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第10話
「やくそくやぶってごめんなさい。すごい音したから」
散らかった寝室には場違いな幼女が、父に組み敷かれた神父を目の当たりにして血相を変え、走り寄ってくる。
「来んじゃねえ!」
呉が恫喝。
「っ」
凄まじい剣幕に気圧され、あとずさった拍子に酒瓶を踏み付け転倒。宙に泳いだ手がサイドテーブルの上を払い、床に叩き付けられた写真立てからガラス片が飛び散る。
前腕の鱗が切り裂かれ、ぼたぼた血が滴った。
「シーハン!」
ジーンズを引き上げ飛び出し、呆然とするシーハンの前に跪く。
すぐさま腕に刺さったガラス片を摘まんで抜き、直接口を付け血を啜り、ばい菌を吸い出して吐き捨てる。
「大丈夫か」
「あ……」
切羽詰まった問いかけも耳に入らず、シーハンは床の血痕を凝視して固まっている。
ぱっくり開いた鱗の裂け目に人と同じ色の大粒の雫が盛り上がり、床で弾ける。
「……ごめんなさい……」
呉が困惑する。
シーハンがしゃくり上げる。
「ぜんぶシーハンのせい」
俯いて嗚咽し。
「お昼、たんるがいいって言ったの。|妈妈《マーマ》のごはんなら全部おいしいのに。シーハンがわがままだから、|妈妈《マーマ》は眠ったまんまなの」
「それは違います」
最悪な体調を押し神父が擁護するも、シーハンは首を横に振り続ける。
「|妈妈《マーマ》、シーハンが嫌いになっちゃったの?」
対不起。
「たんるが食べたいって言えば、|爸爸《パーパ》が帰ってくるもん」
対不起。
「|爸爸《パーパ》、たんるが好きでしょ。シーハンと|妈妈《マーマ》、おみやげ待ってたんだよ。毎日まどの所に立って、屋台を見て、今日も来ないねえって言ってたの」
シーハンは夜鈴に食べたい物を訊かれ、糖葫芦と答えた事を悔やんでいた。
自分が駄々をこねたから母が腹を立てたのだと思い込み、罰として他人の手料理を受け付けず。
「ごめんなさい|爸爸《パーパ》、|妈妈《マーマ》がお寝坊しても怒らないで。みんなシーハンが悪いの」
呉が絶句する。
「俺、は」
「……|爸爸《パーパ》、どこかいたいの。お怪我した?」
心配げに囁き、上目遣いに父を覗き込み、ふっくらした手をピンクの髪におく。
「だいじょうぶ。怖くない」
それは亡き母がしてくれたおまじない。
去年の春節の祭りにて、爆竹を怖がりべそをかいたシーハンに、呉が吹き込んだ言葉。
ぎこちない手付きで父の頭をなで、髪を梳き、自分と同じ琥珀の瞳を真っ直ぐ見据える。
子供なんていらなかった。
欲しいと思ったことがなかった。
俺は俺に似た奴を愛せない。
でも。
コイツの半分は、俺の愛した女で出来ている。
今度こそ手を伸ばしてシーハンの肩を掴み、がむしゃらに縋り、深く深くこうべをたれる。
「俺がいなけりゃよかったんだ」
平たい胸に顔を埋め、優しいぬくもりに溺れ、告白する。
「俺が|妈妈《マーマ》を殺したんだ。シーハン」
幼い娘の背中に片腕を回し、不器用に抱き締める。守るように。縋るように。
「すまねえ」
「ラトル……」
「アウル」
きっぱり名前を呼び、シーハンを抱き締めて大事なことを頼む。
「シーハンを預かってくれ。やらなきゃいけねえことがある」
「何です?」
「復讐」
間髪入れず放たれた声は冷えていた。
「死ぬ前に賞金首が吐いた。俺んちをヤツにチクったのは老大哥だ。お慈悲で飼われてる分際で、女房とガキこさえて、ぬるい家族ごっこしてんのが気に入らなかったらしい」
「そんな」
「何から何まで全部奪わなきゃ気がすまねーんだ、あの人は」
呉が出歩いてる間アパートには妻子だけ。老大哥が噛んでいるなら護衛の足止めは簡単。
「用心棒がゲロったよ。近くの食堂で食べてる時、老大哥の配下と|偶然《・・》相席になったらしい。で、話が長引いた」
襲撃の計画は仕組まれていた。黒幕が手引きしたのだ。
「何故今?所帯を持って三年目に動いた理由が解せません」
「大事なものができてから取り上げた方が利くだろ」
皮肉げに唇を吊り上げ。
「老大哥は俺が長衫を捨てたことに大層おかんむり。裏切り者……運転手の野郎が逐一たれこんでやがったんだ。出世に目が眩んだのか賄賂掴まされたのか、なんにせよ甘く見られたもんだぜ」
「運転手は今」
「溶鉱炉に沈めた。序でに俺のお零れに預かった乞食も死んだ。てか殺された」
「確かですか」
「昨日の新聞に出てた。ゴミ捨て場で見付かった死体は裸。さて、長衫はどこ行っちまったんだろうな」
空々しくとぼけ、腕の中で啜り泣くシーハンの頭をなでる。
「近くにいたらコイツが危ねえ。夜鈴の二の舞になる」
「夜鈴さんの遺言を守って、マフィアを辞めるわけにはいかないのでしょうか」
「その段階は過ぎちまってんだよ。老大哥はどうあろうと俺を手放さねェ、最愛の娘の番いだからな」
老大哥の執念深さは異常だ。シーハンを守るにはこれしかない。元賞金稼ぎが切り盛りする孤児院なら、万一刺客を差し向けられても安全なはず。
「ボトムの孤児院なら隠れ蓑にゃもってこい」
「シーハンさんの気持ちは無視ですか」
「エンゼルが生きてたら同じ事したろ」
シーハンに向き直って言い聞かす。
「必ず迎えにいく。神父さまの所で待っててくれ」
難しい話に付いて行けずに黙り込んでいたシーハンが、優しい笑顔に押し切られて頷く。
「俺は蟲中天で成り上がる。仕上げに老大哥を殺す」
数呼吸おいて。
「神父さま、嘘は得意か」
「得意に見えますか?」
「まあね」
首の痣をさすってシャツを羽織る神父を一瞥、大胆な提案を持ちかける。
「二番目の頼み。デマを広めろ」
「どんな」
「目の前で母親ブチ殺された女の子がショックをうけて、イレギュラーの親父を忌み嫌ってるって噂」
眼鏡の奥の目が疑問と非難の色に染まる。
「何故?シーハンさんは貴方を」
「俺はシーハンに負い目があって会いにいけねえ。シーハンは親父を毛嫌いしてる。根性悪の老大哥は親と子のすれ違いを眺めてニヤニヤする」
全てはシーハンを守るために。
「わかんだろアウル。あの人は俺を可哀想なまんまにしときてえんだ」
「シーハンさんと距離を置くのは目晦ましの為、ですか」
「シーハンが俺を嫌いんなって、俺が娘を忘れたふりすりゃ、老大哥は望み通りの結果に甚くご満足するだろうよ」
「くだらないお芝居に付き合えと?」
「ラトルスネイクを女房殺しの冷血漢としてふれこむのがお前の仕事」
心を閉ざしたシーハンに母の仇の父を憎むように仕向け、最終的に孤立させるのが老いぼれの本懐なら乗ってやろうじゃないか。
「テメエはペテンのプロだ、ナイトアウル。何百人もぶっ殺した人殺しの分際で、今じゃ完璧に神父さまになりきってる。話を合わせんのはお手の物だろ」
「一度も会いに来ないのはさすがに」
「養育費は渡しに行く」
「口止め料でしたら受け取れません、なめないでください」
「俺様ちゃんは娘にフラれっぱなしの可哀想な親父。テメエは修道女や知り合いに、ラトルスネイクと娘の断絶を匂わす」
うまい嘘の秘訣は真実をまぜること。
実際に女房殺しの負い目を抱き、シーハンが心の傷を負ったのが事実である以上、この狂言を見破るのは難しい。
清廉潔白な神父が口裏を合わせるとなれば、尚更。
「……博打ですね」
「お前の協力が必要なんだ、ナイトアウル」
「馬鹿げてると言わざる得ません。目的を遂げるのに何年、いえ、何十年かかるんですか。シーハンさんが寂しがりますよ、人の目や耳がある所じゃ徹底的に接触を避けて……」
「隠れて会いもしねェよ。遠くから見るだけ」
シーハンの手に包帯を巻きながら自嘲し、片腕を広げて惨状を示す。
「こんな所にガキをおいときたかねえだろ」
「本当にそれでいいんですか」
「俺は親父に向いてねえ」
「シーハンさんに忘れられても」
「かまわねえ」
「……失うのが怖いから愛してないふりを続けて、その挙句がこれですか」
最後まで死に物狂いに父親であろうとして、シーハンを手放す決断を下す。
「それが貴方の答えですか」
一度目を瞑り、瞼を上げ、床に落ちたロザリオを掴む。
「こんな事お前にしか頼めねえ」
ロザリオを神父の手に捧げ、頭を下げる。
長く重苦しい沈黙を破り、ベッドに腰掛けたナイトアウルが厳粛な面持ちで促す。
「まずは謝ってください」
「何を」
「懺悔をすっぽかしたこと」
「悪い」
「もっと早く頼ってくれなかったこと」
「すまねえ」
「ドラッグ飲ませたでしょ」
「言ったじゃん、ありゃただの痛み止め」
「は?」
「じゃなきゃ今頃大変だぜ、話ができる状態じゃねえよ」
「だってさっき」
「挿れた途端にイッちまったのは単にド淫乱だからだろ」
衝撃の事実にあんぐり口を開けてから咳払いし、噛んで含めるように告げる。
「なるべく早く迎えに来てください」
「待てよ、シーハンは」
「一日だけ時間をさしあげます、親子でゆっくり過ごしてください。リビングで寝ている女性たちはきちんと料金を払ってお帰しくださいね」
自分の退室後、父と娘がどんな会話を交わしたかは知らない。
翌日呉はシーハンを抱いて教会を訪れ、神父と短い会話をし、車に乗って去って行った。
「行きましょうか」
シーハンの手を引いて連れていく間際、彼女が持ったサンザシの飴がけに目をとめる。
「それは?」
「たんる。|爸爸《パーパ》が好きなの」
「おいしそうですね」
「シーハンも好き」
孤児院に届ける前に買ってやったらしい。シーハンがはにかむような笑顔を見せ、糖葫芦をちびちびなめる。溶けた水飴と涎で口のまわりが照っていた。
「少々お待ちを」
その場に跪き、顔をハンカチで拭いてやる。シーハンは大人しくされるがまま、くすぐったそうにしていた。
「神父さまのおてて、おっきい」
「ああ……昔していた仕事のせいでしょうか」
スナイパーライフルの取り扱いをしているうちに神父の指は長く伸び、手は逞しい厚みを帯びた。
シーハンは「ふうん」とませた仕草で頷き、独りごちる。
「|爸爸《パーパ》の手とおそろい」
「え?」
「|爸爸《パーパ》の手もおっきいの。シーハンをなでなでする時や肩車する時、しっかり支えてくれるんだよ。神父さまの手もおんなじ。きれいなお声で|妈妈《マーマ》にうたってあげたとき、ご本押さえた手を見てね、あっ|爸爸《パーパ》の手だあって思ったの」
「あれは聖書を読んでいたのですが」
舌足らずに言い募るシーハンの顔には、呉に対する純粋な愛情と憧憬の念、父の友人である神父へのひたむきな信頼が滲み出ていた。
「私のことは怖くないんですか?」
「あんまり」
「何故」
「|爸爸《パーパ》とおんなじ、やさしいおててをしてるもの」
「神父さまのほうがあたたかいけど」と付け加え、安らいだ表情で手を繋ぎ直す。
大人の男を怖がるシーハンが神父にだけ懐いたのは、大好きな父と同じ手をしていたから。
当たり前だ。
片やスナイパーライフル、片やリボルバーの違いはあれど、ナイトアウルとラトルスネイクは互いに背中を預け、生きるか死ぬかの修羅場をくぐりぬけてきた間柄だ。
人はそれを腐れ縁と呼ぶ。
「シーハンをだっこしてくれた時、ちょっとだけ|爸爸《パーパ》の匂いしたよ」
呉はたびたび神父の部屋に立ち寄り、血や汗が染み付いた服を着替えて行った。
そしてあの日。
神父は呉の私宅を訪れる前に、ベッド下に忘れられたシャツを回収していた。
「|爸爸《パーパ》と仲良しなら、シーハンをいじめたりしないでしょ」
シーハンの声は歌うように無邪気で、朗らかで。
「神父さま……?」
父親を信じていて。
「だいじょうぶ。どこかいたいの」
世界は美しい、人は皆やさしい、父は必ず迎えに来ると信じていて。
孤児院の正面でしゃがみこみ、片手で顔を覆い、俯く。
顔を覆った手の間からくぐもった嗚咽が漏れ、喉が震え、あとからあとから熱い涙が滴り落ちる。
「すいません」
涙で浄められたロザリオが贖いの輝きを増す。シーハンがおずおず手を伸ばし、突然泣き出した神父の頭をなでる。
娘を預ける時、呉は笑っていた。
大事な何かがどうしようもなく壊れてしまって泣けないガラガラ蛇に代わり声を殺して泣き続け、カソックの胸元ごとロザリオを握り、余った腕でシーハンを抱き締める。
役立たずの神とロザリオを呪い、砕けた鈴と魂を想い、慟哭する神父の頭を抱き込み、残酷な運命を知らない少女が柔らかに微笑む。
「|爸爸《パーパ》が言ってたとおり、神父さまは泣き虫だねえ」
串に刺さったサンザシが一粒落ち、地面を転がっていった。
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