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第1話

 深夜一時を回った頃。二人きりになった警察庁警備局公安課のオフィスで、吉良伊鶴はため息をついた。 「何この報告書。全部やり直して」 「……すみません」  部下の久住のデスクに書類の束を叩きつける。こんなゴミみたいな報告書をよく提出できるなと、呆れてしまった。久住はびくりと肩を揺らして、デスクの上の書類をかき集めた。  その気弱な態度に吉良の苛立ちは加速する。背を向けて自分のデスクに戻ろうとしたその時、久住が口を開いた。 「……吉良さんはいいですよね。優秀なアルファですから」  久住の声は震えていた。ちらりと視線を向けると、久住はぎゅっと唇を噛み締めて、潤んだ瞳でこちらを見つめ返していた。  たしかに自分はアルファ性だ。客観的に見ても、自分は優秀な部類の人間ではあると思う。東大は首席で卒業したし、警察庁では一握りのキャリア組のエリートで公安のエースとさえ呼ばれいる。  しかし、自分の成功の全てが生まれ持ったアルファ性のおかげだなんて思っていない。自分はずっと、血の滲むような努力をしてきた。だから今の自分がある。 「自分は、オメガです。だから……」 「だから、何?」 「……だから吉良さんは、俺に強く当たるんですよね?オメガの癖にこんなところで働いてるから」  久住の涙声が耳障りだ。吉良はそれを遮るように、ため息をついて久住を見下ろした。 「違う。単に君の仕事のできなさに呆れてるだけ。それがオメガのせいだとかどうとか、言い訳しないで。いちいち性別のせいにするのやめて、少しは努力すれば?」 「してますよ!!」  金切り声が部屋に響く。思わず吉良は顔を顰めた。 「努力したから、オメガだけどこんな立派な仕事につけてるんですよ。ずっとベーターの振りして、頑張ってきたんです。もうバレちゃったから仕方ないけど……」 「で、その結果がこれなわけ?」  トントン、とデスクの上に置かれた報告書を指差す。  久住は唇を噛み締めたまま何も言わなかった。 「努力してそれなら、向いてないよ。辞めたら?」  そう吐き捨てて、吉良は久住に背を向けた。  公安の仕事は小さなミスが命取りになる。国家を揺るがすような事態に繋がってもおかしくはない。だから、どんな理由であろうとも、使えない人間はいるべきではない。少なくとも吉良はそう考えていた。  残酷かもしれないが、久住にはこの職場を去ってほしい。取り返しのつかないミスをしてしまう前に。彼が命を落としてしまう前に。  カツカツと革靴の音を立てながら、吉良は自分のデスクに向かう。その時だ。 「う、……ぁ」  首筋に鋭い痛みが走った。針か何かで刺されたような、そんな痛みだ。 「ごめんなさい。本当はこんなこと、したくなかったんですよ」  壁にもたれかかって身体をなんとか支えて、久住の方を向く。その手には注射器が握られていた。蛍光灯の光を反射して、不気味に光っている。 「それは……?」 「後天的にオメガになる薬品です。俺が追ってた組織が秘密裏に製造していたんですよ。まぁ、試作品だからどうなるかわからないですけど」 「……は?」  心臓を鷲掴みにされたような衝撃が胸に走る。言っている意味が全く分からない。吉良は、瞬きさえもできず、ただ久住の顔を凝視した。 「そのままの意味です。吉良さんは今からオメガになるんです」 「ふざ、けるな……」  ────俺が、オメガに?  身体がさぁっと冷たくなっていく。どくどくと心臓跳ねる音がうるさい。頼むから嘘だと言ってほしい。ぎり、と噛み締めた奥歯が音を立てた。 「俺の気持ちをわかってもらうには、もうこれしかないと思って」  久住が潤んだ瞳を揺らしながら、続ける。 「そしてこれが、後天的にアルファになる薬です。手に入れるの苦労したんですよ」  内ポケットからアルミケースを取り出し、中の注射器をこちらに見せつける。  そして、久住はふっと笑うと、自分の首に針を突き刺した。 「これで俺達の立場、スイッチされましたね」  口元に弧を描いて、久住は吉良の顔を覗き込んだ。 「……ありえない」  絞り出した自分の声は、震えていた。爪が食い込むほど拳を握りめる。 「ありえないかどうかは、明日になればわかりますよ」  そういうと久住はこちらに背を向けて、オフィスを後にした。  ────この薬が本物で、本当にオメガになってしまったら?  そう思うと呼吸が荒くなる。頭の中は真っ白だ。 「……ああ」  吉良は絶望的な気持ちで、その場にへたり込んだ。

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