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第2話

  嘘だと思っていた。ほんの数十分前までは。  吉良は薄汚れたビルの壁に背中をもたれさせながら、なんとか息を整えようとする。しかし、呼吸は荒くなる一方で、どうにもならない。  ほんの数分前までは身体に何の異常もなかった。だから、久住に打たれたあの薬品は偽物だったんだと勝手に安堵していた。そんな都合のいい薬なんてあるわけがないと。  だが、そんな期待は簡単に裏切られてしまった。身体はどんどん熱くなり、壁に身体を預けなければ歩くことさえままならない。 「どこに逃げた!」  男の声が聞こえ、陰に身を隠す。最悪なことに、外で仕事をしている最中に発情期が来てしまった。漏れ出していくフェロモンをアルファ連中が見逃すはずがなく、追いかけ回されている。こんな身体で真っ向から戦えるわけもなく、吉良は狩人に追われる獲物のようには必死に息を殺して、奴らが通り過ぎるのを待つことしかできない。  ────本当にオメガにされてしまった。  必死に否定しようとするが、身体にこもる熱と下半身の疼きが、それが紛れもない真実であることを突きつけてくる。 「う……」  身体から力が抜け、薄汚れた地面にへたり込んでしまった。一刻も早く逃げなければならないのに、身体が動かない。襲われることを想像しただけで、背筋がさぁっと寒くなる。  ふと、久住の顔が頭によぎる。彼はずっとこんな苦しみと恐怖を抱えて生きていたのだろうか。自分の意思とは関係なく発情してしまう身体をもち、いつアルファに襲われるか分からない恐ろしさに怯えながら必死に公安刑事として生きていたのか。  なんとか立ち上がり、足を進める。この状況で自宅にたどり着くのは難しい。タクシーを拾ったとしても、運転手がアルファだったら一巻の終わりだ。ありがたいことに、目の前にはホテルがある。落ち着くまでホテルの部屋に閉じこもってやりすごせば、なんとかなるだろう。  その時。 「お兄さん、オメガ?」  背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がる。見つかってしまった。慌てて振り向こうとした瞬間、ドンと壁に身体を押さえつけられた。 「やめ、ろ!離せ!!」 「いい匂い。こんなにフェロモン垂れ流しちゃって。誘ってるのかな?」  男が吉良の首筋に顔を埋める。男の鼻息にゾクっと身体が震えた。 「離せよ!!」  渾身の力を振り絞って、男を突き飛ばす。数歩よろめいた男は、目の色を変え、こちらを睨みつける。 「調子に乗るなよオメガのくせに!」 「ちが、……俺は!」  アルファだ。そう言おうとして口篭った。アルファだったのはもはや過去の話だ。今の自分はオメガで、一方的に狩られるだけの存在に成り下がってしまった。それが悔しくて堪らない。 「うっ!」  両肩を掴まれ、地面に力任せに叩きつけられる。背中を強く打ちつけ、上手く息が吸えない。男はゆっくりとこちらに歩み寄ると、吉良の上に跨った。 「やめろ……!やめろ!!」  身体をバタつかせて暴れるが、力が入らずまともな抵抗になっていない。発情期でさえなければ、いや、あの薬さえ打たれなければ、こんな男一瞬で制圧してしまえるのに。吉良はぎゅっと拳を握りしめた。 「俺の番にしてあげる」  男が口を開いて犬歯を見せつける。自分はまるで肉食獣に捕食される草食動物だ。こんな得体の知れない男に、無理やり番にされてしまうなんて、絶対に嫌だ。しかしもうなす術はない。吉良は目をぎゅっと瞑った。  しかし、いつまで経っても首筋に痛みはこない。その代わりに聞こえてきたのは男の呻き声だった。吉良はゆっくりと目を開く。すると、さっきまで自分に覆い被さっていた男が、地面に倒れていた。 「は……?」 「悪いけど、彼は俺のなんで」 「く、ずみ……」  立っていたのは久住だった。まさか、助けてくれたのだろうか。いや、きっとちがうのだろう。吉良は久住から距離を取ろうと、ジリジリと後退りをする。 「はは、本当にオメガになってる。すごいフェロモンだな」  久住はそう笑うと、身体を支えて立ち上がらせてくれた。 「何の、真似だ……?」 「自分の獲物を取られるわけにはいかないんでね」  ニヤ、と久住がまた笑う。白い犬歯が覗いている。やはり久住はアルファになっている。アルファ独特の香りが鼻をつく。  吉良はゾッとして首筋を両手で覆った。噛まれるわけにはいかない。 「はは、まだ噛みませんよ。とりあえずここじゃまずい。あっちに行きましょう」  久住の指は、ギラギラとネオンの看板が輝くラブホテルを指していた。 「やめ……ろっ!離せ!」  身体をがっしりと掴まれ、引きずられていく。抵抗しようにも身体に力が入らず、なす術もない。  抵抗も虚しく、吉良は久住に抱えられて、ホテルのなかに引き摺り込まれて行った。

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