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蜂蜜よりも甘いもの… 2
子供の一人が叫び声を上げた。それを皮切りに、他の子供達も喚き叫んだ。
レイヴンへの攻撃に集中し過ぎて、気づかなかったのだろう。身の丈三メートルはあろう大きな熊が、子供達には忽然と現れたように見えたのだ。
レイヴンはドクドクと脈打つような己の鼓動を感じていた。この山に熊が生息していることはもちろん知っている。しかしこんな間近でその存在を目にしたことはなかった。
「うわっ……うわああっ……!」
「に、に、逃げろおおー!」
子供達は慌てるようにその場を離れ、村へと駆け出していった。熊と遭遇した時の逃げる方法として、彼らの行動は大いに間違っているのだが、まるでそびえ立つ大木のようなその熊は微動だにせず、ガラス玉のように澄んだ両目で背中を見せる彼らを見つめていた。
(逃げる人を前にして、全然動かないなんて……)
異変に気付いたレイヴンは、胸の鼓動を手で抑えながらも、目を細めて熊を見つめた。
そしてあることに気がついたのと同時に、熊の後ろからヒョイと顔を出す人物が、「チッ」と軽く舌打ちをした。
「何だ。せっかくでかいのを捕らえたから、熊鍋でも振る舞ってやろうかと思ったのに」
「し……シン……さん?」
「よお」
片手を上げてレイヴンに挨拶をするのはシンだった。続けて、もう片方の手をパッと離したかと思うと、立っていた熊はゆっくりと横になって倒れた。
(やっぱり、死んでるんだ……)
改めて熊を見ると、首の辺りから血を流していることを知った。
傍で腰に手を当てるシンが、熊を指差しながら「美味そうだろ?」と嬉しそうに笑っている。まるで蝉を捕まえた子供のように誇らしげなシンを目にして、レイヴンはようやく彼が熊を仕留め、ここへ連れてきたということを理解した。
しかし……
(こんなに大きな熊を、どうやって仕留めたんだろう……?)
疑問が払拭されたわけではない。いくら回復しつつあるとはいえ、怪我人のシンが獰猛な熊を仕留めたなど、到底信じられなかった。
手には刀すら持っていない。着ているものも、レイヴンが貸している父の形見の着物なのだ。綿の布地で出来ている薄っぺらなそれでは、防護服にもなりはしない。
「立てるか?」
「は、はい……」
レイヴンは差し出された手を掴むと、そのまま身体を引き起こされた。その時、絵の具のように付いてしまった赤い血が、シンの手を汚した。
「ご、ごめんなさいっ」
慌ててその手を離そうとすると、シンは何を思ったのか、レイヴンの手を口元へと引き寄せ、傷口に触れるだけのキスを落とした。
「ひゃうっ」
ビクン! と身体を震わせるレイヴンに、シンは互いの眉を寄せた。
「痛かったな」
「……っ」
それはレイヴンを心配した言葉だろうが、当のレイヴンからは何も言葉が出なかった。
レイヴンはシンに見惚れていた。手から離れた形良い唇が、まるで紅を塗ったように美しく見えたのだ。
「レイヴン?」
「…………だ、大丈夫、です」
シンに見つめられ、反射的に視線を逸した。レイヴンの鼓動がドクドクと鳴る。驚きと恐怖で激しかった鼓動が、治まるどころかさらに早くなった気がした。
「しかし、最近の子供は恐いねぇ。寄ってたかって一人を甚振るのか。それもこんな石ころで」
コロン、と近くに転がっている石をシンが蹴った。あのタイミングで熊と共に現れたのだ。レイヴンが受けていた仕打ちを目にしていないはずがなかった。
手を握られたまま、レイヴンは答えた。
「僕がいなければ……彼らもあんなことは、しないと思います」
「へえ」
シンは空いている方の手を頤に当てながら、レイヴンに尋ねる。
「子供らに対して何かしたのか?」
その問いに、レイヴンは言い淀んだ。石を投げつけてきた子供達に対して、特別何かをしたことはない。ろくに関わることなく過ごしてきたのだから、まともに相対したことすらなかった。
言葉をよく選んでから、レイヴンはシンに答えた。
「あの子達に、というわけではないですけど……でも、村の人には、随分と前に……め、迷惑をかけてしまったので……だから……その……」
「恨まれて当然って? 何もしていないのに?」
何もしていない。それは今の自分に、刺さるような言葉だった。
シンの言う通り、レイヴンは何もしていない。生まれた時から罪人としての烙印を押され、恨まれながら、憎まれながら、生きてきた。いくら前世の記憶があれど、今を生きている自分は、彼らに何もしていない。
(でも……罪を犯したことは、本当だから……)
レイヴンは考えるのを止めた。それ以上を掘り起こしてしまうと、良くない考えに至りそうだったからだ。
首を振りながら、シンに答えた。
「彼らは子供ですから……周りが僕を悪いと言えば、悪いと思うだろうし……恨んでも、仕方がないと思うんです」
「……解せないな」
ボソリと呟くシンの声音は、普段よりも低かった。その表情も、今まで見せたことのない険しいものだ。
「子供だから仕方がないというのは、他の子供に対して失礼な台詞だとは思うが……まあ、それはこの際置いておくとして、だ。レイヴン」
「は、はい」
「子供をはじめ嫌われ者のお前がいなくなれば、村の連中の気は済むと思うか?」
二つの翡翠が、レイヴンを捉えた。
その問いかけに逡巡した後、レイヴンはポツリと呟くように答えた。
「わかりません………………でも」
確かなことは、一つだった。
「僕がここからいなくなることは、きっとないです」
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