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第6話
たたでさえマテウスは多忙なのだ。返信を期待しているわけではない。それでも、最近は自分宛ての郵便をメイドに渡されるたびに、少しだけ心がそわそわしてしまう。
連絡をしようと思えば他にも手段はあるのだし、それこそ戦地より帰還したマテウスは今は軍の本部にいるはずだ。ここからは目と鼻の先なのだし、会おうと思えば会うことだってできる。
それをしないのは、あの夜があまりに楽しかったため、カイ自身がどこか現実だと思えていないからなのかもしれない。
「さてと、昼食も食べたし仕事の残りを終わらせようかな」
サンドイッチに付属していたペーパーで手をふきながらそう言えば、同様に紙袋を小さくしていたオーリーが困ったような顔をした。
「午後も仕事を続けるのか?」
「来週には、多分大戦のバトラックスのデータが追加で届くはずなんだ。それまでにもう少しここを整理しておきたくて」
「仕方ないな……俺も手伝うか?」
立ち上がったオーリーが、わざとらしくため息をついた。
「え? 悪いよ」
「お前が休日返上で働いているのに、助手の俺が遊んでるわけにもいかないだろう。二人でやれば時間も半分で……」
オーリーの言葉は、最後まで続けられることはなかった。ちょうどその時、トントントンという、少しせっかちなノックの音が聞こえ、思い切りドアが開かれたからだ。
「お兄様! 移動電話の電源はちゃんと入れておいてくださらないと意味がないでしょう!」
若い女性特有の張りのある声が、研究室によく響いた。カイの隣にいるオーリーが苦笑いを浮かべるのが見える。
慣れたように研究室に入ってきた女性は、カツカツと床にヒールの音を鳴らし、長いスカートを翻しながらカイのところまでやってきた。
「ルーシー、ここは機密も多いから関係者以外は基本的に入れないんだけど……」
「だったらこんなところにまで私を来させないでちょうだい! まあ、働く場所の選択肢としては悪くないとは思ってるけど」
カイの妹であるルーシーは大学の最終学年で、今は卒業後の就職先を探している最中だ。
上の兄たちと同様にアルファであるルーシーは優秀で、国の機関からも勧誘を受けているらしい。
アルファとはいえ女性なのだから、早く結婚をと望んでいる母とは、最近はしょっちゅうそれに関して言い合いをしている。
カイがエリックとの婚約がダメになったこともあり、せめてルーシーは早く結婚して落ち着いて欲しいと母が思っているふしがあるため、少しばかり申し訳がなかった。
「ルーシーは研究者には向かないんじゃないかな。その物言いを活かして弁護士にでもなった方がいいんじゃないの?」
「法学には興味があるけれど、そうしたらまた二年学校に行かなければならないでしょ? 私は早く自立したいの」
今時の女学生らしいルーシーの勝気な言い分が微笑ましくて、カイの頬が自然と緩む。
「それで? こんなところにまで来るほどの用事が何かあったの?」
「……オーリー!」
ルーシーが、慌てたようにオーリーの方を向いた。カイと話すことに夢中になっていたため、今の今までオーリーの存在に気づいていなかったようだ。ほんのり頬を赤らめて、どうして教えてくれなかったのだとばかりに視線をカイに向ける。
直接本人の口から聞いたわけではないが、妹は随分長い間オーリーに片思いをしていた。
研究室に時折顔を出すのも、カイではなくオーリーが目当てなのだろう。
「そ、そうだった……お父様から伝言を頼まれているの。お兄様はすぐに家に帰るようにって」
小さく咳払いをし、かしこまったようにルーシーが言う。
「今すぐ? 何か緊急の用事でもあるのかな?」
朝が早かったこともあり、家族の誰とも顔を合わせていなかったが、見送ってくれた執事も特に何も言っていなかったはずだ。
思い当たる節はあるだろうかとオーリーに目配せをしてみたが、オーリーも首を傾げるだけだった。
「それはもう、緊急も緊急よ!」
ようやくカイを呼びに来たことを思い出したのだろう。
「結婚の申し込みが来てるの」
興奮気味に言ったルーシーの言葉に、カイは小さく微笑んだ。
「ルーシーへの結婚の申し込みなんて、しょっちゅう来てるだろう?」
今年に入ってから、ルーシーへの結婚の申し込みは何件も来ているはずだ。大学在学中に婚約し、卒業後すぐに結婚する女子学生は未だ少なくはない。ただ、ルーシーはそういった申し出をすべて断っているはずだ。
「私にじゃないわよ!」
けれど、カイの言葉はすぐにルーシーに否定された。
「え? じゃあ……」
「お兄様に、来てるのよ! 結婚の申し込みが!」
カイの顔を見つめ、はっきりとルーシーが言った。
「え……?」
何かの間違いではないだろうか。あまりに驚いて、カイがなんの言葉も発せずにいると。
「誰から?」
カイの代わりに、オーリーが口を開いた。
「それが、二人から来てるの」
ルーシーの言葉に、ますますカイは驚く。
カイは今年二十六になるため、貴族男性としては適齢期と言っても過言ではないだろう。
けれど、オメガはそもそも数が少なく、希少価値が高いということもあり、結婚は皆早い。カイの年齢のオメガは、ほとんどが結婚している。もしカイにヒートが来ていれば、それこそ大学の卒業と同時にエリックと結婚していたはずだ。
この国の貴族は皆カイがエリックの婚約者であったことも、またそれが事情により解消されてしまったことも知っている。
「何かの冗談じゃないのか? それこそ、相手をルーシーと間違っているとか……」
とても信じられずにそんなふうに言えば、ルーシーが首を振った。
「ちゃんとお兄様の名前が書いてあったわよ」
「一体どこに……」
そんな物好きが、と言おうとして途中で止める。先日、マテウスに言われた言葉が頭を過ったからだ。
わざわざ、自分を貶める言葉を口にする必要はない。
「結婚を申し込んできた二人って? どこの誰?」
だから、素直に疑問に思ったことを口にした。
「一人はヒューゴ・ラッドフォード。ラッドフォード公爵家の三男だって……知ってる?」
「うん、知ってる……」
パーティー会場で出会った若い男の顔が頭を過った。
確かにカイのことを気に入ったような体を見せていたが、まさか結婚まで申し込んでくるとは思いもしなかった。
「もう一人は?」
相手がヒューゴであれば、さすがに書面で断るわけにはいかないだろう。面倒なことになったと思いながらそう問えば。
「この国の英雄、マテウス・フォークナーよ」
「は……?」
ルーシーの口から出た名前が信じられず、カイは手に持っていたペンをぽとりと落としてしまった。そして、元々大きな瞳をこれ以上ないほど瞠った。
カイの頭の中に浮かんだマテウスは、先日会った穏やかな表情で話しかけてきた彼ではなく、学院時代の、どこか不機嫌そうに自分を見つめていた姿だった。
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