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第1話

ようこそおいでませ、此処は|驚異の部屋《ヴンダーカンマー》。貴方は記念すべき××××人目のお客様です。 なんと、ご存じないとは心外! ごらんなさいな、此処の名前の由来となった展示品の数々を。珊瑚や石英を加工した装身具、実在・架空取り交ぜた動植物の標本やミイラに巨大な巻貝、オウムガイを削った杯にダチョウの卵、貴重な錬金術の文献に異国の武具、機械仕掛けの形見函、はてはキリストの襁褓と噂される聖遺物に至るまで、此処に展示されているのは人類の叡智の結晶。 此処は次元の|間《はざま》に存在する場所。 時折お客様が迷い込みます。 偶然か必然か、驚異の部屋に至った彼等彼女等をもてなすのが僕の役目。 自己紹介がまだでしたね。|学芸員《キュレーター》とでもお呼びください。 ……おやおや、これは珍しい。人間以外のお客様がいらっしゃるのは久しぶりです。 そりゃあわかりますよその瞳を見れば、虹色の光沢を帯びて底知れず澄むオパールの瞳……大変神秘的で美しい。人にはありうべからず異形の美しさです。 流れる絹の髪も|雪花石膏《アラバスタ》の肌も、貴方は無垢なる白の結晶だ。極光の瞳以外は贖罪の如く色を失っている。 貴方は|精霊《ジン》さんですね。 ジンとはアラブ世界において精霊や妖怪、魔人など、超自然的な生き物の一群をさす総称です。 彼等は肉眼に見えません。普段は霊体の状態でさまよっています。その姿は変幻自在、様々な動物や怪物に化け、知力・体力・魔力全てにおいて人間を凌駕します。 余談ながら人間に善人と悪人がいるように、ジンも善なるもの悪なるものに大別できます。 ジンに憑かれた人間はマジュヌーンと呼ばれ、千里眼や予知の権能を得る、と巷では信じられておりますね。 善きジンと契りを結んだ人間は民を導く聖者として祭り上げられ、悪しきジンに魅入られた者は気が狂い地獄に堕ちる。それが世の理です。 さて、ジンも悪魔と同じく階級や序列が敷かれている。 上から順番にマーリド、イフリート、シャイターン、ジン、ジャーン。貴方は……これは驚きました、最高位のマーリドじゃございませんか!こんなむさ苦しい場所にようこそお越しくださいました、丁重におもてなししなければいけません。 どうぞ遠慮なく宝物をご覧ください。 そちらにあるのはただ一人の為に描かれた異国の星空の絵、光る砂を画布に塗してあります。 横にあるのは世にも類まれなる魂を宿すヴァイオリン、弓を手にせずともほら、ひとりでに音楽を奏でるんです。美しい調べでしょ? ぷはっ、なんですかその顔!不老不死のジンだというのに、今の貴方ときたら目をきらきらさせて、小さい子供みたいですねえ。「綺麗だねえ!」「すごいねえ!」って、さっきから感嘆符の大盤振る舞いじゃないですか。 ええ、僕らには寿命など意味を成さない。見た目は幼くとも精神は老成している。 永遠を生きる者の逃れ得ぬさだめとして、時間の経過に伴い感受性は鈍っていく。 僕だって見た目通りの年齢じゃございません。 貴方はこれまで来られた方々とちょっと違いますね。今までお相手したお客様はひねくれてましたからねえ、口も悪けりゃ手癖も悪い。身の上を考慮すれば同情の余地はございますが。 貴方はなんていうか……天然?鈍感?純真にして無垢?見た目は成人なのに、言動にまるで屈託を感じません。内なる魂の輝きが眩しくて眩しくて、僕のような矮小な輩など、こうして向き合っているだけで目が潰れてしまいそうです。 とんでもない、馬鹿にしてるんじゃございません!むしろその反対、得難い資質だと褒めてるんです。お臍を曲げないでください、ね? とはいえ、此処に呼ばれたのには必ず理由があるはずだ。 とぼけたって無駄です。聞かせてください精霊さん、貴方は一体どんな大それた罪をおかしたんですか? ……驚いた顔して、何をご覧になって……ああそれ?立派なシャムシールでしょ。 人よんで強欲のマルズーク。 シャムシールとは湾曲した片刃が特徴のアラブの刀剣。柄頭は小指側にカーブをしており、あぎとを開けて咆哮する、獅子の頭が彫られています。語源はライオンの爪。古代の王が当代随一の刀鍛冶に造らせた、純銀製の逸品です。 「強欲」なんて冠される位ですから、さぞかし欲深い暴君だったのでしょうね。 ああ駄目ですよさわっちゃあ!これはね、恐ろしい魔剣なんです。所有者に不幸をもたらす災いの運び手。 僕には関係ありませんけどねえ、人間が持ってたら命を吸われます。 驚異の部屋に蒐集されたのは幸運ですよ、地上にあったらどれだけ犠牲者が出た事か。 優雅に反った刃からおどろおどろしい妖気が漂っているでしょ、夥しい血を吸ってきた証拠です。 もっと聴きたい? よろしい、話してさしあげます。 強欲のマルズークは古代の悪王が愛した妖剣。 奴隷上がりのその王は、およそあらゆる暴虐の限りを尽くし、数々の国を滅ぼしました。『千夜一夜物語』の暴君のモデルではないか、と後世に噂される位です。 おや、『千夜一夜物語』をご存知ありませんか? 国中から美しい乙女を駆り集め、初夜がすんだら斬り捨てた暴君のお話です。 賢き美姫・シェーラザードは、夜毎面白い話をする事で王の関心を繋ぎ止め、ただ一人生還を許されたのです。 この剣の持ち主もよく似た末路を辿りました。夜伽を命じた後宮の|側女《そばめ》に討たれたんです。愚かですよねえ! ―否? 貴方は「彼」を知っている、と? でしたらお聞かせ願いましょうか精霊さん。人間のお客様に水晶玉を使うんですが、僕と貴方の間柄でまどろっこしい小道具はいりませんね。 アレはいわば様式美、催眠術の振り子。人外は人外らしく、目と目で通じ合おうじゃありませんか。 さあ、僕の瞳を見て。 もっと近付いて。 ああ、本当に綺麗だ……此処が貴方の故郷ですか。青く晴れた空に輝く灼熱の太陽、乾いた風が吹き渡る無辺大の砂漠。うたかたの意識が覚醒した時、最初にあった光景だ。 精霊さん、貴方には片割れがいた。 人でいえば双子に近い、|同胞《はらから》ともいえる存在が。 貴方は人間と違い、生まれた時からその姿でした。貴方の片割れもまた、最初から完璧な姿で存在していた。 ただ色だけが、本質を反転させたように異なる。 くるぶしまで伸びた黒髪は夜の具現、なめらかな褐色の肌。瞳は貴方と同じ、光の加減で色を変えるオパールです。 名前はジブリール。 意味は完璧なもの、全てを備えた超越者。 貴方たちは同時に世界に生じました。 今を遡ること幾星霜の昔、月が玲瓏と輝く夜。 砂丘の砂が人の似姿を形作り、それが風に吹きさらわれ、白い肌が暴かれます。 正面には美しい男がおり、貴方の頬を包み、愛しげに微笑んでこういいました。 「目覚めたか、おれの|運命《カダル》」 「きみが、ぼくの、|運命《カダル》?」 全裸で座り込む貴方を、青い月光が冴え冴え照らします。ジブリールもまた裸で、黒く長い髪が隆と屹立する腹筋を経、黄金律の肉体を伝っていました。 貴方が見守る前で肉感的な唇が開き、並の人間ならそれだけで脳髄が痺れかねない、豊饒な声を紡ぎます。 「俺たちは共に生まれた番い、二人で一柱の精霊。永遠に共に在り、お前を守ると誓うぞ」 精霊の言葉は言霊として作用します。 厚い手に頬を包まれた貴方は、彼の言葉を疑うことなく、無邪気に微笑んで返しました。 「よろしく、僕の運命」 貴方とジブリールは表裏一体の存在。 見た目が正反対なら中身も真逆。 どちらも優れた容姿を持っていましたが、男性美の極致たる体格に恵まれたジブリールと違い、貴方は線が細く中性的な風貌を備えていました。 守ってあげたくなるように儚げ、とでも言い換えましょうか。 貴方たちが番いとして生まれ落ちたのは偉大なる|神様《アッラー》の思し召し、あるいは皮肉な偶然のなせるわざ。 いずれにせよ、貴方のそばには常にジブリールがいました。 ジブリールは貴方の守護者を自認し、あらゆる苦難を遠ざけることを誉れとしました。 貴方の歩む道に大岩があれば魔法で打ち砕き、貴方が「疲れた」と嘆けば両腕に抱えて浮遊し、「喉が渇いた」とねだれば手のひらから無限に湧く水を与え…… いやはや、少々過保護と申し上げざるえません。 大前提として貴方はマーリド、最高位の精霊。霊体に化ければ大岩など簡単に抜けられるし、その身はもとより飲み食いを必要としません。「疲れた」の愚痴は戯れ。 だというのに、ジブリールは貴方のわがままを聞き届けました。 霊体の方がずっと楽なのに、肌で風を感じ、耳で鳥の囀りを聴き、舌で水の甘味を感じたいとごねる貴方に合わせ、人の姿をとっていたのが証拠です。 最愛の片割れに尽くすことが、まさしくジブリールの生き甲斐だったのです。 それが間違いだったのかもしれません。 貴方たちは対の存在として生まれ落ち、お互い以外を必要としなかった。 故にジブリールは貴方を溺愛し、依存し、貴方以外の存在をことごとく嫌悪したのです。 生まれてから数百年、貴方とジブリールは二人で流離しました。 変化に乏しい旅路でした。 貴方たちの尺度は人間と異なり、砂漠の地形もまた大きく変わることはありません。 ですから最初、貴方はジブリールの殺戮に気付きませんでした。 悲鳴が上がりました。 声の出所に駆け付けてみると、ターバンを巻いた男やヒジャーブを纏った女が倒れていました。 傍らにはジブリールが立ち、駱駝から落ちた亡骸を見下しています。 貴方が見たことない傲慢で冷たい瞳でした。 「これは……」 「すまない。見苦しいものを目に入れてしまったな」 「人間?」 「駱駝に荷を積んで砂漠を渡る|隊商《キャラバン》だ」 存在は知っていましたが、実際目にするのは初めてです。貴方が見たのは砂漠に穿たれた人と駱駝の足跡だけ。 よく考えてみればおかしな話です、数百年も旅を続けて隊商とすれ違うことが一度もないなどありえません。 天然で鈍感な貴方も、漸くその事実に思い至りました。 「君が殺していたのか」 「そうだ」 釈明は困難と判断したか、ジブリールはあっさり肯定し、両手を広げて死屍累々の惨状を示します。 「どうして?」 「人間は愚かだからだ」 不思議そうな貴方をさりげなく招き寄せ、隊商の積み荷から取り上げたラピスラズリの耳飾りを、白いおくれ毛が縁取る耳たぶに吊りました。 「思ったとおりよく似合うぞ」 「答えを聞いてないよ」 「連中をほうっておいたらお前の所に至る。蟻地獄の観察を邪魔されては興ざめじゃないか」 ジブリールの言うとおり、隊商は直進していました。いずれ貴方のもとに辿り着いたのは自明の理。 「駱駝の蹄が蟻地獄を蹴立てても人間は無関心だ、迂回する知恵すらない。お前の娯楽を妨げる連中は万死に値する、少しでもお前を煩わせる可能性があるなら全力で排除する以外に選択肢はなかろうよ」 「なるほど。人間って愚かだね」 当時の貴方にとって、ジブリールの言うことは絶対でした。 ジブリールと貴方は同時に生まれたものの、彼の方がより聡く、より賢く、より強かったのです。 ジブリールは唯一無二の片割れの守り手を自負し、風魔法を用いた情報収集を怠りません。 故にこそ、砂漠に散らばる村落で繰り広げられる人間模様を詳らかに見ることができた。 その心中は想像するしかございませんが、大精霊の目がとらえた市井の営みは、さぞや醜く卑しいものだったのでしょうね。 余談ながら貴方の力は片割れに大きく劣り、ジブリールが当たり前に行使する、千里眼の権能は覚醒しませんでした。 同じ事が何回、何十回、何百回と繰り返されました。 ジブリールの心を占めていたのは常に貴方のこと、貴方が笑ってくれればそれでいい。 他者の命など一切忖度しません。 砂漠を渡る隊商や旅人を殺戮したのは、最愛の片割れを下賤の目に触れさせたくないから…… 即ち、歪んだ独占欲に尽きます。 最愛の片割れに美しい宝玉や服を贈りたい、ただそれだけの理由で隊商を襲い積み荷を略奪するジブリールの振る舞いは、貴方の心に疑問を播種しました。 「ねえジブリール、今度は何故殺したの」 「お前の視界を遮ったからだ」 「この前と同じ理由だね」 「不満か」 「前々回は確か……」 「お前の足裏を穢した罪だ」 「駱駝の糞を踏んだ時だね。アレは僕が空飛ぶ鳥に注意を奪われたからで、彼等のせいとは言えないよ」 「いや、連中のせいだ」 「その前は?旅人の野営を襲っただろ」 「お前の耳を穢した罪だ」 「風に乗って届いた歌と演奏の事?」 「卑しい人間の音楽に耳を傾ける価値などあるものか」 「話してみたい」 「人間と?駄目だ」 「何故?随分長く旅してるけど、人の村や国に立ち寄った事はないじゃないか。隊商の積み荷を見たかい、面白いものが沢山あったよ。色の付いた石の他にも乾燥させた果実や草、弦を張った木の筒も。アレは楽器かな、弦を爪弾いて音を出すんだ」 「欲しいなら好きなだけ盗ればいい」 「弾き方がわからない」 にべもない返事にむくれ、爪先で砂を蹴ります。貴方はジブリールとの二人旅に倦み、新しい刺激を求めていました。 「劣等種に心を寄せるな。人間は醜い。同胞の間で立場の上下を作り、犯し殺し憎み合い、少しも進歩しない蛮族だぞ」 「精霊にも序列はあるじゃないか」 「それは世界が定めた掟だ。人間は自然の摂理に背いて同胞を貶める」 「難しくてよくわからない」 「人と交われば毒される。お前はそのままでいいんだ」 「でも」 「でも?」 「退屈だよ」 ジブリールの顔から表情が消え、ほんの僅か声が低まります。 「俺がいるのにか」 貴方は俯いて沈黙しました。 人間は愚かだとジブリールは説きます。 本当にそうでしょうか? 彼の言うことは絶対でしょうか? 正直な所、数百年も旅していれば飽きが来ます。来る日も来る日も砂漠をさまよい、風が描く砂紋を数えるだけ。 ジブリールが誅した隊商には色んな人がいました。同じ姿かたちのものは一人たりともいません。 何十何百年たとうと不変の精霊と違い、深い年輪をかんばせに刻んだ年寄りやいとけない幼子がいました。 暴かれた積み荷には立派な刀剣の他にウードやラバーブなどの楽器もあり、どうやって奏でるのか気になります。 「人間は弱く愚かで浅ましい生き物だ。お前が心にかける値打ちはない」 あるいは洗脳。 あるいは刷り込み。 数百年を閲した白き精霊に自我が芽生えます、自立心が目覚めます。 貴方はジブリールの言い分に納得せず、人間への興味は日に日に膨れ上がり、ある時遂に袂を分かちました。 ごめんジブリール、と貴方は心の中で詫びました。ごめんジブリール、僕は生きてる人間に会いたい。だって蟻地獄の観察よりずっと面白そうなんだもの! ジブリール最大の誤算は、貴方の好奇心を侮っていた事です。 片割れの隙を突いて逃げ出し、霊体に変化して千里を越え、風と化して万里を駆け……単身諸国を回りました。 貴方の想像通り、世界は驚きに満ちていた。 |市場《バザール》には蜜が詰まった瑞々しい果実が並び、寺院からは朝な夕なコーランの祈りが響き、噴水広場では駱駝が水を飲む。 王侯貴族が白亜の豪邸を構える一方、貧民街には質素な砂岩の家々が犇めいています。 旅の途中、色んなものを見ました。戦火で滅んだ村落や涸れた泉の傍らを通り過ぎ、城壁をくぐった先では、華やかな目抜き通りをのし歩く象とその頭上の神輿を目撃します。 神輿に踏ん反り返っているのは恰幅良い金持ちで、両脇に美女を侍らし、群がる観衆に金をばら撒いていました。 高笑いする金持ちの足元で、老いさらばえた乞食が象に踏み潰されました。傾いだ家の窓を覗けば、粗末な寝台に仰向けた老婆が苦しげに息をしています。 薬代を稼ぐと前置きして出て行った息子は、色街で娼婦を抱いていました。 「人間って愚かだなあ」 人の営みを|幾年《いくとせ》も見届けるうち、ジブリールの口癖が移りました。とはいえ、そこに侮蔑や嫌悪の感情はこもっていません。貴方はあるがままをただ受け止め、愚かなものを愚かと評しただけです。 危険な目にあうこともありました。貴方の外見は人目を引く。街角で賊に待ち伏せされ、あるいは砂漠で襲われ、身ぐるみ剥がされそうになった事も一度や二度ではありません。 でも大丈夫、貴方は精霊ですもの。指ぱっちんでどろんしちゃえば安心安全、後腐れありません。 しかしまあ行く先々で煩わされるのも面倒なので、幾重にもフードを纏い、目元以外を注意深く覆いました。これで余計な注目を買わずにすみます。 賊や人さらいの標的になる危険を冒し、なお実体化を解かずにいたのは、五感を世界に開いて豊饒を享受する為。 貴方は足と心の赴くまま、様々な街や村を訪れ、市場の果実に舌鼓を打ち、辻で催される大道芸を見物しました。 特に心を惹き付けたのは勇壮な剣舞です。 銀月の弧を描くシャムシールを自在に操り、宙に投擲しては受け止める踊り子たちの芸の極みに、貴方は憧憬を募らせました。 「人間は愚かだけど、すごいなあ」 百年後。 貴方が訪れたのは大国と大国の中継地点にあたり、隊商の補給地として繁栄を極めた商都でした。 市街には白亜の家々が立ち並び、広場には瀟洒な噴水が鎮座しています。 蛇使いは笛で蛇を躍らせ、赤銅色の肌の巨漢が火を噴いて、麗しい踊り子が舞っていました。 「賑やかな街だな」 野次馬にまじって踊り子の舞を見ているうちに心が浮きたち、足が拍子をとっていました。 だしぬけに突風が吹き、フードを巻き上げ、貴方の素顔を暴きます。踊り子の柳腰に鼻の下を伸ばしていた隣の男がぎょっとし、鼻梁の秀でた端麗な横顔に魂を抜かれます。 踊り子に注がれていた視線が翻り、人垣の前から三列目で立ち見していた貴方に集中します。 「外国の人?」 「髪や睫毛まで白いぞ」 「あの瞳見ろ、宝石みてえだ」 ひそひそ、ひそひそ。 「まずいぞ」 風向きが怪しくなってきました。フードを被り直して踵を返す間際、無骨な巨漢が立ち塞がります。 「あっ!」 乱暴にフードを剥かれ、顎を掴まれました。 「ばか高そうな耳飾りだな。売れば当分遊んで暮らせそうだ」 「見た感じ世間知らずの坊ボンってとこか?」 「身ぐるみ剥いで奴隷商に売ってやる」 「その前にお愉しみといこうぜ、こんな上玉めったにお目にかかれねえからな」 「ええと……」 さて、困りました。 頼りない笑顔を浮かべてあとずさり、両手に掴んだ宝石を、ならず者の集団にさしのべます。 「これが欲しいの?ならあげる、別にいらないし。重くて嵩張るし持ち運び大変だったんだ、霊体になれば次元の歪みに隠せるけどね、人に化けてる間は物質化を余儀なくされるってジブリールが」 次の瞬間、刀が振られました。 地面に宝石をばら撒くと同時、煙と化して上方に離脱します。突然標的がかき消え、ならず者たちは戸惑いました。 「どこ行きやがった!」 「追えっ、逃がすな!」 ヒステリックに怒鳴り散らし、路地から路地へと散っていくならず者を見下ろし、貴方はたまらず吹き出しました。 「ジブリールの言ってたとおり、人間って愚かだなあ」 自分はすぐ上にいるのにそれすら気付かず、蟻の子のように地上を這いずり回る男たちが滑稽で、しばらく笑い続けました。その後は面倒を避け、屋根の上を飛び歩いて移動します。 剣戟が聞こえてきました。巨大な建物があります。なんだろうと視線を飛ばせば、剣を持った男たちが向き合っていました。両者とも疲労困憊、満身創痍です。 「いけ、殺っちまえ!」 「全財産賭けてんだぞ、ぶざまな戦いすんじゃねえ!」 階段状の座席を埋め尽くし、拳を振り上げてけしかけるのは、試合に熱狂した市民たち。いずれも殺気立っています。 その光景に興味を引かれた貴方は、闘技場の人ごみに紛れ、観客の一人に聞きました。 「何をしてるの」 「見てわかんねーか、奴隷を戦わせてんだ」 「何故そんな事を」 「楽しいからに決まってんだろ」 「ふうん」 人間って愚かだなあ。野蛮だなあ。 虎も獅子も狼も、貴方が砂漠で出会った獣たちは生きるために他の動物を狩っていました。自分の悦楽の為だけに同胞を嬲り殺し、ましてや殺し合いを仕向けたりしません。 貴方はしばらく試合を観覧し、すぐに飽きました。正直な所、殺しは見慣れていたのです。 片方の男が剣を落として倒れ、観客は総立ちになり、歓声が爆発します。 闘技場の通路は奴隷の居住区に通じていました。居住区といえば聞こえはいいですが、実際は地下牢です。ひび割れた石壁には等間隔に松明が燃え、牢の内部の様子を朧げに暴きます。 錆びた鉄格子を嵌めた牢屋には、足枷を嵌められた奴隷たちが幽閉されていました。 「虎の餌になるのはいやだああ、助けてくれええええ」 「ああ、どうしてこんな目に……」 男もいれば女もおり、大人がいれば子供もいました。石壁に頭を打ち付ける老人の隣では、うら若い女が啜り泣いています。舌を噛み切り果てた者もいました。 恐怖と絶望に支配された地下牢の様子は実に気が滅入るものでしたが、意に介さず進みます。 奥へ行けば行くほど雰囲気は荒み、獣脂が焼ける甘ったるい匂いと饐えた体臭が漂ってきました。この先が地獄に通じてる、と言われても信じてしまいそうです。 『劣等種に心を寄せるな。人間は醜い。同胞の間で立場の上下を作り、犯し殺し憎み合い、少しも進歩しない蛮族だぞ』 『精霊にも序列はあるじゃないか』 『それは世界が定めた掟だ。人間は自然の摂理に背いて同胞を貶める』 在りし日の同胞の言葉が、真に迫って感じられました。 何故引き返さなかったのです?好奇心に負けた?先に何があるのか知りたかった?大した探求心です。 獰猛な唸り声に視線を流すと、最奥の手前の牢で巨大な影が動きました。暗闇に光る一対の金の瞳……鎖に繋がれた虎です。前脚を撓めて牙を剥き、こちらを威嚇しています。 貴方は鉄格子の隙間に手を差し入れ、思いがけない行動をとりました。 「よしよし。いい子だね」 松明の火影が壁に影絵を投じる中、オパールと黄金の視線が交錯します。 寸刻の対峙を経て虎が膝を折り、大きな猫さながら喉を鳴らして甘えてきました。 貴方は小さく微笑み、掌を一度強く握り込んでから開き、よく冷えた水を湧かせました。 虎は貴方の手に口を付け、夢中で水を飲みます。可哀想に、余程飢え渇いていたのでしょうね。あるいはそうする必要があったのか……。 虎の檻に片手を差し伸べたまま、隣の牢に視線を移します。 人がいました。年の頃はたち前後、貧相な体躯の青年です。 薄い胸には痛々しく肋骨が浮き、脂と垢に塗れた髪は伸び放題。身に付けているのは襤褸の腰巻だけ。片足は太い鎖で繋がれ、その先は壁に打ち込まれてます。 いでたちだけなら他の奴隷と大差ありません。 貴方の心を捕らえたのは、青年が牢内で繰り返している奇行でした。彼は一方の壁に向き合い、両手を揃えて振り上げ、また振り下ろす動作を延々続けているのです。 「何してるんだい」 「素振り」 「牢屋で?」 「見りゃわかんだろ」 一瞬たりとも打ち込みの手は止めず、ぶっきらぼうに答えます。 動作に合わせて汗が飛び散り、松明の炎を受けてきらめきました。 「何故素振りをしてるんだい」 「世界一の剣士を目指してるからに決まってる。笑いたきゃ笑えよ、明日には虎に食われる奴隷の分際で何夢見てんだって……ォわっびっくりした、なんだお前番兵じゃねえのかよ!」 正面を一瞥、そこにいる貴方に初めて気付いて仰天します。 大袈裟にとびのく青年とは対照的に、貴方は鉄格子を掴んで興味津々身を乗り出しました。 「名前はなんていうんだい」 「……知ってどうすんだ。墓に刻んでくれんのか」 「それが望みなら」 「迷子だかなんだか知らねーけど、奴隷の牢を見物にくるなんて悪趣味だぜ。とっとと帰れ」 「知りたい事を聞くまで去らない」 貴方が返事をすると、体を斜に傾げて「ん」と片手を突き出します。残りの手はまだ素振りを続けていました。 「ただじゃ教えねェよ」 「お代ってこと?」 それはそうだ、うっかりしていました。市場では大勢の人々が貨幣と品物を交換し、踊り子にはお捻りが飛んでいたではありませんか。 「すまない、虫がよすぎた」 しおらしく頭を下げ、ますますもって渋面になる青年に、特大の金剛石を手渡しました。 「…………ッ!?」 「まだ足りない?」 息を飲んで硬直する青年の反応を勘違いし、その手のひらにサファイアとルビーを足します。 「えっ、なっ、ええっ?お前なんなの本当、宝石商の倅かなんか!?」 「僕は僕だよ。君は」 お代をせしめた以上知らぬ存ぜぬもできず、ぐっと顎を引き、ポツリと答えました。 「……マルズーク」 「何故ここに?」 「奴隷狩りだよ」 「他の家族は」 苛烈な双眸に暗い影が過ぎりました。 「みんな殺された。父ちゃん母ちゃん姉ちゃん兄ちゃん、妹もみんな」 マルズークが金剛石を噛みます。がちん。 「歯が欠けた」 「お腹すいてるの」 「本物かどうか確かめてんの」 サファイアとルビーにも同じように歯を立て、真贋を見極めたのち、腰巻に突っ込みました。 「そこにいれるの」 「文句あっか、これっきゃ纏ってねーんだから仕方ねえだろ」 「だよね……」 マルズークが鼻を鳴らします。 「まあいい、どっちみちやることなくて暇してたんだ。もらった宝石ぶん、ツマンねー身の上話でもしてやるよ」 斯様にマルズークは義理堅く、鉄格子を隔てて座った貴方に、奴隷に身を落とすに至った経緯を打ち明けてくれました。 「俺の故郷はここからずっと行った小さい集落。貧しい村でさ……井戸なんか広場に一個っきゃなくて、みんなほそぼそ暮らしてたんだ。うちはお袋も親父も石工で、年中石を彫ってたよ。家を継ぐのは一番上の兄貴って決まってた。俺は早く家を出て、都で成り上がりたいって思ってたんだ」 マルズークが揃えた両手を振り上げます。宙を切る剣筋が見えました。 「毎日毎日木剣で素振りした。早く軍隊に入って、親父やお袋に楽させてやるのが夢だったんだ」 しかし、そうはなりませんでした。 「一か月前……かな。村が盗賊に襲われたんだ。焼き討ちだよ。お袋と親父は焼け死んで、兄貴はあっさり斬り捨てられた。村一番の力自慢だったってのに、あっけねえ最期だよ」 「君は」 「……生き残っちまった」 素振りが巻き起こす風を受け、石壁の松明の炎がジッ、と燻ります。独白には苦い後悔と自責の念が滲んでいました。 「それから……盗賊にかっさらわれて、ここに売られた。故郷がどうなったかは知んねえ。灰に帰っちまったかな」 「どうしてまだ素振りを続けてるの」 何も掴めない手で。 「……」 「君だけ他の人と違うのは何故?」 「違うって」 「壁を見てブツブツ喋ってる人、床に寝転んだまま動かない人、壁にひたすら頭突きしてる人……マルズークだけだよ、目の焦点がちゃんと合ってるのは」 「ハッ、こんな所にいて気が狂わねえほうがおかしいさ」 「どうして君だけ狂わずにいられるんだい」 「諦めてねえから」 「何を?」 「逃げること……じゃねえな。生きること」 きっぱり言い直し、正眼の構えから両手を振り下ろします。剣を握ってないにもかかわらず、その素振りが巻き起こす風はさらに遠くへ波及し、松明が揺れました。 眼光鋭く虚空を睨み据え、マルズークが言いました。全身に闘気と生気が漲っています。 「俺は明日虎とやる。向こうの牢にいたジジイと一緒に引っ張り出されて、若いのと老いたの、どっちが先に食われるか賭けを張るんだと。番兵がそういってた」 「ふうん」 「牢から出された時が好機。番兵の隙を突いて、剣を奪って逃げるんだ」 「手が震えてる。本当は怖いんじゃないかい」 「……」 「声も変だ」 「気のせいだろ」 「皿が空っぽだ。ろくに食べてないんだろ。そんなに痩せ衰えて、まともに走って逃げれるのかい?」 「うるせえ」 「なんて愚かなマルズーク、君の逃亡計画が成功する見込みは砂漠から金剛石を見付けるに等しい確率だ。闘技場に何人の番兵が詰めてると思ってるんだい」 「できるかどうかじゃなくてやるんだよ、そのために牢にぶちこまれてから千回万回素振りを続けてんだ。剣がなけりゃ奪えばいい、番兵ぶった斬ってトンズラだ」 素振りが巻き起こす風圧に前髪が捲れ、闘志が滾る眼光を暴きます。貴方は呆れました。 「本当に君は愚かだねえ」 「なんでだよ」 「その足で逃げきれると思ってるのかい?」 マルズークには鉄の足枷が嵌められており、身動きのたび太い鎖がじゃらじゃら音をたてます。枷に拘束された足首は膿んで、赤黒く爛れていました。 「素振りを続けたところでかえって足を痛めるだけだ」 「……わかってる」 「じゃあ」 「何かしてねえとおかしくなっちまいそうなんだよ」 マルズークの主張は非合理でした。完全に破綻しています。本気で逃亡を企てるならむしろ体力を温存しておくべきなのに、壁に向かい黙々と素振りを続け、自分に言い聞かせるように独りごちるのです。 「これからは剣で身を立てるんだ」 「剣士になるのが夢なのか」 「いや。先がある」 「何?」 「王様になるんだ」 「なってどうするの」 「そりゃお前、たらふくうまい飯食って美人を抱いて贅沢して暮らすに決まってらあ」 ああ、この少年は。 「……面白い」 なんて愚か。 なんて強欲。 暗い地下牢に閉じ込められ、明日には虎に食われる運命だというのに、明日への希望を手放さず愚直に素振りを続けている。 それは気まぐれ。 貴方はマルズークの野望のはてを見たくなりました。 この子に付いて行けば、ひょっとしたら物凄いものが見れるかもしれないと期待したのです。 牢の中のマルズークが素振りを続ける前で、貴方は深呼吸して立ち上がり、白くたおやかな手を宙にのべ、おもむろに舞いだしました。 マルズークが手を止め驚愕。 他の牢の奴隷たちも相次いで顔を上げ、鉄格子にしがみ付き、感嘆の吐息を漏らして舞を見詰めました。 一人旅を続けた百年の間に、貴方は数多くの大道芸に立ち会い、見様見真似で踊り子の舞を体得しました。 白い髪が絹の清流めいて靡き、薄衣が雅に翻り、ラピスラズリの耳飾りが涼やかに揺れ、青い流星の軌跡を曵きます。 廻る、廻る、廻る。 貴方は廻る。 黄金律の均整がとれた四肢にベールを纏い、風を孕んで絶えず形を変えるそれを躍動的にたなびかせ、松明に煌々と映える横顔も美しく、神秘にけぶる睫毛の下、極光の流し目で奴隷たちを魅了します。 心を奪われたのは奴隷のみならず、言葉の通じない虎でさえ見とれています。 火影の陰翳を孕んで宙を薙ぐ、衣の旋回軌道が収束。 爪先から足裏へ緩やかに重心を移し、余韻が染み渡るのを待って深々一礼する舞い手に疎らな拍手が送られ、やがて万雷の喝采へと膨らんでいきました。 これぞ実体化にこだわった最大の動機。 技巧の仕上げに叩き込む体を必要とする逆説。 マルズークも放心状態で手を叩き、ハッとして怒鳴ります。 「なんで踊ったの?馬鹿なの?」 「慰めになればと思って」 「ハッ、有難ェ話だな。牢破りの手伝いをしてくれた方がよっぽど」 最後まで言わせず、悪戯っぽく笑んで指を弾きます。 途端に牢の扉が開け放たれ、奴隷たちの手足に嵌まった鉄枷が壊れました。 「閂が外れたぞ!」 「奇跡だ、みんな逃げろ!」 歓喜の涙を滂沱と流し、一斉に逃げ出す奴隷たち。立ち上がる力の尽きた老人には肩を貸し、母親は子供の手を引き、希望に顔を輝かせて出口を目指します。 虎も雄々しく咆哮し、前脚で床を蹴ります。 マルズークは呆然自失の態で、あんぐり口を開けていました。 「これ……お前が?」 「来る?来ない?」 わかりきった問いにグッと顎を引き、さしのべられた手を掴んで駆け出します。 飢えた虎が放たれた闘技場はパニックに陥り、観客や番兵が逃げ惑っていました。 「牢破りだ!」 「貴様が手引きしたのか、奴隷の逃亡幇助は大罪だぞ、即刻捕まえろ!」 槍や剣で武装した番兵たちが、貴方たちを指して叫び交わします。その背後で猛虎が巨大なあぎとを開け、番兵の頭に食らい付きました。 「ぎゃああああああ!」 「ははっ、ざまーみろ!」 マルズークが痛快に笑い、それに応じて貴方も笑い、青年を抱えて飛翔します。 「人間じゃねえの!?」 「精霊だよ」 褐色の指がそっと目に触れ、感嘆の吐息を零します。 「どうりで……綺麗すぎるわけだ」 「君は?これからどうする」 「言ったろ、修行にでる」 「なら付き合うよ」 「何ができんの?」 「僕は精霊だ。五大元素に干渉して事象を操作できる」 「たとえば」 おもむろに衣の袖をめくり、てのひらを上向れば、懇々と水が湧き始めます。マルズークは口笛を吹きました。 「最高じゃん」 「序でに」 マルズークの足首に手を添えれば、鉄枷の痕が瞬く間に癒えていきます。 さても奇妙な二人旅の幕開け。 「行きたい所はある?」 風を切って空を飛ぶ貴方の問いに、マルズークは束の間黙り込み、小さい声で告げました。 「……俺の村」 「了解」 貴方はその願いを承り、マルズークを故郷に運びました。 村には誰もいませんでした。 朽ちた家々と黒焦げの死体が、半ば砂に埋もれて風化しています。 マルズークが外壁の煤けた小屋に駆け寄り、入り口の手前で立ち尽くします。 「ここが俺んち……だった」 過去形で言い直し、手の甲で瞼を擦り、土間に横たわる骸をおぶって運び出します。貴方は手伝いもせず、ただそれを見ていました。 マルズークは中心の広場に大小七体の骸を並べ、順に指して紹介します。 「父ちゃん。母ちゃん。上の兄貴。下の兄貴。姉ちゃん。弟。んで、いちばんちびが妹」 「……そっか」 ジブリールの言うことは間違いだった。人間には個体差がある。皆が皆、愚かなだけとは限らない。 「みんな火を放たれて焼け死んだ。俺だけ助かった」 マルズークが貴方を振り返り、頭を下げました。 「水、出せるか」 無言のまま両手を翻し。 「掛けてくれ」 貴方が手より湧かす水は砂漠を潤し、黒焦げの骸に染み渡り、記憶の業火を癒しました。 マルズークはずぶ濡れのまま、貴方が降らす雨を浴びて嗚咽しました。 それから一人で砂を掘り、家族を埋葬し、貴方があげた金剛石で墓に名前を刻みます。 「漸く帰って来たぜ父ちゃん母ちゃん、待たせちまってごめん。家守れなくて悪い、兄ちゃん。姉ちゃんも……アーダムの嫁さんになるって決まってたのに、悔しいよな。カーミルとサフィーヤも、もっと遊んでやりゃよかった」 ガッガッ。 砂に立てた石に金剛石を叩き付けます。 「石工の倅が身の程知らずな夢見んな、家の事手伝えって怒られてばっかだったよな」 ガッガッ。石が削れます。 「けどさ父ちゃん。俺、絶対剣士になっから」 拳で強く瞼を拭い、真っ赤な目を瞬き、ぐるりを見回します。 「世界一の剣士になって、軍でどんどん出世して、べっぴんなお姫様と結婚して……しけた石工の倅が夢を見ても許される、豊かな国を作るんだ」 墓に誓いを立てるマルズークの隣で、貴方は優しい慈雨を注ぎ続けました。その水は砂漠をぬかるませ、隅々まで染み渡り、濁った泉が生まれました。 墓の方を向いたまま、マルズークが背中で頼みます。 「頼みがある」 「何だい」 「舞ってくれ」 言われた通りにしました。 白いおみ足でぬかるみを蹴散らし、跳ね、羽衣に見立てた薄絹を翻し、雨の中に架かる虹をくぐって舞い踊ります。手向ける花も摘めない砂漠の集落では、貴方の舞こそ最高の弔いでした。 ジブリールに貰った宝石は沢山余っており、当分旅費が尽きる心配はいりません。 旅をはじめ三か月後、小さな集落に行き当たりました。 「ツイてら、野宿はもーこりごり。泊めてもらおうぜ」 上機嫌で駆けだすマルズークに遅れ、集落に辿り着いた貴方が見たのは、獣に食い荒らされた人間の死骸でした。 杖を持った長老が貴方がたに気付いて、重苦しいため息を吐きました。 「旅の人かい?宿ならよそをあたっとくれ、他人に施す余裕はないよ」 「どうしたの?」 「見てわからんか、狼の群れにやられたんじゃ。連中め、すっかり人の味を覚えちまって」 惨たらしい死骸を前にマルズークは青ざめ、「さっさと行こうぜ」と袖を引っ張ります。 貴方は考えました。 「僕たちが狼を倒したら、村に泊めてもらえるでしょうか」 「ばっ!?」 「だってきみ、野宿はこりごりだってぼやいてたじゃないか」 「相手は狼だぜ、かないっこねえよ」 「貴方さまはもしや……人ではない?その髪と肌、そして瞳……精霊さまでしょうか」 おそるおそる問い質す老人の周囲に、生き残った村人たちがぞろぞろ群がり、縋るような目で貴方たちを見詰めてきます。 「いかにも、僕は精霊です」 「おお!」 「ですが戦うのは僕じゃありません。こちらの少年、マルズークです」 「は?」 「この子はいずれ王になり国を治める器、知性なき狼の群れ如き一刀のもとに斬り伏せます」 「ちょっと待て」 村人たちがどよめき、その場にひれ伏してマルズークと貴方を拝みます。 「ありがたやありがたや、貴方がたはアッラーが遣わしてくださった救世主です」 「親父と妹の仇をとってください」 大仰に祭り上げられ、今さら嫌とは言い出せず、マルズークは胸を叩いて請け負いました。 「お安い御用だ、まかせとけ」 その夜……貴方とマルズークは村の外堀を背に、狼の群れを待ち受けていました。 悠揚迫らざる物腰の貴方の隣で、マルズークはしゃがんで頭を抱えています。 「何であんな約束しちまったんだ。もうおしまいだ、狼の餌になるんだ」 「王様になりたいんだろ」 「心の準備ってもんがあるだろ、そもそも得物もねえのにどうやって立ち向かえってんだ!」 「ああ、そうだったね」 貴方は賢しげに頷き、衣の内側から細身のシャムシールを取り出しました。マルズークが目を見張ります。 「知り合いに貰った。あげる」 無造作に投げてよこされたシャムシールを受け止め、マルズークがよろめきます。 「重ッ……」 「貧弱だね。剣一本支える膂力もないくせに王様を目指すなんてのたまったのかい」 「うるせえよ。てかこれ何処で手に入れた、純銀じゃん。柄の獅子の彫刻も生きてるみてえ」 シャムシールの刃を捻って感心するマルズークの様子が笑いを誘い、自然と顔が和みました。 砂漠の向こうで遠吠えが上がります。 手汗のぬめりを服で拭き、柄を握り直し、マルズークが唾を飲みます。 「……俺一人で行くの?」 「もちろん」 「お前は」 「後方支援に徹する」 「卑怯者」 「男を上げてきなよ」 剣呑な咆哮が夜闇を伝い、漲る殺気が肌を打ち、金色に輝く目が無数に浮かびます。 「ひっ……」 シャムシールを捧げ持ち、怖気付いてへたりこむマルズークを一瞥、そっけなく言い放ちます。 「狼の群れすら退けられないのに、王様になりたいなんてのたまっていたのかい?」 「だ、だって」 「幻滅したよ。もっと面白い子だと思ってた」 「ううっ」 「村人たちにさんざんもてなされといて、ごちそうにも手を付けて、今さら逃げ出すのかい?人間の世界じゃ盗人猛々しいとか恩知らずっていうんだろそういうの、食べたぶんは働くのが義務じゃないかい、それともまさか最初から食い逃げしようって魂胆だったのかい、だとしたら君は蟻地獄の蟻にも劣る忠心の持ち主だね、旅の連れとして恥ずかしいよ」 饒舌になじられたマルズークが赤面し、恐怖と緊張に震える手にシャムシールを握り込みます。 「うわああああああああ!」 捨て鉢の突撃でした。砂を蹴散らし狼の群れに突っ込んだマルズークが、力任せにシャムシールを振り回します。 『風は奔り銀月は澄む 刹那の瞬きは音に比す』 マルズークは砂に足をとられて躓き、けれどすぐに起き上がり、歯を食いしばってシャムシールを振り抜きます。 鋭い牙と爪が服と肌を切り裂き、赤い血がしぶき、それでも決して退かず、片刃の刃で毛深い胴を撫で切ります。 「俺は弱虫じゃねえぞ、いずれ一国の王になる男だ!犬っころの群れになんざ負けねえぞ!」 ああ、貴方の見立ては間違っていなかった!マルズークは天賦の剣才の持ち主だったのです! それが今、絶体絶命の窮地に立たされ覚醒した。些か荒療治だったのは否めませんけどね。 貴方の援護も的確だった。骨格が出来上がりきってないマルズークが剣の重さに振り回されぬように、魔法の加護を与えましたね。 マルズークがシャムシールを振り回せたのは、風魔法の加速の効果です。 夜明けの訪れを待って迎えにきた村人たちは、全滅した狼の群れと、そのただ中に血まみれで立ち尽くすマルズークに絶句しました。 「初陣に勝利したね」 涼しい顔で褒めたたえる貴方を殴ろうと拳を振り抜くも果たせず、マルズークがへろへろ倒れ込みます。 村人たちの感謝をうけ、幾許かの報酬を手に集落を発ったのち、貴方とマルズークは様々な依頼をこなしました。 この時代、砂漠を徘徊する獣や盗賊には事欠きません。傭兵を雇うお金もない小さい集落は、貴方がたに宿や食事を提供する見返りとして問題の対処を頼みました。 「見なよマルズーク、家が燃えてる」 「盗賊どもの仕業です。家々を襲い女子供を拐す、とても許せぬ蛮行です」 「塒はどこだ?」 「西の谷の……貴方がたは?」 「マルズークとその連れの白い精霊といえばわかるな?」 「おお、貴方さまがたがそうなので?あの噂の?アッラーよ、救世主を遣わしてくださり感謝致します!」 盗賊退治を引き受けた貴方とマルズークは、早速支度を整え西の谷に向かいました。 西の谷では盗賊たちが野営を張り、さらってきた女たちに酌をさせていました。頭領らしい髭面の男は、一番若く美しい娘を抱え、太腿をなでさすっています。 「ろくすっぽ食い物もねえシケた村だったが、女だきゃあ上物ぞろいじゃねえか」 「奴隷商に売り飛ばせばいい金になりますぜ、兄貴」 「その前に愉しみましょうぜ」 焚火を囲む盗賊たち一人一人を観察し、率直な感想を述べました。 「野蛮で愚かな連中だね」 カチャカチャ、カチャカチャ。かすかな金属音を訝しんで目を上げれば、シャムシールの鞘を握った手が小刻みに震えていました。 「武者震いかい」 「忘れもしねえ。俺の村を襲った奴等だ」 マルズークが低く吐き捨て、娘の乳房を揉みしだく髭男を睨み付けます。 「くそったれが。行く先々でおんなじこと繰り返してやがったのか」 燃え滾る復讐心に駆り立てられ、今にもシャムシールを抜き放ち、突撃を仕掛けようとする相棒を諫めます。 「短気は損気だよ」 「早く行かなきゃ手遅れになっちまうよ」 いくら憎んでも憎み足りない家族の仇が目の前にいるときて、平常心を保てるはずがありません。青年の脳裏には故郷を滅ぼした惨劇の記憶が荒れ狂っていました。 パチパチ爆ぜる火の粉に続き、下品な胴間声が轟き渡ります。 「しっかし兄貴ィ、ちったあ自重してくださいよ。一年前に襲った村覚えてます?北の砂漠にあった……ほら、しけた石工の集落」 「ああ、あそこか」 「遊び半分に火ィ放った挙句、村人の殆ど死なせちまったじゃないっすか。若い女もいたのにもったいねえ」 「収穫できたのは離れた岩場で棒きれぶん回してたガキ一匹」 「しかたねえだろ。連中め、たかが石工の分際で俺様に歯向かいやがったんだぞ?」 「あのハゲ親父笑えたよなあ、来週は娘の結婚式だ~とかなんとか息巻いて立てこもって」 「挙句が家族揃って蒸し焼き黒焦げ」 マルズークが砕けるほど力を込めて柄を握り、獰猛に息を荒げます。極限まで見開いた目はぎらぎら血走り、殺意が思考を席巻しています。 これはいけません、今のマルズークを一人で送り出すのは危険です。 「僕に任せて」 「何する気だ」 「囮になる」 言うが早いか木陰から踏み出し、妙齢の美女に化け、焚火にあたる盗賊たちのもとに向かいます。 「どうかお助けを。道に迷ってしまいました」 「兄貴ィ、女ですぜ」 「しかも絶世の美女だ!」 「見ろよこの髪と肌、真っ白。瞳も宝石みてえ。後宮に売っ払えば一生遊んで暮らせるぜ」 盗賊たちはどよめき、生唾を飲んで劣情し、かと思えば押し倒しました。 髭男が下卑た顔で舌なめずりし、貴方の両手を掴んで組み敷きます。 「まあ待て、まずは下調べだ。生娘かどうかで値打ちが変わってくるからな、じっくり膜を」 「お待ちください、その前にご覧に入れたいものがございます」 しなやかに肢体をくねらせて腕をすり抜け、両手を空にのべ、冴え冴えと月光を浴びます。 廻る、廻る、廻る。世界が廻る。 耳朶のラピスラズリを凛冽ときらめかせ、ベールを一枚一枚脱いで投げ捨て、清流の如くすべらかな白髪を打ち振り、蠱惑的に舞います。 「こりゃあいい。者ども、伴奏だ!ウードとラバーブ、セタールとナイを持ってこい!」 髭男が音高く手を打ち鳴らし、腕に覚えがある子分たちが楽器を奏で、杯になみなみと酒が注がれます。 貴方の役目は陽動、囮。踊りながら木陰の相棒に目配せし、一際好色そうに脂下がる、髭男にしなだれかかります。マルズークは樹上に移動し、合図を待っていました。 今です! 「さわんな下郎」 枯れ木の枝を撓らせ一回転、焚火の上に着地したマルズークがシャムシールを一閃。醜悪な笑顔を張り付けたまま髭男の首が飛び、鮮血の弧を描いて転々とはねました。 「きゃああああああああ!」 「敵襲だ、剣を持て!」 マルズークの足は水魔法で保護されており、火傷から守られています。逃げる盗賊の背に追い縋り斬り伏せ、振り向きざま刃を受けて弾き、酒の瓶を落として慄く女たちに叫びます。 「逃げろ!」 マルズークの一声で呪縛が解け、甲高い悲鳴を上げて逃げ散る女たち。盗賊は総勢二十名、対するこちらは一人、いや二人。数の上では多勢に無勢、到底勝ち目はありません。 『雷よ 銀月を這え』 「とりゃああああああ!」 若き剣士が裂帛の気合をこめてシャムシールを振るい、青い火花が飛び散ります。貴方の魔法とシャムシールの剣技が揃えば無敵、阿吽の呼吸の連携でまた一人また一人と倒れていきます。 「曲者があっ、名を名乗れ!」 自分を包囲した賊の誰何に、マルズークは朗々と宣しました。 「ダビ村の石工の倅、無双剣士マルズークだ!」 半刻が経過する頃には谷は静まり返り、盗賊たちの死体が累々と転がるだけになりました。 「はあっ、はあっ」 「ご苦労様。疲れたかい」 地面に突き立てたシャムシールに縋り、息を整えるマルズークが振り向きざま、貴方の胸ぐらを掴みました。 「おい!」 「何かな」 「あーゆーのやめろよ!」 「あーゆーのって」 「~っ、女に化けて囮になったりさァ!?危ねえじゃん、もうすこしでホントにヤられちまうとこだったろ」 「僕が手ごめにされたら困るのかい」 貴方はきょとんとします。 マルズークの顔がますます赤くなります。 「何故?どうして?」 「俺が嫌っていうか……あーゆーやりかたで助けられんのは癪なの」 何故?何故? 無邪気に問い詰める貴方に根負けし、マルズークはそっぽを向き、谷を埋め尽くす骸を見下ろしました。 「復讐は終わったね」 「……ああ」

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