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第5話
呉が家を出て半月経った。
夜鈴は幼い娘を世話しながら、|胡同《フートン》のアパートで薄情な男の帰りを待ち侘びていた。
「はいどうぞ。いただきます」
黒髪をおさげに結ったシーハンは近くでお人形遊びをしている。
聞き分けの良い利発な子で、殆ど手を煩わせることがない。父から遺伝した灰緑の鱗、爬虫類の形質を継いだ琥珀の瞳を除けば、どこにでもいる普通の子だ。
台所のテーブルでは護衛が居心地悪げにお茶を啜っていた。
「おかわりは?」
「とんでもありません、俺たちのことは気にしねえでください。警護を仰せ付かってる身で気い遣わせちゃ叱られます」
「お昼ごはんは?」
「ホント勘弁してください」
「姐さんの手料理ごちになるなんて恐れ多いっす」
恐縮する護衛たちを見比べ含み笑い、ふいに真面目くさって訊く。
「あの人がどこにいるか知ってたら教えてちょうだい」
「すいません言えません」
「だと思った」
「バラしたら〆られるんで」
「ダメ元で聞いただけ」
行き先は知らないが、愛人のもとを渡り歩いているのだろうと予想は付く。
同棲を始めて三年、大小合わせた痴話喧嘩は増えたがこんなに長引くのは初めてだ。
お互い意地を張り合ってるのは認める。
夜鈴にも悪い所があった。とはいえ、こちらから頭を下げる気にはなれない。
呉は呉で一応妻子の安否が気にかかるのか、若い護衛を二人詰めさせていた。
やけにそわそわしている彼等に微苦笑で指摘する。
「煙草?」
「あ、いえ……」
「喫いたいなら外でお願い。子供がいるから」
「了解しました」
「序でにお昼とってきたら?近くに安くて美味しい食堂があるわよ」
護衛が顔を見合わせる。
「けど姐さん、ふたりとも離れるわけには」
「そっすよ、せめて片方残ってなきゃ」
「大丈夫、この半月何も起きなかったでしょ。少し位息抜きしたってバチ当たらないわ。それに」
言葉を切り、悪戯っぽく笑って付け加える。
「怖い顔したお兄さんたちにずーっと居座ってられちゃシーハンが怯えるのよ、たまには親子水入らずで過ごさせて」
名前を呼ばれたシーハンが人形を抱っこして歩み寄り、母の後ろにサッと隠れる。
引っ込み思案の幼女にチラ見され、今度は護衛たちが苦笑する番だ。
「んじゃ遠慮なく」
「すぐ帰ってきますんで、戸締まりしっかりしてくださいよ」
「ハイハイわかってるから心配しないで、いってらっしゃい」
護衛たちも気詰まりだったのか、それ以上はごねず夜鈴の勧めに従い、意気揚々外へと繰り出す。
煙草をふかし去りゆく背中を窓辺にたたずんで見送り、足元に纏わり付くシーハンを抱き上げる。
「アタシたちもお昼にしましょうか。シーハンは何食べたい?」
「……たんる」
「糖葫芦はないなあ。別のでもいい?」
「たんるがいい」
シーハンが舌足らずにせがむ。
昔はもっと活発でお喋りだった。赤ん坊返りしたように無口になったのはここ数か月、呉の素行が原因で爪弾きにされてから。
今ではおままごと中の独り言と母を呼ぶ時以外、めったに声を聞かせてくれない。
「そうね。糖葫芦はシーハンの大好物だもんね」
「ん」
「春節のお祭りでも食べたし、爸爸がよくおみやげに買って帰ってくれたもんね」
一家がまだ幸せだった頃、夫婦仲が冷え込む前の話だ。
お互い惚れ合って一緒になったはずなのに、シーハンの成長に伴い子育てを巡るすれ違いが増え始め、気付けば別居に至っていた。
こんなはずじゃなかった。
舎弟たちが飲み干した猪口を片付け、ため息吐いて遠くを眺める。
「……今度来るとき爸爸が買ってきてくれるわよ、きっと」
「帰ってくる時」とは言えなかった。ここが呉の帰る場所足り得ているかも懐疑的だ。
小声で独りごち、数年前の出会いを回想する。
初めて会った時、呉はポン引きの元締めをしていた。夜鈴自身も駆け出しの娼婦にすぎず、マフィアとねんごろになるなんて想像すらしてなかった。
第一印象は最悪だった。
まずは服の趣味の悪さにあきれた。顔立ち自体はそこそこ男前なのに、派手な柄シャツとピンクに染めた頭が台無しにしている。
『どうして髪ピンクにしたの?』
『似合ってんだろ』
『即答できかねるわね』
『ガキの頃好きだったコメディアンの影響』
彼は笑った。
『髪の色を明るくしたら頭ン中もパーッと晴れて、人生楽しくなりそうじゃん』
面白いことをいうひとだと思った。
『今は?人生楽しい?』
『そこそこってとこ』
『あなたが思い描く楽しい人生って』
『うめえもん食っていい女抱いて、気分で拳銃ぶっぱなして気に食わねーヤツぶっ殺して回る』
『そのいい女枠まだ空いてる?』
『ゲテモノ好きかよ。鱗持ちにそそられるとか引くね』
付き合い始めてすぐ全身に散らばる古傷に気付いた。誰にやられたのか問い詰めれば「色々」と濁された。人数が多すぎて本当に覚えてないのかもしれない。
夜鈴が惹かれたのは呉の強さではなく、肩で風切り無頼を気取る彼が垣間見せる弱さだ。
同棲開始からしばらくして、時折呉がうなされるのを知った。
『|主人《ジューレン》』『対不起』と何度も繰り返し、汗をびっしょりかき、トイレまで這いずって便器に吐く。
ご主人様ごめんなさい。
許してください。
次は上手くやります。
胃液を拭いえずく姿はとてもちっぽけで、離れて見守るだけで胸が痛んだ。
そんな時は膝枕をし、まどろむまで話を聞いてあげた。
夜鈴が知っていること。
呉は子供の頃親に売られ、金持ちの慰み者にされ、のちにそこを逃げ出し老大哥に拾われた。
『老大哥は恩人?』
『どっちかってーと新しい飼い主ってとこ』
『言い方』
『事実だもん』
酷い体験の詳細はあえて詮索せず、気が済むまで聞き役に徹した。
どんなに眠くても求めに応じ、柔肌で温めてピンクの髪を梳いてやると、じきに規則正しい寝息を立て始める。
とてもマフィアの幹部とは思えない、子供っぽい寝顔だった。
シーハンを身ごもったと判明する少し前、頻繁に見る悪夢の内容を少しだけ打ち明けてくれた。
『蛇が入ってくるんだ』
『蛇ってあの蛇?にょろにょろの』
『その蛇』
琥珀色の瞳を倦んだように瞬き、閉じて。
『体中の穴ってから穴からもぐりこんできて、苦しくて窒息しそうになんの。外にいるヤツは体に巻き付いて締め上げて、それが苦しくてたまんねえ。外野は笑って見てるだけ。目ェ覚めてからもまだ体ン中に巣食ってる気がして、胃のあたりで蠢いてる気がして、ゲエッてしちまうわけよ。ださ』
薄目を開けた顔を覗き込み、前髪をかきあげる。
『じゃあ、アタシが追っ払ってあげる』
呉が酷い体験をしてきたのには薄々勘付いていた。
この世界には子供を食いものにするろくでなしがたくさんいる。
彼もまたそんな連中に搾取され、利用され続けてきたのだろうと推し量ることができた。
だから夜鈴は彼の頬に手をあてがい、繰り返しこうさとすのだ。
『悪い蛇はもういない。ここあなたと私のおうち。誰もあなたに酷いことなんかしないし、痛い目になんてあわせない。ぐっすり眠っていいのよ』
ねえ知ってる浩然、東洋には夜に口笛を吹くと蛇がくるって迷信があるのよ。
じゃあ夜に鈴を鳴らすとどうなるのかしら。
正解はね、怖い蛇がいなくなるの。
私はあなたのお守りの鈴。
ずっとそばにいる。
約束。
夜鈴が添い寝するようになってから徐々に悪夢にうなされる頻度は減っていき、呉は今の命知らずで怖いもの知らずの呉になった。
「シーハン……爸爸がいなくてさみしい?」
シーハンは頑なに俯いたきり答えない。母の首を抱き締め、唇を噛んでいる。
「もし爸爸と妈妈がバイバイしたら」
先を続けられずうなだれる。
あの人に手料理をこしらえるのが好きだった。
最初の頃、呉は味の違いがよくわからないようだった。何を食べても同じだと言っていた。
それでもせっせと作り続け、漸く「好吃」とぶっきらぼうに言ってもらえた方は嬉しかった。
呉が帰ってこなくなり半月、身勝手な夫に対する不満と怒りにも増して、寂しさと喪失感が胸に居座っている。
会いたい気持ちが募る一方で避けられぬ終わりを予感し、破局を先送りしたいと悪あがきする見苦しさに嫌気がさす。
「ちゃんと食べてるかしら」
窓に手を翳し、元気でいてほしいと祈る。
子供を撃ち殺したことは許せない。許せる日がくるとも思えない。母親なら尚更だ。
なのに何故どうしようもない男への愛情が薄れないのか、彼に幻滅しながら別れられずにいるのか。
自分にマフィアの女房としての覚悟が足りないのだろうか。
彼は彼なりに努力している。
シーハンが産まれてから妻子に手を上げたことは一度もない。この前だって寸手で踏みとどまり、家具や皿を壊すだけで出て行った。
交際中に無理強いされた行為を思い出せばよく我慢している方だ。当時の呉は度々夜鈴に手を上げ、犯し、勢い余って首を絞めてくることさえあった。
どんなに虐げられてもそばを離れなかったのは、衝動に任せ暴力を振るった呉自身がもっとも傷付いているように見えたから。
呉は暴力とセックスをコミュニケーションの道具として生きてきた男だ。ほかに意思疎通の仕方を知らないのは不幸だ。
子供を産んでも行いが改まなければきっぱり縁を切り一人で育てようと決断したものの、幸いシーハンを殴ることはなく、不器用にあやす光景を微笑ましげに眺めて安堵していた。
あるいは夫として父親として、僅かなりとも自覚が芽生えたのか。
ちゃんと会って話したい。
帰ってきて。
元気な顔を見せて。
前回話し損ねたが、呉は賞金稼ぎの免許を持っている。凄腕ガンファイターの武勇伝は轟いており、マフィアを辞めても稼げるはずだ。
もちろん夜鈴も働きに出る。
少し妬けるけど、腐れ縁の元相棒を誘って組むなら応援したい。
食堂の手伝いでもスーパーのレジ打ちでもなんでもして、今度こそ幸せな家庭を築く。
マフィアと賞金稼ぎなら後者の方がまだ安全。市井の子供にはヒーロー視されてるし、シーハンだって胸を張って友達に自慢できるはず……。
突如として不穏なノックが鳴り響く。
「大変です小姐、呉哥哥が大怪我を!」
恐れていたことが現実になった。
愛する夫の危機に警戒心が蒸発し、勢いよくドアを開け放った夜鈴が凍り付く。
目が覚めたら女が背中を向けて寝ていた。一瞬夜鈴と勘違いし、髪に指を通してから別人と悟り、露骨に落胆する。
「くあ」
尖った犬歯を見せあくびする呉の横で女が起床し、後ろから抱き付いて甘えてくる。
「昨日は最高だったわ哥哥。噂に違わぬ暴れんぼうね、痺れちゃった」
右半身を覆ううろこに触れ、熱っぽく囁く。
夜鈴と派手にやらかしたのち、愛人の家や腐れ縁の神父のもとを渡り歩き、気付けば半月が経過していた。
夜鈴とは一切連絡をとってない。
シーハンがどうしてるかはわからない。
お節介な神父は雁首揃えて告解室に来いとかのたまったが、いざとなると身内の恥をさらすようで尻込みする。弱みを掴まれるのは癪だ。
「また会えるでしょ」
「イイ女におねだりされちゃ断れねーな」
胸の前で組まれた手をあやすように叩き、片足にジーンズを通す。
この半月、当て付けのように女を抱いた。娼館を貸し切り乱交に耽ることもあった。
伴侶に対する裏切り行為を働いても、罪悪感や後ろめたさはちっとも感じない。
いっそせいせいした。
一人の女に操を立てるなど、もともとガラじゃなかったのだ。
どうかしてたんだ俺は。
夜鈴と出会い、所帯を持った三年ですっかり腑抜けちまった。
牙を抜かれた毒蛇に存在価値はねえってのに。
「もっかいする?」
裸の背中で乳房が潰れて広がり、下半身の熾火が燻る。
振り向きざま押し倒し、豊かな胸を揉みしだく。女が蓮っ葉な嬌声を上げ呉を迎え入れる。
「髪黒くしないの」
「似合ってんだろピンク」
「エッチな色。個人的には嫌いじゃないけど、黒くしたら男前が上がるわよ」
赤く色付いた乳嘴を甘噛みし、潤った陰唇を指で捏ね回す。
「奥さんになりたい。ダメ?」
「愛人で我慢しとけ」
「ケチ」
「俺の嫁さんなんかなっても雑に扱われて泣き見るだけだぞ」
両手で顔を覆い嗚咽する夜鈴と、ベッドで泣きじゃくるシーハンの顔が思い浮かぶ。
別れたけりゃそれもいい。
アイツならシーハンを真っ当に育てられる。
伴侶と向き合うのを避け、話し合いをずるずる先延ばし、今日もまた呉は女を抱く。
セックスに溺れている時と抗争の最中だけはあれこれ面倒くさいことを考えずにすむ。
自分の下でよがる女を冷めた気分で見下ろし、腰の奥に突き入れる。
「ぁッ、あンあっそこッ、気持ちいいっ死んじゃうッ、あぁあん」
セックスは食事や排泄と同じ括りだ。コイツがなければ生きてる甲斐がない。
名前も知らない女を夜鈴の代わりに抱き、後ろから激しく責め立て、繰り返し絶頂に追い上げる。
部屋のドアが激しく叩かれ、ヒステリックながなり声が興を冷ます。
「哥哥大変です!」
「何?取り込み中なんだけど」
「ご自宅に賊が入って夜鈴小姐とシーハンさんが人質にとられました!」
直後に女を突き飛ばし、ジーンズと柄シャツを纏ってドアを開け、血相変えた舎弟に指示を飛ばす。
「車出せ。詳しい話は中で」
「はい」
「ちょっと、まだ途中よ!」
シーツで裸身を覆った女に紙幣をばらまき、振り向きもせずチェックアウト。
モーテルの前に陣取る車の助手席に乗り込み、報告を促す。
「うちに賊が入ったって言ったな」
「ヤクやってるみたいっす」
「護衛に付けた連中は何やってんだ」
「それがその……煙草を喫いに外出てたみたいで。夜鈴小姐がお嬢さんのそばで喫われんの嫌がって」
反射的にダッシュボードを蹴り付けた。
「護衛が護衛対象のそば離れるってオツム沸いてんのかよ、えェ?言ったよな、目ェ離すなって」
「すいません」
自分の不在中敵が差し向ける刺客を警戒し護衛を詰めさせていたにもかかわらず、最悪の事態が起こってしまった。
ジーパンに突っ込んだ銃を無意識にいじくり、撃鉄を上げては下ろす繰り返しで焦りをごまかす。
タイヤがアスファルトを噛んで急停止する。アパート前には人だかりができていた。現場に詰めかけた野次馬の視線の先、人相の良くない連中がうろうろしてる。
「早くヤクと金もってこい!車もだ!」
アパートの中からとち狂った怒号と子供の泣き声が聞こえてきた。
シーハン。
「呉哥哥」
現場に散開した舎弟たちが駆け寄り、護衛が顔を強張らせる。
「すいません、ちょっと出かけた隙にあのド腐れ外道が」
言い訳する暇を与えず顔面に銃床を叩き込み、鼻っ柱をへし折る。
鼻血と歯を撒いて跪く護衛の前を素通り、大股に階段を上がり、懐かしの我が家へ赴く。運転手も付いてくる。
「アホの素姓は」
「強盗強姦の|前科《マエ》があるケチな賞金首っす」
物が壊れる騒音に次いで女の悲鳴が上がり、シーハンの泣き声が激しさを増す。
全身の血が逆流する感覚を味わい、開け放たれたドアから中へ踏み込む。
「どけ」
銃を持ち身構える舎弟を下がらせ、入れ替わりに先へ進み、半月ぶりに妻子と再会を果たす。
シーハンは母の腕の中で号泣していた。夜鈴の髪と着衣は乱れ、顔には青痣ができている。
夜鈴の首に腕を回し、顎に銃を突き付けているのは目をぎらぎら血走らせた若い男。揉み合い中に怪我したのか、額の傷から血が滴っている。
「浩然」
脳裏が灼熱した。
ドアを背に踏み構え、ポケットにさした銃把を掴み、歌うように恫喝する。
「お前さァ、誰の女房に手ェ上げたかわかってんの。薬のやりすぎで脳味噌おしゃかになっちまったか」
「わかってるに決まってんだろ、ラトルスネイク」
強盗が粘着質な笑みを浮かべる。
室内は無節操に荒らされていた。床には皿の破片や箪笥の抽斗が散らばり、あちこち血が滴っている。
夜鈴と強盗、どちらの血かはわからない。シーハンに目立った外傷が見当たらないのだけが救いだ。
呉は低く命じる。
「女とガキを離せ」
「極悪非道のガラガラ蛇も家族は大事か」
「俺のものを好き勝手していいのは俺だけだ。断じてテメェじゃねえ」
「寝取られ亭主が偉そうに」
強盗が愉快げに含み笑い、夜鈴のスカートをもったいぶってずり上げていく。
「お願いやめて」
身悶えして抗うもシーハンを抱いた状態では拒みきれず、遂には太腿の付け根まで捲りあげられる。
夜鈴は下着を付けていなかった。
「女房の具合は上々だったぜ。人妻の味見は癖になる」
「ごめんなさい……」
夜鈴はレイプされていた。暴れたらシーハンを殺すと脅されて。
頭に上った血が瞬時に冷却され、再び下りてくる。
「詫びんな。強姦を浮気に勘定するほど料簡狭かねェ」
夫のとりなしに夜鈴が顔を背けて嗚咽する。
さらに聞く。
「なあお前、これからどうするの。蟲中天に逃亡用の車とカネ用意させて、俺様ちゃんから逃げきれるってマジで思ってんの」
「後のことは後で考えるさ。銃を捨てろよ、女房と娘の命が惜しくねえのか」
強盗の銃は夜鈴のおとがいに擬されている。あの位置と角度は確実に延髄を破壊し致命傷を与える。
いかに呉が常軌を逸した早撃ちといえど、トリガーに指が掛かった状況は暴発を招きかねない。死に際の痙攣が引き起こす筋肉の誤作動は厄介だ。せめてもうすこし離れていれば……
運転手が緊張の面持ちで急かす。
「呉哥哥、どうします」
「車にカネ積んで回せ」
「要求のむんすか。上がなんていうか」
「とっととやれ」
そっけなく命じ、強盗と対峙する。
夜鈴は普段の気丈さが嘘のようにうちひしがれ、シーハンはうるさく泣き喚いていた。
殺伐とした沈黙が落ちる。
呉は嘲った。
「女とガキを渡せ」
「で、その後は?」
そこで一呼吸おき、殺意を込めた眼差しで。
「殺すんだろ。ルオシーみてェに」
「あン?」
聞き慣れない名前に眉根を寄せる。
「やっぱり覚えてねえか。だろうな。お前にとっちゃ運悪く鉄火場に居合わせた、給仕の一人にすぎねーもんな」
強盗があらん限りの憎悪を滾らせる。
「このツラに見覚えは?」
一重瞼と細い鼻梁、薄い唇。どちらかといえば整った顔立ちを胡乱げに観察し、既視感が呼び起こされる。
『災難だったな小姐』
『あ、あの、謝謝』
「思い出せよラトルスネイク。敵のアジトぶっ潰しに行った時偶然生き残った従業員がいたろ、テメエが最後に殺した……」
呉の腕の中で息を引き取った女給。
眉間に穿たれた風穴。
「……復讐かよ。くっだらね」
白けた顔と声で返せば、案の定激昂する。
「俺にとっちゃ唯一の身内だったんだ、ガキの頃親に捨てられてからずっとふたりで支え合ってきたんだよ!アイツを金持ちに嫁がせんのだけを心の支えに頑張ってきたのに、くそったれマフィアどもの抗争に巻き込まれてあっけなく逝っちまった!ルオシーがいねえ人生なんてどうでもいい、てめえは俺が殺す!」
「人んちでキレ散らかすなシスコン野郎。大事な大事な妹がくたばったからヤケんなって賞金首に落ちたとでも言いてェのかよ、責任転嫁マシマシの身の上話なんざ興味ねーしどうでもいいね。てかさー、金持ちに嫁がせんのが夢って金ヅル扱いかよ最低の兄貴だな。高級料理屋で働かせてたのはスケベ親爺に売り込む為?あてがはずれて残念だったな、どーせ小遣いたかりにいってたんだろ」
饒舌に挑発し、死角で撃鉄を上げる。
「妹におんぶにだっこでなにが兄貴だ、笑わせるぜ」
いきりたった強盗が夜鈴を前に突き出す。
「あの時みてえに撃てよ」
「……」
「さあ」
射線を塞がれ狙いが定まらない。
「単なる目撃者は上の命令でぶっ殺せても、テメエの女房は撃てねえってか。ンな甘ちゃんでよく成り上がれたな、ラトルスネイクもたいしたこたねえ。幹部の老いぼれにケツ貸して取り立てられたって噂は本当かよ、萎びたアレをしゃぶってやったのか」
「やけに俺様ちゃんの下半身事情知りたがるんだな、テメエもしゃぶってほしいのか。二枚舌のフェラは絶品だぜ一度体験してみろよ。ああ悪ィ悪ィ強姦でしか勃たねーんだっけ?見下ろさんのは好きじゃねえんだ、相手してほしけりゃ青いケツ剥いて突き出せよ、痔が切れるまで可愛がってやっからさ」
シーハンが異質な空気を察し泣き止み、まん丸い目で不思議そうに母を見上げる。
夜鈴の様子がおかしい。
鳥肌立った下肢が小刻みに震え出し、だらしなく緩んだ唇から涎が滴り、焦点を失った瞳がさまよい始める。
まさか。
「ヤク打ったのか」
「ここにたっぷりと」
強盗が夜鈴のスカートの下をまさぐり、愛液の洪水に濡れそぼった手のひらを見せびらかす。
「はお、らん」
夜鈴が不安定に首を揺すり、潤んだ目で哀願する。
「ふぇぇ」
腕の中のシーハンがぐずりだす。
「てめえの女房に打ったドラッグは凶暴性を誘発する。特に血の色と匂いに興奮するんだとさ」
「さわらないで!」
鋭く制す夜鈴を無視し、額の傷から滴る血を手で受け、きょとんとしたシーハンの柔らかな頬に塗りたくる。
「……お化粧ごっこ?」
「よく似合うぜ」
シーハンが機嫌を直して微笑む。
夜鈴が絶望に凍り付く。
「紅もひいてやる。ほうら、べっぴんさんになった」
呉は依然としてトリガーを引けない。強盗は夜鈴たちを盾にしている。
夜鈴は肩で息をしながら、食い入るような凝視を娘に注いでいる。
強盗が呉に向き直り、勝ち誇って命じる。
「銃を捨てろ」
右手のリボルバーを無造作に投げ捨てた。
「頭の後ろで手ェ組んで跪け」
言われた通りに膝を折り、後頭部で手を組む。
「!ッぐ、」
「いいザマだな」
太腿に衝撃が爆ぜた。銃創から真っ赤な血が溢れ出し、しとどにジーンズを染めていく。鼓動に合わせて疼く激痛が神経を焼き尽くす。
「手は後ろだ」
互い違いに指を組んだ手を頭の後ろに固定し、息を荒げて正面を睨む。
しまらねえ幕切れ。
人生これで終わりか。
脳裏を過ぎる走馬灯はクソろくでもねえ、胸糞悪い情景ばかり連れてきやがる。
俺が死んだら、どっちみち夜鈴とシーハンも後を追わされる。
強盗に捕まった夜鈴と視線が絡む。唇に泡を付け、涎をたらし、不規則に痙攣していた。
「だいじょぶ?」
虚ろな目でブツブツ呟き続ける母を案じ、シーハンが小さい手をのばす。
全てが一瞬のうちに起きた。
夜鈴が声にならない絶叫を上げ、シーハンの首に両手を回す。
ドラッグで理性と腕力の箍が外れた女が、幼児を縊り殺すのは簡単だ。
『二股はだめ。この子に決めて。それが私のお願い。愛し方がわからないなんて戯言いわないで、最初から父親になれる男なんていないの、子供に育てられて親になっていくの。もちろん母親も』
嘗て愛し今も愛してる女が顔半分だけで振り返り、追い詰められた眼差しで訴える。
『ねえ浩然、約束して。私かこの子、どっちか撃たなきゃいけない日が来たら……そんな日が来ないこと祈るけど、もし万一来ちゃったら、貴方の太くて固いのは私に頂戴』
もし今動かなければ、夜鈴は最愛の娘を絞め殺す。
そして多分、二度ともとには戻らない。
陰核に注射されたドラッグは彼女を蝕み、理性的な思考を司る脳部位を破壊していた。
頭のてっぺんから爪先までドラッグ漬けにされた女の末路を、経験則として呉は知っている。
奇跡的に廃人化を免れたところで、我が子を手にかけた所業を夜鈴は絶対許せない。
『いい父親って何だ?』
『私かこの子かどっちかしか助からない時、迷わず私を切り捨てる男』
赤ん坊はいらねえ、邪魔だ。子供なんてこさえねえ、親父なんてがらじゃねえ。
なのになんで
『ラトルスネイクの|弾丸《殺意》は全部受け入れてあげるから、|呉浩然《ウー・ハオラン》は残りの人生全部賭けて、私が産むこの子を守って』
世界で一番イイ女がふたりいて、どっちか一人選ばなきゃいけねえとしたら、俺は俺が愛した女よりもお前に愛せと言われた女をとる。
よく知んねえけど、それが世の中の親父ってもんなんだろ?
俺がなろうとしてなれずじまいで、お前がなってほしいと願った――――
さきほど捨てた銃の片割れを音速で抜き放ち、真っ直ぐ構え、愛した女の姿を余さず瞼に焼き付けてトリガーを引く。
「覚えときな、|ガラガラ蛇《俺》の牙は二本あるんだよ」
夜の鈴が砕け散った。
艶やかな黒髪が扇状に広がり、夜鈴が血をしぶいて倒れ、その胸を貫いた弾丸が強盗の体に埋まる。
彼の最大の誤算は、呉が二挺拳銃使いである事実を失念していた迂闊さだ。
「|你这个混蛋《くそったれが》!」
反撃に転じた強盗の肩と腕と腿にほぼ同時に弾丸を叩き込み、壮絶なダンスを踊らせる。
「ぐはっ!」
人体の痛点を正確無比に撃ち抜かれ、地獄の苦しみにのたうち回る強盗の鼻先を素通りし、血だまりを蹴散らして夜鈴のもとへ赴く。
「それでこそ私の男。惚れ直した」
夜鈴は胸から大量出血していた。唇はヒューヒュー掠れた息を漏らし、目の光は消えかけている。スカートの裾が濡れてるのは失禁したせい。
手が汚れるのも構わず夜鈴の頭を抱き上げ、膝枕に移す。
「シーハン、は?」
「元気」
夜鈴は撃たれる瞬間も後もシーハンを抱き締めて離さなかった。
「よか、った」
窮屈そうに身をよじり母の手から抜け出したシーハンが、夜鈴の顔を間近で覗き込む。
「妈妈?」
「シーハン……ごめん、ね。怖かったでしょ」
少し血を吐き、すぐそこにいる呉を探し求める。
「浩然」
「何だ」
「火傷しなかっ、た?」
何を言われてるかわからず戸惑い、家を出た夜のことを思い出す。
「お茶……熱くなかった?」
夜鈴はあの夜、呉に茶を浴びせたことを詫びていた。
「ぬるくなるまで、待った、んだけど。熱かったらごめん、ね」
ああそうか。
あの時夜鈴は、茶が冷めるのをじっと待ってたのか。本当は張り倒したかったろうに、こみ上げる怒りをぐっと堪えて、俺にぶっかける茶が冷めるまで辛抱強く待ったんだ。
なんでそんなことを、とは聞けなかった。
心優しい夜鈴は、もう手遅れな呉の体に、これ以上傷を増やしたくなかったのだ。
さんざん地獄を見すぎて痛いも辛いもとうにわからなくなった男に、それでも痛い思いをさせたくなくて。
「ぴんぴんしてるよ」
「よかっ、た」
腕が落ちる。
「夜鈴」
小さく名前を呼び、体温が失せた手を握り締める。黒い瞳は濁り始めていた。
「妈妈。おねんね?」
シーハンが母の体を揺さぶる。
呉は夜鈴の髪を梳き、かき上げ、限りなく優しい声音で言い聞かせる。
「大丈夫。怖くねえ」
妈妈、妈妈、妈妈……シーハンが壊れたみたいに呼び続ける。
呉は夜鈴を看取った。
夜鈴は呉の腕の中で息を引き取った。愛娘を託して。
ともだちにシェアしよう!