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1.飲んで疲れて

 しわだらけの白いシャツが、丸くうずくまる背を一層みじめに思わせる。路地裏のバーの隅で酒を飲んでいた男は今日何度目かの大きなため息を吐いた。ロックアイスがからりとグラスを鳴らせば、酒を注ぎに初老の店主が寄ってくる。 「もうお止めになりますか」  柔らかい声色は、くたびれた男の心にゆっくり染みてくる。 「いや、まだ飲みたい」  黒髪の中に若白髪が混じり、うっすらと見える皺が男に哀愁を漂わせていた。胸元にはそこそこ名の知れた企業の名前が書かれた名札がぶら下がっている。仕事帰りに寄ったのだろう、隣の席には仕事用の革鞄が置かれている。  男以外に客はなく、普段なら洒落たジャズが店内を明るくしているが、今は男の辛気臭さしかない。本来なら店休日だったが、常連である男が店の戸を叩き、店主の厚意で開けてくれている。照明も最小限につけられ普段とは違う静けさと雰囲気に男の酔いは深まっていく。 「……悪いね、マスター。せっかくの休みなのに」 「今日はあいにくの雨ですし、傘もない貴方を放っておくなんてできませんよ」  二月の下旬――未だ冷たい春前の雨は、男の気分をさらに重くしていき、家に帰っても誰もいない独身故の寂しさに耐えきれず、なじみ深いマスターを頼ってきたのだ。 「はぁ……マスターは神様みたいなもんだよ。仕事で失敗続きの僕を助けてくれるんだから」 「話を聞くことも仕事の一つですし、貴方は少し落ち込み方が激しいですからね」  苦笑いを浮かべるマスターから、酔い覚ましの水を渡される。男は礼を言いつつ、一気に飲み干した。 上司からの無茶ぶりを押し付けられ、後輩の不手際に頭を下げる日々だった。課長は内部事情に興味なく左から右に報告を流し、そのツケが男に流れ込んでくるのが常だった。今日も大型案件の資料が間に合わず、スケジュール管理がなってないだの、課内でもっと調整をするべきだの部長に叱られたばかりだ。無論、男だけの責任ではなく隣で叱られていた課長も同罪だが、当の本人は知らぬ存ぜぬの上の空で、課長だけ居残り説教を食らっていた。 『二人とも、人事異動も考えておいてくれ』  ため息交じりの部長の一言は、実質左遷の宣告かと男を愕然とさせた。おかげで残業も残業を重ね、一人居酒屋でやけ酒をかっくらう。傘立てにあったビニール傘は誰かに持っていかれ、千鳥足のまま雨脚が強まる駅前を歩いていた。 「今日は花金、週末でリフレッシュしましょう」 「そんな趣味もないなぁ……。同僚はキャバクラとか行くとか言っていたけれど……得意じゃないし」  近くの繁華街にはそういった店も多く、同僚は上司や後輩と共によく出向いていると言っていたが、男はそういった遊びに興味はなかった。だからと言って付き合っている人もいない。 「普段はどうしているんですか」 「寝てるさ。テレビや新聞を適当に見て、まぁあとは散歩かなぁ。土手進んでいけば公園あるでしょ? 公園のベンチでぼーっとすればあっという間に一日は終わっていくもんだ」 「まだお若いのですから、新しい趣味をはじめてみてもいいのでは」 「そりゃあマスターよりは若いけれど……もう三十路もいいところだし」  苦労を重ねたからか、高校の同級生から言わせると「老け顔」と言われている。しかし、まだ男は30代も前半で、嘆くにはまだ早いとマスターは笑った。 「趣味を始めるに、年は関係ありませんよ。うちの店も最近、ネット環境を良くして、SNSも始めたんですよ」  カウンター越しに見せてきた画面には、店の情報を載せたSNSのアカウントが映っている。店が開いているときは常連客も多く店は賑やかになる。そのためかフォロワーもそこそこの人数がいた。 「それなりに面白くて……。店のアカウントしかもっていないので個人的な発信はできませんけどね。店近くのネタを探しては、おいしそうなお店に顔を出したり」 「SNSねぇ……僕にはどうしても怖くて」 「おや、そうですか? 情報収集だけでしたらそこまで」 「いやほら、テレビでもやってるけど……炎上とか、出会い目的とか」 「まぁ、ありますね……。このあたりでも、家出して、泊る場所の募集かけている子が待ち合わせ、なんてこともあるんですよ」  マスターがスマートフォンの画面を見せてきた。なじみ深い地名とともに先週の金曜日は一、二件ではあるが家出中だという少女の投稿が出てきていた。掲載されている画像にはまだ高校生であろう少女が扇情的な姿をしていた。 「そういうの、疑われるだけでも怖いじゃないですか」 「釣りだということも言われていますが……。用心深いですね」  男自身、用心し過ぎているのは分かっていた。しかし、波風を立たせるわけにはいかない。恋人ができたこともなく、飲み会やまして合コンで目立ったこともない男にとって、女の話題など縁遠い話だった。そんな中少女と話したなどと言われれば、社内でも話題に上がり社会的に問題になることもある。目立ちたくもなく、人生を棒に振る勘違いを生み出したくなかった。 「そうですね……あとは芸術的な趣味はどうですか? 絵画などは一人でやれて没頭もできますよ」 「ああ、いいかもしれませんね。初心者だから下手でも何も言われないし」 「この辺りですと絵画教室もありますし、いいんじゃないですか?」  男の声色は自嘲を交えながらも明るく、マスターも胸をなでおろした。駅ビルの最上階にあるカルチャーセンターには、多種多様な教室が開かれている。男の顔にもうっすらと笑みが戻り、どんな絵を描こうなどと考えていれば、男はようやっと席を立った。 「お帰りですか」 「ええ、今日はすいませんでした」 「こんな夜もありますよ。……終電もそろそろですし、足元お気をつけて」  マスターが窓を見れば、大きかった雨音は聞こえず静かな夜が戻っていた。  

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