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第19話

 何よりも葛城の容態が心配で、東宮の奥の対屋に行き声をかける。舎人の先導で中に入ると、葛城は地図を見ていたようだ。 「ただ今もどりました。お傷の具合はいかがでしょうか?」 「掠っただけ故、大したことない。心配いらない」 「見せてくだされ」そう言って、葛城の着物を寛げて傷を見る。 「ああ、深くはないようですな」心から安心したように言う。  磯城のいつにない強引さに葛城は驚く。ほんに今日の磯城は別人のようじゃと。ところがその磯城が、いきなり涙ぐむのに更に驚く。 「ああーっどうしたのじゃ? 心配かけてすまんんだ。このように傷も浅い、そのように泣くな、そなたに泣かれると吾は……」 「も……申し訳ございません。心配で心配で……浅い傷でようございました。しかし、浅いとはいえ東宮様にこのような傷が……」  葛城は、そう言って涙を流す磯城を、優しく抱きしめる。そして頭と背を撫でながら、あやすように言う。 「大丈夫じゃ、このような浅い傷、すぐに消えてなくなると医官も申しておった。ほんに今日はそなたには心配かけてすまなんだな」  泣く磯城は弱々しい。こうして抱きしめる体は華奢ではかなげだ。やはりこの人は、吾が守るべき人だと思う。  葛城は、磯城の体を離し顔を上向かせ、涙を吸い取ってやるとそのまま口付けた。磯城は抵抗なく受け入れる。  葛城には何度も口付けられた。啄むような優しいものから、貪るような激しいものと様々に。しかし、今日のこの口付けほど磯城を陶酔させたものはなかった。  磯城は、自分からも葛城の口付けに応えた。それも初めてのことだった。磯城にとって初めて自分から求めた口付けといってよかった。  激しい口付けのあと、磯城は自分から葛城に抱きつく。この時、磯城は葛城への愛を自覚する。愛する人とする口付けは陶酔をもたらすものだと初めて知った。  葛城も、磯城が己への愛を自覚したと悟る。葛城にとって歓喜するべき時が漸く訪れた。さすがの葛城もこれは予想外だった。  ある意味わざと襲わせた今回の件。それは三宮討伐の口実のためだ。それが、よもや己の怪我で磯城が己への愛を自覚するとは! まさに怪我の功名とはこのことか? 葛城は喜びで踊り出しそうになる体を必死で静める。そして、嬉しさのあまり幾分上ずった声で告げる。 「あなたが好きだ。あなたは吾の半身。ずっとそばにいてくれ、吾の体を引き裂かないでくれ」  磯城は、葛城を抱きしめる力を強める。それが承諾の返事だった。  葛城にとっては、長い思いが漸く報われたわけで、このまま褥に押し倒したいのは当然だった。磯城も抵抗しなかったかもしれない。  しかし、ここは葛城の東宮としての理性が勝った。明日は朝から、討伐軍の最初の軍議が開かれる。必ず勝つ、そして勝利の暁に今度こそ磯城の身も心も己のものにする。葛城は静かに闘士を燃やす。  葛城は、磯城の体を離し、頭を優しくなでその頬を掌で包む。 「今日は疲れたでしょう。明日は朝から諸将を集めて最初の軍議、対屋に戻ってゆっくり休まれるがよい」 「はい、そうさせていただきます。東宮様もゆっくりお休みくださいませ」 「磯城、葛城と申せ」 「……はい、葛城様」  磯城は、自分の対屋に戻る。確かに今日は駆けずり回り疲れた。明日も朝から忙しい。そう思い褥に横になるものの、気持ちが昂りしばらく寝られなかった。  あの仕置きと称した行為の翌日告げられた葛城の自分への深い思い。あれは、磯城を強力に葛城に縛り止めた。もう離れられないと思った。しかし愛とは言えなかった。ある意味義務感のようなものだった。  しかし、今は違った。明確に自分から葛城の側にいたいと思う。愛しているのか? 多分そうなんだろうと思う。  磯城は、愛の経験が無かった。愛したことも、愛された経験もなかった。磯城のような立場の人間には珍しくない。むしろ一途な愛を注ぐ葛城の方が稀有だと言える。  愛を知らない磯城に、葛城は嵐のような愛を授け、そして求めた。その嵐に抗いながらも振り回された磯城も、初めての愛を知ろうとしていた。  磯城は、昂った気持ちに悶々としながら何度も寝返りをうちながら、漸く眠りについた。その眠りは深く、磯城の疲れた心と体を癒した。    軍議の場に入り、既に参集した諸将の顔ぶれを見て磯城は安堵した。主だった王族、豪族がそろっていたからだ。  明確に大王、東宮派だった者は勿論、中立派の者も顔を揃えていた。やはり、三宮派の東宮襲撃は反感を買い、中立派をこちらに靡かせたといえそうだ。  皆が低頭し大王を迎え、軍議が始まる。先ずは磯城が東宮後見として今回のことの経緯を説明すると、参集した諸将の全てが討伐軍の派遣に賛意を示す。 「討伐は決まりとして、次は軍の大将じゃな。本来なら東宮がするべきじゃが、東宮、そなたできるか?」  大王の下問に、葛城は即答する。 「無論できます。大将は私以外におりません」 「けがは大丈夫か?」 「大王様にはご心配おかけして、まこと申し訳なく思っておりますが、これしきの怪我で東宮としての務めを放棄するわけにはいきませぬ」  実は、大王だけでなく磯城も葛城の体を心配した。しかし、ここで葛城以外の誰が大将を? と考えると適任がいないのも事実だった。己が務めるのも違うと思う。ここは、葛城が大将で、自分はそれこそ身を挺して葛城を守る、磯城はそう考えていた。 「そうか、あい分かった。大将は、東宮そなたが務めよ。八宮、そなた副将として東宮を支えてくれ。日頃後見として東宮を支えるそなたが適任じゃ、よいな」  よかった。これで文字通り葛城の側で守ることができる。磯城は心の中で大王に感謝する。 「はっ、及ばずながら誠心誠意務めさせていただきます」 「うん、期待しておるぞ。で、三宮の動きはどうじゃ? あれも軍を動かしておろう?」 「やはり事前に準備していたようです。おそらく最初の集結地は飛鳥の原と考えます」  磯城が答えると、葛城が後を引き取り、図面を広げて説明する。 「敵は飛鳥の原での決戦よりも、更に奥に我々を呼び込みたいのでは? と考えております」 「なるほどのう……奥は……そうか高松の本拠だな。土地勘のない我々を呼び込み叩く算段か、数に劣る故に十分考えられるな」 「はい。ですから我々は何としても飛鳥の原での決戦に持ち込まなければなりません。奥に引き込まれれば土地勘がないうえ、数の多さが仇になるやもしれません」 「うん、そうじゃな。よう気が付いたな、さすがじゃ」  磯城も、葛城の視点に感心した。だから昨晩遅くまで、図面をご覧になっていたのだな。 「はい。ですから直ちに出陣しなければなりません。一刻の猶予もございません」 「そうじゃな、それでは諸将、大将及び副将に従い直ちに出陣の支度をするように。余は吉報を待っておるぞ」 「おおーっ」  大王の激励に、全員の雄叫びで軍議は散会した。

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