにしてるのも、余計なしがらみを作りたくないから。 否、「していた」と過去形で語るのが正しい。他ならぬ夜鈴との出会いによって前提は覆された。 現在ふたりは同棲している。今夜も会合を終えた足で寄り道せず直帰した。 弾丸を抜いたリボルバーのシリンダーを華麗に回し、前々から胸に折り畳んでいた疑問を呈す。 「お前さァ、コンドームに針刺した?」 「はあ?もっぺん言ってみなさい殺すわよ」 「ちゃんと嵌めてハメたよな?」 「コンドームは絶対じゃないから。文句があんならアンタの|下半身の暴れん坊《ラトルスネイク》に言ってよね」 「だとさラトルスネイク、元気よすぎんのも困りもんだな」 下品な痴話喧嘩を繰り広げ、真顔で睨めっこしたのち吹き出す。 「寝てる時にお腹蹴っぽったの聞こえた?」 「あ~どうかな……」 銃をくるくる回ししらばっくれる呉を見詰め、再び揃えた膝をぽんぽん叩く。 「もういいって、とっとと晩飯食って寝ようぜ」 「だ~め」 「チッ」 「舌打ちは胎教に悪い。銃も置いて」 「弾は入れてねェ」 「暴発の危険があるのは下半身だけで十分」 「妊婦が下ネタ連発すんのは胎教に悪くねェのかよ、納得いかねえ」 根気強くなだめすかされ渋々横になる。 夜鈴が真上から覗き込み、愛情深い手付きで髪の毛を梳く。愛用のサングラスは柄シャツの胸ポケットに畳んで引っ掛けたまま。 コイツをしないのは愛する男が素顔でいられる特別な時間を夜鈴が望んだから。 『綺麗な瞳をしてるのに隠しちゃもったいないでしょ』 『気持ち悪くね?』 『全然』 呉の瞳を独り占めできる特権を夜鈴は無邪気に喜んだ。 『それにキスするとき邪魔じゃない』 特等席から見上げる夜鈴は本当にいい女だ。 華奢な肩を経て雪崩落ちるストレートの黒髪も、品よく尖った|頤《おとがい》に続くなだらかな頬も、長い睫毛に沈む黒曜の瞳の潤みも、惚れた女の全てを独占できることに至福を感じる。 赤ん坊は余計だ。 夜鈴がどうしてもと言って譲らないから、仕方なく産むのを許しただけ。 彼女の性格上反対した所で一人で出産に踏み切ったであろうことは想像に難くない。 だからきっと、コイツだけは手放したくないと思ってしまった時点で呉の負けなのだ。 「目を閉じて」 「是」 「お腹に耳付けて」 「ん」 ほんのり丸みを帯びた下腹に寄り添い目を閉じる。 「さわって」 夜鈴が呉の手をとり子宮の上に持っていく。 「……聞こえた」 次いで手のひら全体が弾み、琥珀の瞳を大きく見開く。 「蹴った」 「元気でしょ」 手のひらに染み渡るぬくもりに怯み、一旦指を引っ込め、気を取り直しまた当てる。 「すっげ、ぼんぼん言ってら。前世は柱時計か?」 胎児との距離感を測りあぐね、ドン引くやら感心するやらはしゃぐやら大忙しの百面相で慌てる呉を見守り、夜鈴の唇が綻ぶ。 「どっち似かしら」 「お前に似て男勝りなお転婆娘かも」 「|浩然《ハオラン》似のやんちゃな男の子かもよ。銃の撃ち方は教えないでね」 「え~マフィアの息子だぜ?」 「早死にしてほしくないもん。もちろんあなたも」 「いい父親になる自信がねえ」 夜鈴がプッと吹き出す。 呉は気分を害す。 「おい」 「ごめ、だって、あはは」 「俺様ちゃんの一世一代の告白を笑うんじゃねー、シリアスな雰囲気ぶち壊し」 「改まって何だと思ったら言うにこと欠いて、あはっ、ぃひっ、アンタほんとにあの怖いもの知らずの|ガラガラ蛇《ラトルスネイク》?気に入らない事があれば所構わず二挺拳銃ぶっぱなし邪道は|蛇《じゃ》の道で罷り通る蟲中天の切り込み隊長!?」 「黙れクソ女」 余程ツボにはまったのか、平手で床を叩き爆笑する夜鈴の膝枕から跳ね起きると同時にデコピンが炸裂。 「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!」 「だから胎教に悪いって言ってんでしょクソ野郎」 「クソ野郎は良くてクソ女は駄目って差別じゃねーか」 「どうしても罵りたいならクソ女房って言いなさい」 「籍入れてねーもん」 「今からだって遅くないわよ」 「|好《ハオ》、なんて女だ」 夜鈴の首に腕を回し、力ずくで引き寄せる。仰向けた顔には清々しく吹っ切れた笑み。 「お前ってばホント最高」 「妊娠中はしない」 「安定期入ったんだろ」 「絶対じゃないから」 「頑固な女」 「尻軽な男」 「今は一途」 「どうかしらね」 数呼吸の沈黙を破り、珍しく歯切れ悪く聞く。 「いい父親って何だ?」 すかさず呉の顔を手挟み、真剣な表情で教え諭す。 「私かこの子かどっちかしか助からない時、迷わず私を切り捨てる男」 「無茶いうなって」 「できるわよ。私が惚れた人だもん」 「どっちも助けるってのは」 「そうできたら最高だけど世の中上手くいかないもんよ。あんたも私もよく知ってるでしょ」 「お前をとっちゃだめか」 「許さない」 「我爱你」 「軽蔑する」 「マジか~……」 「二股はだめ。この子に決めて。それが私のお願い。愛し方がわからないなんて戯言いわないで、最初から父親になれる男なんていないの、子供に育てられて親になっていくの。もちろん母親も」 「お前はいいお袋になるよ。俺が保証する」 話を逸らす呉の目をしっかり捉え、念を押す。 「ねえ|浩然《ハオラン》、約束して。私かこの子、どっちか撃たなきゃいけない日が来たら……そんな日が来ないこと祈るけど、もし万一来ちゃったら、貴方の太くて固いのは私に頂戴」 切実な目で呉を凝視し、その手に手を添え銃を握らせ、自分の胸へと導く。 「ラトルスネイクの|弾丸《殺意》は全部受け入れてあげるから、|呉浩然《ウー・ハオラン》は残りの人生全部賭けて、私が産むこの子を守って」 玲瓏と澄む声で囁き、放心状態の呉の手を導き、トリガーを絞らせていく。 シリンダーが緩慢に回転し、弾倉が一個ずれ、空砲が虚しく鳴り響く。 夜鈴が微笑む。 「名前を付けてあげて」 「性別もわかんねェのに?」 「産まれてからね」 長い付き合いのリボルバー銃を手放し、ぬくい人肌を求めて目の前の女を抱き締める。 四か月後、夜鈴は元気な女の子を産んだ。 呉は夜鈴の器量と自分の鱗を継いだ娘に|诗涵《シーハン》と名付けた。彼女の人生が歌うように楽しい想いで満たされてほしいと祈り。

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