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第25話 誰の掌の上
若は一言言うだけで良かった。たった一言灰蛮へ「武彦の風除けになれ」と言うだけで。
積み上げられた書類を前に竹漸は大きく息を吐いた。これらは全て灰蛮から提出された「反省文」である。
「全く何なんでしょうねぇ、あの人は」
灰蛮は“彦”について反感を抱いているごく一部の、声がデカい連中についてよく知っているし、借金のカタにされた武彦の坊ちゃんの盾になるくらいは自業自得。そう命じられるのはごく自然な流れだった。
学園では無理でも屋敷内では坊ちゃんから灰蛮を引き離したいという若の私情は多分に含まれているが、それ以外にも大きなオマケがついてくる。
まず、灰蛮の異能について。
灰蛮の能力は情報収集に特化している、と若は確信を持っている。短時間で坊ちゃんの所在を正確に割り出し、屋敷に乗り込んだだけでなく部屋の位置すらも特定した。
購入したばかりで誰も番号を把握していないスマホに着信履歴を残したこともそうだ。“蛮”との接触を警戒し、監視する中で情報共有などが行われた形跡はまるでなく、灰蛮特有の能力であることは間違いない。
ただ念には念を、である。
普段から“彦”に対して反発心を抱いていなくともここは“漸”の屋敷。根回しもなく突如として居住を移した灰蛮や坊ちゃんへの反感は若い衆を中心にとても強かった。
風除けという名目で彼を矢面に立たせ、多くの人間と接触させることで異能の発動を待ち、痕跡を掴むにはちょうど良かったというのもある。
短い間に灰蛮は様々な能力と対峙したが攻撃や防御方面に力が働いたことはなく、能力の系統は「探知に特化したもの」であろうとこの時点で確定した。
ちなみにこれにより坊ちゃんは「アイツよりはマシ」ということでまぁまぁ受け入れられつつある。若やお偉方との交流が多いため権力に媚びるといった陰口こそ聞かれるが、片っ端から喧嘩を売り買いする灰蛮より「大人しい」という評価に落ち着いたのだ。
いっそ恐ろしい程、全てが若の掌の上で踊っている。
一言言うだけで坊ちゃんへの風当たりは緩和し、坊ちゃんに対し好ましくない相手は灰蛮ごと遠ざけられ、同時に能力の特定・検証は秘密裏に終えられた。ここまでで充分な成果と言えるだろうが、若が想定していなかった副産物が一つ。
灰蛮からの「反省文」である。
「まったくご丁寧に写真までつけていただいて」
灰蛮に向けられる反感にも種類がある。単に縄張り意識的なものなのか、元々“蛮”に対して抱いているものなのか、はたまた堅牢な守りの中に居る坊ちゃんへ手が出せないからこそ灰蛮へ怒りをスライドしているのか。
提出された反省文にはその推察から根拠、坊ちゃんが誰を警戒するべきかなど詳細に書き連ねていた。相手の名前を知らないという理由で写真も添えて堂々と出してきたのだ。
こんなもの、ただの調査報告書だ。明らかに密偵のそれである。
けれどそこは問題児。誰も反省文など警戒しない。長々と時間をかけて書き上げていても、彼に対し抱いている嫌悪や悪意が強ければ強い程優越感で視界が濁る。味方である“漸”に良い側面しか見せない身内の、身内であるからこそ見えない攻撃性、隠された敵意を正確に掌握したそれが妨害もすり替えもなく、これほど安全に行き来することは本来あり得ない内容だった。
坊ちゃんのためと思えばこそ灰蛮の筆は乗り、しかし同じ空間で過ごす時間は遠退く。
「何なんでしょうねぇ」
若は昏倒する危険があるからと坊ちゃんを言いくるめ、灰蛮が詳細に書面を書き上げている間二人での入浴を楽しんでいる。昨晩など風呂に入っている最中記憶に囚われたらしい坊ちゃんから「溺れずに済んで助かった」という趣旨の感謝の言葉を受け大変ご機嫌だった。
菊漸などはその構造に気付いた瞬間白目を剥いていた。灰蛮の監視役も兼ねている奴が言うには「このことがバレたら血の雨が降る」らしい。我々側近一同の口は堅く閉ざすより他ない。
「竹漸」
ふらりと部屋に寄ったのは藤漸だった。平日に坊ちゃんとキッチンカーを出店する機会を虎視眈々と狙っていたが、若の手伝いもあって近日中に実現へこぎつけたらしい。若の側近の中では彼が一番上手く立ち回っているだろう。
「夜食持って来ましたよっと」
「試作品ですか」
「さっすが。いやぁ夕方に武彦の坊ちゃんと盛り上がりましてね。バリエーション考えてたら止まらなくなったのでお裾分けに。あ、感想はちゃんといただいていきますんで」
「食べられるクオリティなら若と坊ちゃんへ献上ですか」
「もちろん。お二人に下手なもん食べさすわけにいかないでしょう」
悪びれなくそういったかと思うと藤漸は横に腰を下ろしサッと反省文に目を通した。
「こりゃ次期指名は灰蛮ですかね。相当仕込まれてやがる」
「側近かもしれませんよ」
「ま、どっちにしろ自分を買い上げてからの話ですがね」
「予定に変更は」
「配置換えがいくつか。坊ちゃんに何かあったらいけないのでね。あ、リスト撮っても?」
「わかっていて聞いてますよね」
「はいはい覚えます、覚えますって」
取り出しかけた携帯に指を向ければ慌てたように懐へ仕舞い込んだ。灰蛮の反省文は梵漸の親父の他、若やその側近までしか閲覧することが出来ない。万一他の人間の目に触れないよう持ち出しは厳禁である。
「坊ちゃんてば今若と鷲のと一緒に映画を楽しんでますよ。ポップコーンなんて作っちゃってそりゃあもう楽しそうに。課題終わったからご褒美なんですってよ」
「なるほどそれで今すぐこれを食べて出せる物か判断しろと」
「竹漸の舌がこの屋敷で一番肥えているもんで」
「全くあの二人にはとことん甘い」
「アンタにそれを言われるとは思わなかった。ああまぁ、俺たちは皆あの二人をこーんな小さな頃から知ってるせいですかね」
「胎児にすらなってないでしょうその大きさでは」
「はっは、でもまぁ、俺もアンタも、当然菊漸も考えてるこた同じでしょう。俺たちの一番は若で、その若が望んでることが全てだ」
「違いありませんね」
「坊ちゃんのことだって、若と同じくらい、なんざ言っちゃなんない立場なんですがね」
竹漸も菊漸も藤漸も、坊ちゃんが初めて歩いた瞬間を目撃し歓声を上げた中の一人だ。明彦様が満面の笑みで両手を広げ迎えるのを微笑ましく見守った。
いや、もうあの頃から若の執着は凄まじく、明彦様の腕の中にぽふりと倒れ込んだ武彦坊ちゃんに「今度はこっちだよ」と呼びながら手を叩いていたのを思い出す。さすがにあの時点で恋だのなんだのはなかっただろうが。
『あい!あい!』
元気いっぱいに返事を返し一歩進むごとに怪獣よろしくずしん、ずしん、と全身を動かす。誰もが固唾を飲んで見守り、その小さなお体が無事若の腕に囲われた瞬間拍手が巻き起こった。盗み見た梵漸の親父の、愛情に溢れた顔を見るにあのとき既に「父親」になろうと思っていたのではないだろうか。
何しろ梵漸の親父は今も昔も明彦様を愛していらっしゃる。
片親の顔と名は知らずとも明彦様のお子である武彦坊ちゃんのこともまた、息子として大変に、そう、大変に溺愛していらっしゃるのだ。
これまで一体何度坊ちゃんを取り合う若と当主を見ただろう。どちらが坊ちゃんにとって頼りになるかで常日頃競っているし、「武彦は嫁にも婿にもやらない」と毎日のように言っていることは側近たちからのボヤキで知った。
「これ、若が誰を嫁にしたいって言ってたか絶対知ってるよな」と菊漸は胃の辺りを抑えていた。確かに。それでなければ坊ちゃんを婿ならばまだしも嫁に出さないとは言わないだろう。
「そうだ藤漸、例の要注意人物について容姿こそ共有していましたがお名前を伝え忘れていました。若には伝えたのですが当主陣にはまだ」
「あー、それ。必要ないかと」
「既に調べがついていますか、さすが…」
「いえ違うんですよ。なんでもあの男、明彦様やご当主様方と同じ学舎で過ごしていたらしく、所謂クラスメイト、だったとか」
「そんな、ことが」
あり得るのか。身内への裏切りがそんな近しい人物からであることが。
絶句しているこちらに構わず藤漸は続ける。
「ただ厄介なことになりました。明彦様誘拐の主犯と目されているあの男の名前を知って灰蛮が暴走しかけましてね」
いつも飄々としている顔が緊張感を滲ませて歪む。
「高遠スイ。なんでも坊ちゃんのご学友に、奴の実弟が居るようです」
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