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新年のご挨拶編 4 河野は突然デレてくる

 朝、出張気をつけてと行って見送りたかったのに。  ちっとも起きられなかった。  目を覚ましたら、もういなくて、行ってらっしゃいって言いたかった僕はメモの書き置きですら捨ててしまうのは名残惜しくて、畳んでしまってしまった。  スーツのジャケットの胸ポケットになんて入れて持ち歩いてるなんてもしも知られてしまったら、笑われてしまいそうだけれど。でも――。 「……」  今日一日、ことあるごとに触れていたスーツの胸ポケットにまた手を重ねた。  お互いに忙しいのなんて、最初から重々承知しているのに。 「年末っていうのはどうしてこう忙しいんだろうね」  先生がふとそんなことを呟いて、老眼鏡を机に置いた。資料に目を通していただいてる最中だったのに、つい、考え事を。どんな時も笑顔は徹底。なのに、つい、それがペラリと剥がれて、気持ちのままの表情をしてしまった。  僕は大慌てで今の気持ちが滲み出てしまっただろう表情をしまいこんで、きゅっと唇の端を持ち上げた。秘書だもの。側近の秘書が無愛想だと先生の印象を悪くするようなことになっては絶対にならないのだから、と、いつだって笑顔をキープしていないといけない。 「申し訳ない。お茶を」 「はいっ今すぐに」 「ありがとう。お茶、いただいたら、君も少し休憩を取って」 「あ、いえ、僕は」 「大丈夫。今日は少しゆっくり進めよう」  きっと、疲れてると思われてしまった。先生はどこまでも気配りのできる素晴らしい人だから、僕が何か考え込んでいるってわかってしまったのだと思う。  急いで先生のお気に入りの緑茶を淹れて、僕は今日このあとまた心配をかけてしまうことのないようにと、頭をスッキリさせるために外へ。 「!」  その時だった。  わ。  って、気持ちがふわりと踊る。 「も、もしもしっ」 『お、今、大丈夫?』  成徳さんだ。 「はいっ、大丈夫です!」  元気に答えると電話の向こうで笑ってくれている。 『今、こっちはとりあえず大体の用事は終わったかな』 「そうなんですか? お疲れ様です」  外、かな。成徳さんの声よりずっと遠くがザワザワと騒がしい。 『それでさ』 「? はい」  今日はこのあと接待で食事をするって言ってた。遅くなるからそのまま一泊して、明日は挨拶周りをしてから帰るって。 『なんか、久我山に謝られたんだけど。何か、佳祐、あったのか?』 「? 僕、ですか?」  何か、とは。 『いや、邪魔をして悪かったって』 「久我山さんに、ですか?」 『いや』 「聡衣さんに?」 『あぁ』  移動中、なのかな。声が一定のリズムで少しブレて聞こえる。多分、少し早歩きとか、してる感じ。呼吸が少し乱れてて。 『俺は何もしてないしされてないから、佳祐の方で何かあったのかって思った』 「いえ、何も。あ、でもこの間お電話いただきましたよ。それで、今度、聡衣さんの親御さんに挨拶に行くと、あの、久我山さんが、それで頑張ってくださいって」 『ふーん、なんだろうな』  なんなんでしょうね。邪魔……された覚えはないですが。 「というか! 今日の出張先、久我山さんたちのいらっしゃる方面だったんですか?」 『あぁ』 「えぇ? もう、それなら言ってください。お土産とかご用意したのに」 『そんなのいらないだろ。重いし、別に。それにちょくちょくこっちに来てるから』 「そうだったんですか? 存じてなくて」 『存じてないだろ。言ってない。これもただ佳祐の声が聞きたかっただけだから』 「!」 『それじゃあ、切るぞ。着いた。そっち、明日グッと冷えるらしいぞ。風邪気をつけるように。今夜は接待で夜遅いから、電話等しないけど佳祐は明日早いだろ? 一日外出じゃなかったっけ。気をつけて』  成徳さんはどこかに着いたのか、途中で声の響き方が変わって、ずっとその背後から聞こえていた雑音等がぴたりと止まった。 「…………はぁ」  もう、なんなんですか。 「はぁぁぁ」  突然すぎて、何も答えられなかったじゃないですか。  成徳さんこそ、接待お疲れ様です。帰路、お気をつけて、とか。  久我山さんたちのいる所じゃ、こちらよりずっと寒いじゃないですか。成徳さんも風邪気をつけてくださいね、とか。  雪降ってますか?  今朝、行ってらっしゃいってお見送りできなくてごめんなさい。  他にもたくさん、貴方にお伝えしたかったのに。  言葉がぎゅっと感激しすぎて出てこなくなってしまった。 「…………」  だって、僕の声が聞きたかっただけ、だなんて。 「…………よぉぉぉぉし!」  嬉しくて、嬉しくて。 「おや、しっかり休憩ができたのかな?」 「はい! もうとってもしっかり取らせていただきました!」  きっと今ならどんな資料だって、即座に作成できてしまう気がする。 「それは何よりだ」  先生はにっこりと笑いながら、またメガネをかけて、目を通していただいていた最中の資料へと視線を移した。その口元は少し微笑んでいるようにも見える。そんな先生のお手元の邪魔にならないようにと空になった湯呑みを下げた。 「蒲田君」 「はい」 「最近の君は毎日とても表情豊かだね」  豊か、ですか? 「とても良いことだ」  でも、きっと以前ならいつだって笑顔でいたのに。今は、さっき、先生に心配をかけてしまうほど、表情に出てしまっていたはずなのに。  しょんぼりって気持ちが。  きっと。 「さ、年末年始の長期休暇を楽しみに頑張ろう」 「! はい」  少しボリューム調整を間違えて大きな返事をしてしまうと、先生は楽しそう。 「いい返事だ」  そう言って笑っていた。

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