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第1章 四月の魚 3.運命という常套句
「七星君、最近はどんな調子なの? 働いているのよね?」
精進料理の膳の向こうで美桜が七星を見据えていった。七星は箸を置き、さりげなく姿勢を正す。三回忌の法要のあとの会食は近い親戚八人の小さな席だった。七星の横には両親が、向かいにいる美桜の隣には義父が座っている。
「ええ、なんとかやってます。仕事はけっこう忙しくて」
「忙しいって……まだ同じところでアルバイトしているの? あそこでしょう、お母さまのお知り合いが運営しているNPOの」
「七星はアルバイトじゃないわ、美桜さん」
母の未来が口を出した。今日は新幹線に乗る前、乗ってから、到着時と、何度もあたふたと七星に電話をかけてきたが、法要が滞りなく終わった今はいつもの調子を取り戻している。
「私のコネでユーヤに入ったわけでもないですよ。たしかに祥子さんとは古いつきあいだけど」
「アート関係のNPOなんてたいしてお給料もらえないんでしょう? 今は大丈夫かもしれないけど、あなたまだ若いんだし、そろそろ先のことも考えないとね」
七星は口をはさもうとした未来を目で制した。
「僕は大丈夫ですよ」
「彰が残したお金があっても、ずっとひとりでやっていけるとは限らないでしょう。七星君はオメガだし」
美桜は亡くなった夫、彰の叔母で、今は兄と――つまり彰の父の晶久と同居している。独身のベータで、事故の直後、七星も晶久も茫然自失だったときにすぐ駆けつけ、葬儀をはじめ、その後のさまざまな雑事を進んで引き受けてくれた。今日の法要や会食のレストランを手配したのも美桜だ。
オメガの妻と息子を亡くし、気落ちしたアルファの義父がこの二年生活できたのも、美桜の支えがあったからだろう。親族に彼女が遠慮なくものをいうのは今にはじまったことではなかった。生前の彰はそんな叔母に時々呆れていたものの、ああいう人だから、というだけだった。
「美桜さん」
憤然として何かいいかけた未来の袖を七星はあわててつつく。
「母さん、いいから。お金……はともかく、住むところは彰が残してくれたし、今どきオメガだからどうこうってこともないですよ。それよりお義父さんはどうですか? 僕、このごろちょっと忙しくて、前みたいに連絡もできなくて、すみません」
義父の晶久は機械的なしぐさで首をふった。目元や鼻のかたちは彰によく似ている。落ちついた様子にみえるものの、自分の周囲で起きていることにろくに関心がないのは明らかだった。
「ああ、私のことはいいんだ。七星君は忙しいのか?」
「人手不足なんです」
「最近はどこもそうだな」
「でもその職場でほんとうに大丈夫なの?」
美桜がまたずけずけといった。とはいえ、彼女は七星に敵意をもっているわけではない。きっと無意識に見下してはいるけれども。
オメガ性は人の感情から漏れる匂いに敏感だといわれるが、七星はとくにそうかもしれない。敵意の匂いと軽蔑の匂いはかなりちがう。生活を守ってくれるアルファの夫がいない、可哀想なオメガ。美桜の世代のベータは男女関係なく、七星のような立場をそう決めつけていることも多い。とはいえ今の口調にはひっかかるものがあった。
「どういう意味ですか?」
「劇場とかギャラリーとか、人の出入りが多い場所じゃない。七星君みたいなオメガがいたら声をかけてくる人もいるでしょう?」
「二年経つからな」晶久がぼそりといった。
「私に気を遣わなくていいよ、七星君。まだ若いんだ。これから新しい出会いがあるだろう。実際、出会った方がいい。ひとりでいない方が杉野さんも安心だろうし。七星君が照井のままでいてくれるのは嬉しいが……」
七星は思わず両親のほうをみた。父の康太が穏やかにいった。
「今後のことは本人が考えていますから」
「そうね、子供がいなくて残念だったけど、七星君にとってはよかったかもしれない。アルファとオメガには知りあうための場所もあるし」
またもずけずけといい放った美桜に七星は内心うんざりしたが、母親の眉がぴくりと動いたのをみて、あわてて口をひらいた。
「今はほんとうに仕事が忙しくて、それどころじゃないんです」
「仕事といえば美桜さん、今度――」
父親が美桜に別の話題をふってくれたので、七星はその隙にトイレに立った。法事用のスーツのせいか肩が凝って仕方がなかった。鏡の前でネクタイを結び直していると、ひとつ離れた洗面台で手を洗っていたアルファがちらっと七星を見て、黙って出て行く。
夫が死んで半年もすると、こんな視線をあちこちで感じるようになった。彼がうなじを噛むことがなくなって、もはや七星は〈つがい〉ではなくなったから。
とはいえ今の時代、公共の場所でアルファがオメガをナンパするのはご法度だ。うっかりするとハラスメントで訴えられかねない。路上で許されるのはせいぜい行きつけの〈ハウス〉をたずねるまでだろう。
〈ハウス〉には相手を探しているアルファとオメガが集まる。といっても、必ずつがいにならなくてもいい。発情期のあいだだけ相手がほしいオメガもいるし、つがいは欲しくないアルファもいる。
七星の両親はアーティストである。杉野未来はオメガの工芸作家、杉野康太はベータの美術家、今は遠方に住居とアトリエをかまえているが、かつてはこの区内の、とある素封家の蔵をアトリエに借りていた。向かいの新興住宅地に照井家が引っ越してきたとき、七星も彰も小学生だった。七星は学校がおわると両親のどちらかがいるアトリエに直行していたから、自然に彰と知りあった。
七星がアルファの少年と仲良くしていると知って、両親は向かいの一家をアトリエにまねき、家族ぐるみのつきあいをはじめた。高校二年で七星のヒートがはじまったとき、彰はやや強引なやりかたで告白し、ふたりはつきあいはじめた。そのころになって母親の未来は七星にとある思い出話をした――かつて大学で名族のアルファに見初められ、捨てられた経験について。
「運命のオメガをみつけた、なんて適当なこというアルファ、ほんとにいるの。そんなのただの出まかせだから」
しかしそのあと未来は七星の父親になるベータに出会ったわけで、それもある意味「運命」ではないのか――と、そのとき七星は思いはしたが、要するに未来がいいたかったのは、運命を常套句にオメガを手に入れようとする身勝手なアルファがいる、ということだった。
そのせいか未来は〈運命のつがい〉の話も大嫌いだった。出会いがしらの香りに惹かれたから運命だなんて、馬鹿馬鹿しい。なにかというとそう聞かされて育ったから、七星もなんとなくそんなものだと思っていた。籍を入れるずっと前から彰とつがいになっていたから、大学でも他のアルファにじろじろ見られることもなかった。
オメガ性につきもののトラブルもなく七星が大学生活をすごせたのは彰のおかげだ。しかしそのあと、就活がうまくいかなかったり、避妊もしていないのに子供ができなかったりといったことが続き、しだいに彰とぎくしゃくするようになっていたのは、義父も美桜も知らない。
レストランを出て照井家の人々と別れたあと、七星は東京駅まで両親を見送った。二人ともひさしぶりの上京なので、夜は知人と約束があるという。
「美桜さんの話は気にしちゃだめよ」
母親が念を押すようにくりかえし、七星は「わかってるよ」と手をふる。
法事がはじまったのは午後二時で、今はもう夕方。せっかくの日曜休みだというのにぱっとしない気分だった。気晴らしでもできるといいのに、法事の黒スーツのまま遊びに行くわけにもいかない。
電車に揺られてぼうっとしているうち、いつのまにかうとうとしていたらしい。はっとして顔をあげると、七星の職場〈ユーヤ〉の最寄り駅だった。
しまった、乗り過ごした。
七星はあわてて電車を降りたが、反対側のホームまで走っていくのが急に馬鹿馬鹿しくなった。通勤定期があるのだし、この街は七星の庭のようなものだ。ぶらついて帰ることにして改札を出た。
庭のようなものといっても、駅の北側は再開発でどんどん姿を変えていた。七星の職場は駅の南口を出てしばらく歩いたところだが、北口を出てすぐのところには新しい施設が建っている。長いあいだ工事の高い柵に全体を囲まれていたが、今は半分取り払われ、柵のすきまからエントランスの広場がみえた。もっとよくみようと近づきかけて、七星の足は止まった。
この匂いは――昨日とおなじ……?
柵の前に長身の影が立っている。腕を組んで建物をみあげている、と思ったら、びくっとその肩が震えた。七星の方へゆっくりふりむく。
(出会いがしらの香りに惹かれたから運命だなんて、馬鹿馬鹿しい)
母親の声が頭を横切った。まったくその通りだ。たった今、この瞬間まで七星はそう思っていた。
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