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プロローグ

 血に染まったシャツを中心から裂いて、胸部全体の皮膚に褐色の消毒液を塗りつける。貼り付けたばかりの心電図モニターの波形が乱れ心室細動を映した数分後には、一本の線となってエイシストールアラームが鳴り響いた。心停止だ。除細動器で電気ショックを与える。 「もどれ、クソ!――もどってこい!」  男の体が数回バウンドする。微かに波形を認めたがフラットな波形へともどる。なおもバウンドが繰り返した後に波形はリズムを取り戻し、再び男の心臓は動き出した。上条(かみじょう)医師は息を吐いた。そして右手にメスを握り手術を再開した。  銃弾は心臓を掠めていたが臓器自体の損傷は少なかった。胸部大動脈の断裂よる出血は激しく輸血量を増やす傍で、損傷した血管へ人工バイバス施工術を試みた。銃弾がうまく肺を避けて貫通していたことが、せめてもの救いだと上条は思った。胸部大動脈の断裂だけでも致死率は高く、男が上条の診療所に運び込まれた時間も早かったことが功を奏したともいえる。呼吸も安定し数時間に及ぶ手術を終えて普通ならば安堵するところだが、上条の憂鬱な気分は晴れなかった。なぜなら、これから設備の整った都立中央病院へと移送しなければならず、古巣の医師の顔がちらついたからだ。  上条の診療所は新宿歌舞伎町にあるネオン街の細い路地裏にあり、通常では診療所を発見することはできない場所にあった。目立つ看板も出ておらず、いわゆる闇医者もどきの診療を生業にしていた。上条自身は、確かに医師免許を取得し列記とした医師なのだが、ある醜聞から上条は大学病院を辞めていた。醜聞は大学病院にとどまらず広まり、都立中央病院も例外ではない。この診療所は、追い詰められた上条の行き着いた場所なのである。  患者は瀬能慎二(せのうしんじ)29歳。この新宿歌舞伎町を締めている大隈(おおくま)組のチンピラで、気性が荒く揉め事ばかり起こしていた。数時間前に診療所の近くのホストクラブから出てきたところを襲撃に遭い、舎弟等によって上条の所へ運び込まれた。殺人の前科のある厄介な人物だ。   「先生、来ました!」  診療所の外に待機していた舎弟等の知らせに、上条はストレッチャーに乗せた瀬能を運ぶように指示を出す。細い路地への緊急車両の侵入は難しく、大通りへ出るまでの数メートルをストレッチャーで運ぶ他なかった。出迎えた救急隊員に指示を出し、診療所から最も近い都立中央病院へと走らせた。  都立中央病院の救急搬送先の入り口には、既に待ち構えていた当直医や看護師等の姿があり、事前に連絡をしていたことから経緯を説明に要する時間は少なく、引渡しが済めば上条は帰宅することができたはずだった。当直医等の背後から堂本(どうもと)外科部長が現れるまでは、平静を保ていたというのに。上条は深い息をついた。 「久しぶりだな。――少し話せるか?」  175センチの上条よりも数センチ高い長身の堂本の目は、疲労が伺え目の下に隈ができていた。声が掠れているのは気のせいではないようだ。理知的な目に狡賢な色が見えて上条は目を背けたくなるところを、真正面から睨んでやった。べつに意趣返しにもならないだろうが。外科で色男で通っている堂本と対称的な上条の容姿は、男性的というよりはやや中性的で線の細さが目立つ白皙の美貌を誇っていた。 「俺には、話すことなんてない!」  踵を返し立ち去ろうとする上条に堂本は駆け寄って、乱暴に手首を掴んだきた。瀬能を乗せたストレッチャーは当直医や看護師等によって建物内へ運ばれて行く。若干上条を知る者も含まれていたことや、堂本と上条の様子に訝しむ者もいて、非難する視線やヒソヒソとささやく声を上条は耳にしたが、いつものことだと無言で彼等の背中を見送った。 「違法な診療所をいつまで続けるつもりだ!」  手首を離さず、もう片方の手で上条の頤を掴んできた。 「離せ」  上条の剣呑な反応に堂本は唇を歪めて笑う。その目の奥に獰猛な光が見えて、上条は体を固くした。警戒していることを悟られたくなかったが、冷静になれないのだから対処のしようもない。過去の恐怖に体が震えるのを感じずにはいられなかった。 「今運ばれてきた患者は組関係なんだろ?――ファックスを読んだ。完璧な処置で、あれ以上都立中央病院(うち)で治療する必要はないはすだ。それでも診療所に入院させないのは、入院設備がないのとヤクザ同士の抗争が起これば患者の命が危険だからだろ? だがな、都立中央病院(うち)も困るんだ、ヤクザなんかを送りこまれては。医局でも問題になっている」 「僕が……便宜を図ってやってもいい。きみのためにね」  いつの間にか頤から離れた手は意味深に上条の耳朶に触れてくる。 「……っ」 「相変わらず感じやすいな」  堂本の手を振り払い、キッとにらみつけた。1年前に起きた屈辱的な夜をまざまざと思い起し、引き結んだ下唇は血が滲むほど無意識に力が入っていた。微かに震える口を開き、上条は堂本の胸ぐらを掴むと怒鳴りつけた。 「あんたのせいだろ!――俺が働けなくなったのは。あんたが……あることないこと噂を流して、あんな……っ」 「きみが僕のいうことを素直に聞かないからだろ。――従順になるのなら、この病院へ復帰させてやる。どうなんだ?」  目の前の男の言動に、未だ男に首根っ子を押さえられていることを自覚して眩暈が起きそうだった。上条の経歴辿れば、医学部を卒業する頃には既にの脳外科医の現場で即戦力になるだけの知識を有しており、技術面も同期の誰よりも優れていた。インターン当時さえ難易度のある手術をやってのけるなど、上条の名を知らぬ者がいないほど前途を嘱望されていた医師だった。まさか、よりによって闇医者まがいの生き方をしなければならなくなるなど考えたこともなかった。  あの日、(すんで)の所を堂本から逃げることができた。しかし、それ以来悪い噂が出回るようになった。男と寝ているというだけならまだしも、患者や医療機器メーカーからリベートを受け取っているなどと。噂はさらに深まり、大学病院から週3日派遣の形で執刀に出ていたことから、大学の今の地位さえも枕営業の結果なのだろうなど、噂は尽きなかった。大学側からは辞職をするように迫られ、当然派遣先の都立中央病院も辞めることになったのだ。 ――俺さえ頷けば事は収まる。堂本(あの人)に抱かれさえすれば。  実際、都立中央病院に患者の受け入れを拒否されたら、今より遠くへ運ぶことになり、それだけ患者の命のリスクが高くなる。それに受け入れ先があるのかどうかもわからない。歌舞伎町界隈の住人にとって都立中央病院は、なくてはならない病院なのだ。 「見ないうちに野生的になったな。都立中央病院(うち)で執刀しているときも十分に美しいとは思っていたが、剥き出しのきみもいい。――以前よりもいじめがいがありそうだ」 「ふざけるな!」 「今の僕には、きみと遊んでいるほど余裕がない。――条件をいう。ある男に遭ってほしい」  堂本の目は険しく、少しの譲歩も許さないという張り詰めた空気が漂う。上条は溜息をついて口を開いた。 「誰と逢えばいいんだ?――遭うだけだからな!」  一瞬苦しい顔を見せて堂本が告げた。 「月城連(つきしろれん)、危険な男だ」    

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