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蜂蜜よりも甘いもの… 3
その後すぐ、レイヴンは持参していた水で傷口を濯ぐと、手拭いを巻いて簡単な止血を施した。レイヴンの治癒能力を以ってしても、自分自身の傷は癒せない。なんとも皮肉な能力だとシンが苦笑するも、当の本人はあまり気にしていなかった。
レイヴンとシンは小屋へ戻った。さほど重くならなかった籠を背負うレイヴンは、熊を仕留めたシンをどうやって手伝おうかと思案した。自分の何倍もの重さがある熊を、橇も台車もない状況で山の上まで運ぶなど、無謀にも程がある。
(そもそも、どうやってここまで運んできたんだろう?)
一応、シンに尋ねると彼からの回答は実にシンプルなもので、「引き摺っていく」の一択だった。仮にそれを行ったとして、踏ん張りでもしたらせっかく閉じた傷口がまた開いてしまうのではないかと、レイヴンは内心冷や冷やした。それが杞憂に終わったのは、シンが予想に反して軽々と熊を引き摺り、呼吸を乱すことなく小屋の前まで着いた後だったが。
まるで重力など無視しているかのような不思議な光景に、レイヴンは驚くと同時に感心していた。思い返せば、シンは最初から不思議な人間だった。驚異的な回復力を見せたり、占い師のような予知能力を発揮したりと、普通の人間ならばありえないことを平然とやってのける。
もしかしたら、自分のような特別な力がシンにもあるのかもしれない……そう考えつつも、シン本人に尋ねることが躊躇われた。
真実を知ったところで、シンはこの村を出ていく身だ。変な仲間意識が芽生えないよう、意識的に制止をかけていた。
「さて」
熊から手を離したシンは、近くの川から汲んだ水を盥に張ると、小屋の中から包丁を一本取り出した。
「今から熊を捌くんだが……やったことあるか?」
「僕は魚と、蛙や兎くらいしか経験がないです……」
「だろうな。じゃあ、オレがやるから。レイヴンには鍋の支度をお願いするよ」
言いながら、シンは着物を脱ぎ、元から穿いていた下衣を残して上体の肌を顕にする。丈の合っていないそれが熊を捌くのに煩わしかっただけかもしれないが、わざわざ丁寧に折り畳むその様子に、父の形見を汚さまいとする気遣いを感じたレイヴンは、密かに心和んだ。
腹の傷口も痕は目立つものの、ほとんど塞がっている。これならば、あと三日もあれば完治するだろう。
レイヴンは斜め上を見上げた。
「えっと……熊のお鍋って、山菜やキノコとも合うんでしょうか?」
「ん〜……」
初めて食すものに対するふとした疑問に、今度はシンが宙を見上げた。
お互いがしばし考え込むも、諦めたのかシンの出した結論が。
「肉なら何でも合うんじゃねえの?」
と、身も蓋もないものだったせいか、レイヴンは一瞬きょとんとした後、くしゃりと破顔した。
「ふっ……ふふっ。あははっ!」
口元を両手で抑えつつもクスクスと笑うその様は、花が咲いたようだった。
初めて目にするレイヴンの笑顔に、シンは珍しく目を見開き、薄っすらと口を開ける。
固まり、しばし釘付けになるシンだったが、その金縛りを破るように唇と脚を動かした。
「なあ、レイヴン」
「は、はいっ」
名前を呼ばれたことに驚いたのか、ビクッと肩を竦めて笑うことを止めたレイヴンは、こちらへとやって来るシンの顔色を窺うように見上げた。
いきなり笑って失礼だっただろうか。さすがのシンも怒っただろうか。そんな不安が押し寄せる中、シンの顔がぐんと近くなる。
「あの……あの、ごめんなさ……」
「これは反則だって」
「え? 何……んんぅ!?」
いったい何を言われたのかわからず、聞き返そうとするも、噛みつくようなキスでレイヴンは口を塞がれる。
「んっ……や、シ……んぅ……!」
逃さまいとするシンの両腕が、レイヴンの身体を抱え込んで放さない。今までのキスよりも激しさのあるそれが、レイヴンに恐怖にも近い感情を抱かせた。
絡め取られる舌を引っ込めようとしても、蛇のように長い彼のものがそれを許さない。幾度となく角度を変え、余すところなくレイヴンをしゃぶり尽くそうとする。
「はっ……はあっ……んっ、シン、さ……」
やがて息も絶え絶えになり、膝が笑い始めたところで、シンはズルリとレイヴンから舌を引き抜いた。
「んぁ……」
トロリと伸びる互いの銀糸が、一つの玉となって地に落ちる。
思考が停止したかのように恍惚とした表情を浮かべるレイヴン。シンは彼の口元を指で拭ったかと思うと、艷やかな満面の笑みを浮かべてみせた。
「よし。捌いてくる」
そう言ってシンは離れると、上機嫌に鼻唄を歌いながら包丁片手に熊を捌き始めた。
「……っ、お、お願い、します」
我に返ったレイヴンは必死に言葉を絞り出すと、口元を覆いながら、逃げ込むように小屋に入った。
大きく息を吸ってから長く吐き出す。そうでもしないと、治まりそうもなかったのだ。
「…………なん、だろ。この……動悸…………不整、脈?」
レイヴンの心臓が、うるさいほど早鐘を打っていた。病気の類を疑うレイヴンに、その本質がわかるわけもなかった。
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